薔薇と男
あるところに、大変に薔薇を愛してやまない男がおりました。
男は毎日、薔薇に愛の言葉を囁きながら、錻(ブリキ)の如雨露で優しく水をかけてやります。
その時に、小賢しい尺取虫がついていないか調べたり、土が乾いていないかも入念に調べていました。
男は、ただの花好きや、園芸屋ではありませんでした。
野山に逞しく咲いている野ばらを見ても、花屋に売っている色とりどりの薔薇の花束を見ても、物好き達がこぞって見せ合いをしている、丁寧に育てられた薔薇を見ても、人並みに綺麗だな、と思うだけで、自分の隣に咲いている真紅の美しい彼女には、とても敵いません。
薔薇は、彼の妻だったのです。嵐が来れば大急ぎで鉢ごと家の中に入れ、日照りが続くようなら、日除けを作って炎天下の日差しから守ってあげるのでした。
もし、何かの不注意で彼女が枯れてしまうような事があれば、男も悲しみのあまり、その後を追ってしまうでしょう。
男は偶に、その事について考えてしまう事がありました。夜寝るために布団に入り、うとうととしていると不意に、明日目が覚めたら、彼女が枯れてしまっていたらどうしよう、とか、夜中に目が覚めた時にもし、彼女が先に死んでしまったら、自分はこの先どう人生を歩んでいったらいいのだろう、とか。
漆黒の影や宵闇に棲む魔物が、人間の良からぬ考えを煽って、増幅した不安を食べに来るような夜を、男は幾つも過ごしました。
どうせ、こんな事を周りの人間や知人に話しても、頭がおかしい男の戯言だ、と相手にされない事でしょう。そんな事は、この男も分かりきっていましたし、彼女を花ではなく、人間と偽って相談したとしても、周りはそんな事をいちいち考えるなんて、阿呆だ、とか俺もそんな気持ちがわかるよ、という僅かで何の役にも立たない慰めが返ってくる事でしょう。
男の世界には、もはや薔薇と自分しかいませんでしたし、他には何もいりませんでした。
本当に、彼が望んでいることは、薔薇が少しでも長く生き永らえる事と、神に許される限り、その隣に自分がいる事だけでした。
天上のただ一つの宝石のような朝日が昇るのを二人は幾つも見て、その宝石がダイヤモンドから、ルビーに変わったような夕焼けも何回も眺めました。男はそんな毎日が堪らなく愛おしく、そして真に幸せだったのです。
しかし、先に死んでしまったのは、男の方でした。
その日の男は、とても良い肥料を手に入れて、一目散に家に帰っている途中でした。
喜びのあまり、前の角から馬車が飛び出してくるなど考えなかったのです。男はその日のうちに棺桶に入れられ、まもなく葬儀がとりおこなわれました。
男の父母と数少ない友人達が男を弔い、墓の下の土に埋められていく様子をずっと眺めていました。
それから数日経って、男の家を掃除していた父母が美しい薔薇の鉢植えを見つけました。
父母は、まさか自分達の子供が、この薔薇を妻として大事に扱っていた、なんて事は思いもしなかったのですが、その鉢植えの薔薇は不思議と男が埋まっている墓所の方角を見つめるように、花と蕾を伸ばしているように見えました。ちょうど、向日葵の花が太陽を睨んでいるように。持って帰って、世話をする気にもなれず、父母はその薔薇を鉢植えから、男の墓石の周りに植え替える事にしました。
狭い鉢から、墓場の陰気な土に植え替えられた薔薇は、ぐんぐんと伸び、墓石の周りを茨がぐるりと取り囲み、真紅の花弁が男の墓を護るように咲く様になりました。
父母は、広い土に根を下ろしたお陰で、ここまで大きくなったのだろう、と考えていましたが、私にはその様な理由ではなくて、この薔薇が男の愛情をきちんと受け取って、そのお返しをしているのが分かっていました。
もうそれから幾分も経って、男も父母も友人達も亡くなりましたが、薔薇はいつまでも男の墓の周りに咲き続けていました。
隣の墓まで、無作法に伸びることは無く、茨が何重にも何重にも、咎人を閉じ込める檻のように形作られていきました。
墓石に刻まれた男の名前も、茨の隙間からすっかり見えなくなっていきました。
もう誰もこの世に、この墓の下に眠る男と、その周りに咲く薔薇が愛し合っていた、と知る者はいませんでしたが、偶に墓参りにやって来る人達は、一つの墓石をぐるりと取り囲む、恐らく弔い花であろう薔薇の上に朝露が降り積もり、その幾重にも重なった花弁から清らかな雫が落ちるのを見ると、なんだか、その薔薇が泣いているように見える、というのでした。
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