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善悪の彼岸の彼岸。

 ふと、今朝ニュースを見ながら、ある芸人の放った言葉に意外性を感じていた。
 「ダメな人の会見見たって、腹が立つだけなんです。ダメなんだから、見たってしょうがない。だから、謝罪会見とか見たくないんです。」
最近、様々な芸人の番組を見ながら、彼らの純粋性や、一種の潔癖な面を見るたび、「これは、意外な結果だなあ」と、ぼんやりと思う。
一部、夫に口に出して話してみたが、「じゃあ、江頭さんもそうなの?」と、聞かれて、どのような文脈から、江頭さんにたどり着いたのかは、私にはわかりかねたので、今回の話に、江頭さんの性格も交えて話せば良いのだろう、と判断した。

単純な話、芸人は、あんな汚い業界にいながら、意外と自分たちは特別汚れていないと、思っているふしがあるように感じた。
芸一本で食っている。だから、俺たちは特別だ。あんたらテレビ人とは違うんだ。そういう姿勢が見え隠れしていることは、私の中で大変意外だった。

おそらく、系統分けしたら、様々なものが出てくるだろうが、芸人は、劇場で食っているだけの芸能とは違う。パフォーマンスとして、テレビに出ていながら、平気で上記のような精神状態を持っていることが、不思議であった。
これは、おそらく、様々な創作世界の中で多数存在しているのだろうが、ある種の正義感と倫理観が異常に強く、潔癖で、ストイックで、まじめ。つまり、非常に普通の人が多いのだが、概ね、芸人の中で、「ダメな人は観たって駄目」という言葉が出てくる時点で、良い気になっているのだろう、としか思えなかった。

人間とは本来ダメで、醜悪なものであり、それらを見せられて、憤慨するほうが、どうかしている。大概の人間はそれにヒステリックな反応を示すより、「ああ、またか」で終わることのほうが当然であるのに対して、醜悪な実態を見せられて、ヒステリーを起こすのは何なのだろうか。

江頭さんに関して言うなら、世代の違い。彼は、おそらく自分を「ドブネズミ」だと、言いきれる強さを持っている。
しかし、最近の世代の芸人は、ちやほやされ過ぎて、ドブを舐めたことなどないのだろう。それが世代間ギャップとして、芸人を特別扱いさせる風潮も重なり、奇妙なアイデンティティーを作り出しているように見えた。

80年、90年代の芸人といえば、「モテない。うけない。汚い。」そういう世界で、更に自分たちも決して「きれいじゃないけど、これで生きるんだ」という、一種の泥臭さがあり、それが気骨として生きていたから、「笑い」は面白かったのだろう。「笑い」は一種の暴力であり、その暴力の上を歩き渡るのが芸人なのだとしたら、ニュースキャスターぶって、醜悪な人間を前に、正義感や倫理観を振りかざしては、いけない。単純に、退屈なのである。

しかし、正義感のもつ暴力性について考えてみると、お笑いをやっている暴力人達にその奇妙な精神論が同居しているのは、なんの不思議もないのかもしれない。
正義感や、倫理観というものは、時に人の情というものを離れて機能することを見ると、単純な「良し悪し」というものでは、片付かない世界である。
しかし、潔癖な芸人たちは、自分達は良いものだと思っているし、良いことをするのが当然だと思っているし、そこから外れるのを、どうしようもなく嫌っている。

その裏側にある心理は、自分たちがサラリーマンではない、というところからきているのだとしたら、サラリーマンとしてテレビを機能させている業界人達を責めることはできないはずだ。
組織に属している限り、個人の善悪から離れた、微妙な決定や実行を強いられることは、当然であり、それに対して従っている自分、もしくは他人を卑下して生きてゆくことは、時間の無駄なので、あまりおすすめはできない。

人の醜悪さを見たとき、人はどれだけ冷静でいられるのか。
ヒステリックな反応を示すほど、彼らは「俺、私たちはこんなことは絶対にしない」と、本気で信じている危うさにある。
ジョーカー事件の論考でも書いた通り、誰もがその悪というものに向かう可能性があることを、忘れてはいけない。

そして、悪とは何なのか。正義とは何なのか。その話はまた、別の機会で考察してみたい。

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