うつわのおはなし 〜小鹿田焼・唐臼のある風景【後編】〜
約ひと月半ほど前のこと。
念願叶い、大分県日田市にある小鹿田焼の里を訪れることができました。
私が どんなに小鹿田訪問を熱望していたかということは、前回の記事で触れています。
小鹿田焼は、窯元の方々が 伝統を守りながら、自然の中で、自然と共につくりあげるもの。
もっと言えば、主導権は自然に譲りながら、その自然に寄り添い 丁寧に手を添えることで、
山に眠っていた土が、そのままの命を宿したまま うつわになるもの。
私はそのようなイメージを持っています。
自然への愛、畏怖、調和などといった心が 、うつわ という目に見える姿となってあらわれているように感じるのです。
今日は、そのようなことが少しでも伝わりますように...という願いを込めて、作陶の工程などを綴りたいと思います。
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小鹿田焼の概要
まずは、前回のダイジェストを。
小鹿田焼が焼かれるのは、大分県日田市源栄町皿山。
山あいの、急な斜面の川沿いに並ぶ、十数軒の家からなる小さな集落で、うち現在9軒が窯元です。
小鹿田焼が誕生したのは、今から約300年前の江戸時代中期のこと。
まず福岡県で「高取焼」が誕生し、それが元になって「小石原焼」が開窯し、その小石原から陶工を招いて開かれたのが小鹿田焼です。
その誕生の流れについては、「うつわのおはなし~高取焼と小石原焼」で触れましたのでよろしければご覧ください。
小鹿田焼の最も大きな特徴と言えば、一子相伝で脈々と受け継がれ、自然の中で昔ながらの 手作りの伝統を守り抜いているということでしょう。
外からの弟子も一切受け付けず、ご家族総出で全ての工程をこなし、時間をかけて制作します。
また、窯元全戸が共同一致の精神でつくりあげるもので、うつわに個々の窯元名や個人名を刻むことはありません。(世に出るものについては。)
山奥の小さな集落で誕生した小鹿田焼は、昭和に入ってから、民藝運動により一躍脚光を浴びることになりました。
昭和6(1931)年に、民藝運動のリーダー・柳宗悦がこの地を訪れ、『日田の皿山』を著して称賛し、
さらに、戦後 昭和29(1954)年に、柳の朋友であり日本の美術界に多大な影響を与えたイギリス人陶芸家・バーナード・リーチが小鹿田で制作を行ったことで、一気にその名が広まったのです。
リーチが来訪するということは、とてつもない大事だったようで、県をあげての歓迎ぶりは、驚くようなものでした。
その「小鹿田焼」は、1995(平成7)年には国の『重要無形文化財』に、
2008(平成20)年には「小鹿田焼の里」が『重要文化的景観』に、
1996(平成8)年には「小鹿田の唐臼」が、『残したい“日本の音風景100選”』に、
それぞれ指定・選定されています。
国の重要無形文化財の『技術保持団体』として認定されたのは、窯元10軒(現在9軒)で構成される「小鹿田焼技術保存会」です。
人ひとりが認定されると「人間国宝」と呼ばれますが、小鹿田の場合は皿山の窯元全体が、ひとつの国宝とされたのです。
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小鹿田焼の工程・唐臼のある風景
さて、ここからが今日のおはなし。
文化庁HPによると、小鹿田焼が国の重要無形文化財に指定された理由の中に
『伝統的な用具を使用する』 という文言がでてきます。
この「伝統的な用具」とは、動力に電気やガスを一切使わない道具のこと。
現代の 他の窯業地と照らし合わせると、信じられないようなことです。
一口に ”手づくりの伝統を守る” と言っても、それは容易いことではありません。
その 伝統的な用具を用いた 手づくりの工程とは、具体的にどのようなものなのか、
私が撮った拙い写真と、先述のバーナード・リーチが遺した貴重な言葉を添えて綴りたいと思います。
リーチの言葉は全て、
から引用します。
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ー 小鹿田焼の工程 ー
①原土の採取
②原土の乾燥
③唐臼による原土の粉砕
④手作業による水簸
⑤天日干し等による水抜き
⑥手作業による土練り
⑦蹴轆轤による成形
⑧天日干しによる乾燥
⑨飛び鉋等の装飾・施釉薬
⑩登り窯による焼成
⑪窯出し
⑫販売
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①原土の採取
年に一度、集落近郊で、全窯元が共同で原土を採取します。
みんなで採った同じ土を、みんなで分けて使うのです。
ー ここから先は、各窯元での工程となります。 ー
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②原土の乾燥
土を里に運び、数日間乾燥させます。
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③唐臼による原土の粉砕
原土を粉砕するのは、「伝統的な用具」の象徴とも言える 唐臼。
残したい“日本の音風景100選“に選ばれた、“音風景” の主です。
唐臼とは、川の水力を利用して原土を砕く道具で、例えるなら “巨大な ししおどし”のようなもの。
“ししおどしの先に、餅つきの杵を合体させたもの”、と例えれば、さらにイメージが近づくでしょうか。(どうでしょう…。)
抉られた木に 川の水がたまると、その重みで重心が反対側に移り、杵が降りて ごっとん!と土をつきます。
皿山には、あちらこちらに唐臼があります。
手押し車をひく方とすれ違ったりしながら、山の斜面を歩くと、
「ギーー ごっとん。・・・」
また歩を進めると、違う場所から「ギーー ごっとん。・・・」
皿山の至るところで唐臼が稼働し、
遠くで、近くで、唐臼の音が響きわたります。
川のせせらぎとともに、止むことなく響くその音は、体中に静かに伝播するようで、いつまでも、いつまでも、聴いていたくなりました。
とても有難いことに、唐臼の小屋の中まで入らせてくださったお宅がありました。
その唐臼は、他のものと比較して 受ける水量が多く、リズムが早かった(杵を打つ 音の間が短かった)ように感じましたが、その分、次の音が待ち遠しくならずに済んだように思います。
その動画を撮らせていただきましたので、こちらに。
近くで聴くと、迫力があります。大きな音がしますので、ご注意ください。▽
昔は、全国のあちこちの やきものの産地で、唐臼が使われていたそうです。
私が好きな有田にも、唐臼の跡が残っています。
でも、今ではその姿は各地で滅多に見られなくなりました。現役で稼働しているものとなれば なおさらです。
(私がこれまでに見た中では、伊万里の里・大川内山で、再現されたものがあります。)
今現在、窯元全戸が唐臼のみで この工程を行う集落は、世界でたったひとつ、小鹿田だけだと言われています。
ところで、小鹿田の皿山は、2017年の九州北部豪雨により 壊滅的な被害を受けてしまいました。
全ての窯元が被災し、流木で工房が壊れてしまったお宅や、押し寄せた土砂で唐臼の小屋全体が埋まってしまったお宅もあったようです。
皿山全体では、当時45基あった唐臼のうち、14基が流出または損壊してしまったとのこと。被災後は、集落にあふれる土砂や流木等の影響で、損壊したものだけでなく全ての唐臼が稼働をストップしてしまったのだとか。
想像するだけで、胸がギュっと締め付けられます。
そこから窯元の方々は、ボランティア等のあたたかな支援を受けながら 力を尽くされ、現在は見事に復旧しました。
先程の動画の唐臼が新しそうに見えるのは、被災後に復元したものだから。
伝統的な用具を使うということは、現代社会においては非効率なことでしょう。
でも、たとえそれが壊れても流されても、同じものをつくり、使い続けるのです。
この “残したい” 音風景は、守り抜く意志と奮励努力がなければ、きっと 後世には残らないのです。
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④水簸
土を水で溶いて、粒子を整える工程です。
唐臼で砕いて粒子状にした陶土は、水槽に入れてかきまわし、できた泥水は、繰り返し漉しながら となりの水槽へ移してゴミなどを取り除きます。
これは、どこの窯元でも女性の仕事とされているそう。
皿山を歩くと、お母さんが水槽の前に立たれて、木製の船の櫂のようなもので攪拌したり、大きな柄杓のようなもので それをとなりの水槽へ移したりしている姿が見受けられます。
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⑤水抜き
水簸して濃縮した泥土を、「オロ」と呼ばれる ろ過槽に移し、水抜きします。
これも女性の仕事です。
それをさらに、天日や 乾燥窯の上で乾燥させると、これでやっと“陶土”になります。
それにしても、陶土がこんなに美しいものだとは…。
手間暇かけられてつくられた陶土は、山里にゆれる風と、陽の光を享けて、見たこともないような優しい光を放っていました。
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⑥土練り
現在では、ほとんどの生産地・窯元が、土練機という機械を使用して土を練りますが、小鹿田では、手作業で土を練ります。
若い男性でも息を切らし、汗をかきながら行うような工程です。
小鹿田の土は粘りがあるそうですから、なおのこと 大変な作業なのだと推察します。
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⑦成形
練った土を形にします。
形成に使用するのは、足で蹴って回す蹴轆轤です。よく見る電動轆轤ではありません。
うつわの形や大きさにより、「引きづくり」、「玉づくり」、「紐づくり」という3つの技法を使いわけるそう。
3つ目の「紐づくり」は、まさに蹴轆轤ならではの技と言われています。底部になる部分をしっかりとつくったあと、太い紐状にした粘土をその上に巻き上げ、大きなうつわを形成する方法です。
また蹴轆轤は、ほとんどの窯元で2台並べて置かれており、父子が並んで作陶されています。
その轆轤が、多くのお宅で窓辺に置かれているのは、自然の灯りを取り入れるためだとか。
小鹿田焼は、どの場面でも、自然の恵みを享けながらつくられるのです。
ところで、先ほどの唐臼で陶土を砕く工程には、約1カ月近くかかるとも言われます。
おそらく、そのテンポでやきものをつくり続けることができるのは、多くの陶工を抱える窯場と異なり、小鹿田のやきものは父子がひく たった2台の轆轤でつくりあげるものだからでしょう。
リーチは本の中で、唐臼でゆっくりと砕く土について『年中轆轤するのに十分』であるとか、『コンクリートの建物に新式の電気装置の機械を取り付けたが 村人たちにとって必要以上の陶土ができる』(だから電気装置は不必要だった)と言っています。(p284)
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⑧乾燥
成形を終えたうつわは、「ツボ」と呼ばれる前庭で、天日干しします。
かつて小鹿田の皿山では、半農半陶の生活をしていたといいます。
現在は全ての窯元が専業化していますが、リーチが滞在した頃には、ニワトリが駆け巡っていたのでしょう。
ちなみにリーチは、窯元が専業化することを憂いていました。
古来 小鹿田焼の持つ『気楽な、本然の豊かさ』は、『この山間の農民の生活から生まれたもの』であるとし、
当時の県知事などが陶工たちの専業化を望むような発言をした際に、『賛成できなかった』と言っています。(pp.296-297)
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⑨装飾・施釉薬
乾かしたうつわに、装飾を施す工程です。
小鹿田の土は、鉄分を多く含み、黒みがかった茶色い色をしています。
その黒い土の表面に、白い土を薄く溶いて覆います。これを「白化粧」といいます。
うつわを覆う白土に指や道具をタッチして模様をつけると、下の黒い土が顔を覗かせて、白化粧による装飾ができるのです。
現代では黒いうつわもステキだという感覚がありますけれど、昔はとにかく白い色が美しいとされていたようで、白化粧による装飾はいくつかの産地で見受けられます。同じ九州北部の唐津焼でも、古くから施されてきました。
唐津といえば、近世の九州のやきものの始まりの地ですから、白化粧は九州北部の伝統的装飾とも言えるかもしれません。
小鹿田では、白化粧で描く 「飛び鉋」と「刷毛目」の技法が大きな特徴です。
どちらも轆轤を回転させながら道具をあてて描く技術です。
■飛び鉋
白土がある程度乾いてから、ヘラ(カンナ)をあて、中心から外に向って描きます。
■ 刷毛目
白土が乾く前に、刷毛をあてて放射線状に描きます。
※飛び鉋の技法は、宋時代の「飛白文」との類似が見られると言われます。
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また、その上から装飾として施される釉薬には、褐色と緑色の2色が使われます。使われるのは、この2色のみです。
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⑩登り窯による焼成
登り窯で焼成します。
登り窯とは 、いくつかの焼成室からなる、傾斜地を利用してつくられる窯で、薪を焚いて焼くものです。
皿山には、共同窯と個人窯 合わせて6つの登り窯があり、皿山を歩けば必ず観ることができます。
▽煙突から煙が出ている絵が登り窯。
登り窯での窯焚きは、真剣勝負だと聞きます。
窯入れにあたっては、長年の経験をもとに 火のあたり具合を想定し、それぞれのうつわを適切な位置に配置します。
そして一度火を入れたなら 夜通し見守り、火と向き合い、薪を入れるタイミングを図らなければなりません。
温度が低すぎれば釉薬が溶けないでしょうし、高すぎれば うつわが割れてしまいます。
採掘した原土が陶土となり、形になり、模様がつくまでに、長い長い時間と労力が かかっているうつわたち。
この最後の大仕事があって、小鹿田のうつわは完成します。
ちなみに、お皿は窯の中で重ねて焼くため、上に乗せたお皿の高台のあとが丸く残ります。
これが小鹿田の「景色」だと言われています。
▽高台の部分が白い輪に。
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⑪窯出し
⑫販売
窯出しをして、販売します。
展示・販売されている場所は、どのお宅も無人でした。
扉も開けたままになっていて、自由に出入りすることができます。
何か用事があれば、
「すみませーん!」と大きな声を出してみたり、
入口付近にそっと置いてある鈴を「ちりん、ちりん」と鳴らしてみたり。
また軒先の干し柿の前でひなたぼっこをしている おばあちゃんに声をかけたり
庭先で「どんぐりやさん」を開いている子どもたちに尋ねてみたり。
働く方々の姿と併せ、こうした日常の穏やかな時間を過ごす方々の姿が景色に溶け込み、唐臼の音がたゆたう風景を、より豊かに描いているようでした。
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ミルクピッチャー型のうつわと、うるか壺
最後に、小鹿田焼の特徴あるうつわ2種について。
小鹿田では、お皿などを中心とした日用使いのうつわが焼かれていますが、この2つは、特徴的なものです。
ミルクピッチャー型のうつわ
ミルクピッチャ―型の、把手のついた水差しです。
300年前から伝統を守る小鹿田焼にあって、西洋的なミルクピッチャーとは珍しい気がします。
訪れたリーチも、『妙なことだが、日本全土で把手のついた水差を古くから作っているのはここだけなのだ』と、驚いていました。(p291)
リーチは、オランダまたはポルトガルの影響だと考えていたようです。
そしてその水差は、リーチの教えにより、把手の技術が格段に向上したそうで、現在でもリーチによりバージョンアップされた水差しは、小鹿田の里で作り続けられています。
リーチ自身は、小鹿田に『学びに来た』と言っていますが、小鹿田の人々からすれば、いかに多くのことをリーチから学ぶのかに懸命だったはず。
それは、リーチの日々の日記からも伺えます。
日本の山里の伝統と、西洋の技術が融合したような小鹿田の水差しは、
里の人々とリーチが互いに尊重し合い、与えあい、学び合う心が共鳴した姿なのだと思えてきます。
うるか壺
どこか懐かしさを感じる形の壺。
蓋付の壺と言えば、昔は生活の必需品(例えば味噌など)を貯蔵するための道具として、全国で焼かれていました。
今も、どこにでもありそうな形のようにも思いますけれど、実は探してみると、他ではほとんど見られなくなっています。
小鹿田では、今なおこの形がつくり続けられており、
中でも、写真のように小振りのものは「うるか壺」と呼ばれて、小鹿田の特徴的なやきものになっています。
「うるか」とは、鮎の内臓の塩漬けのこと。
昔は唐臼のある川に生息する鮎から、塩辛をつくってこの壺に保存していたのでしょう。
なんともかわいらしい壺。眺めるほどに愛着がわいてきます。
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さて、ずいぶん長々と おはなししました。
前回から綴ってきた小鹿田焼。
いま少し思うことは、、、
窯元の方々のあたたかな手と、
皿山の土と水とお天道様と、
炎と木と空気と、
そこに流れる緩やかな時間と、
それと。皿山を包む深く大きな何かが、
小鹿田焼という やきものをつくりあげているのだと。
今年のうつわ旅では、有田の地で、コンピューター技術を駆使した最先端の作陶技術も拝見することができました。それもとても素晴らしいものでした。
(有田の窯元の中でもその技術を有するのは、もしかしたら一軒だけかもしれません。)
拝見したのは 小鹿田を訪れた後のこと。うつわの発展を目の当たりにして、心が震えるのを感じました。
もちろん小鹿田も その有田も、いずれも日本の伝統美を宿しているものであって、その美に優劣などあるはずもなく。
それぞれに歩む道があり、とりまく世界があり、もしかしたら定められた(変えられない)運命のようなものもあり、そして かけがえのない固有の宝物も内包し、
その中で何を探求してゆくのか、どうあるのか、
それは人の人生と似ているのかもしれないな、とも。
またいつか、小鹿田の里を訪れたいと思っています。
そして、再訪のときには、もっと深く小鹿田を理解している自分でありたいと願います。
自然と人間の営みが織りなす尊い音風景が、あの里にいつまでも在り続けますように。
この長文を、最後までお読みくださいました方に、たくさんの感謝を♡
ありがとうございました。
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おわり。
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