終わりの夜伽
「ねぇ? おかあさん?」
つぶらな瞳が、添い寝する母親を正視して尋ねた。
母親は我が子が安らかな眠りに就けるように、ポン……ポン……と緩やかなリズムに体を叩いてあげていたが、どうやら子供特有の強い好奇心というものは睡魔の誘惑すら跳ね退ける強力な結界らしい。
だから、柔和な微笑みで聞いてあげる事とする。
「なあに? ぼうや?」
「いちばん強い動物って、なあに?」
他愛のない質問である。
実に子供らしい疑問である。
脈絡もない発想であり、実用性も伴わない。
知ったところで、どうという事はない。
知らずとも、人生に支障はない。
それでも、実に子供らしい。
無垢で汚れのない吸収欲。
だから、母親は答えてあげる事とする。
「そうね。ライオンかしら?」
「ライオンさんなの?」
「ええ、そうよ? ライオンは〝百獣の王〟って呼ばれているぐらいだもの」
「ライオンさん、おうさま?」
「ええ」
ポン……ポン…………。
「ん~~」
我が子は些か納得のいかない表情に曇った。
「どうしたの?」
「ゾウさんは?」
「え?」
「ゾウさんは大きいよ? ライオンさんよりも大きいよ?」
ああ、そうか。
思い出した。
この子の御気に入りは〝ゾウさん〟だった。
動物園へと連れて行けば真っ先に駆け目指し、檻の前では飽きずに見入っていたものだ。
その嬉々とした笑顔が思い出すに可愛く愛おしい……。
だから、母親は答えてあげる事とする。
「そうね。ゾウさんは、とても大きいから、きっとライオンさんも敵わないわね」
「ゾウさん、大きいから強い?」
「ええ」
「ライオンさんよりも?」
「ええ」
ポン……ポン…………。
「大きいの、強い?」
好奇心は鎮まらない。
むしろ以前より活性化した。
が、それならそれでもいい。
母親は付き合う考えに落ち着いていた。
「だいたい大きいものは強いのよ? ゾウさんも、ゴリラさんも、クジラさんも……」
「ねぇ? おかあさん?」
「なあに? ぼうや?」
「いちばん大きい動物って、なあに?」
「そうねぇ……クジラさんかしらね?」
「クジラさんなの?」
「ええ」
ポン……ポン…………。
「ボク、もっと大きいの知ってるよ?」
子供特有の博識披露が目を覚ました。
吸収した知識は吐き出したくなるものだ。
ましてや、このぐらいの幼年期ならば……。
だから、母親は聞いてあげる事とする。
「あら? 何かしら?」
「アラビアンナイトの鳥!」
「ロック鳥?」
「うん!」
実に子供らしい荒唐無稽な連想であった。
空想産物と現実が並列的に扱われている。
とりわけ〈怪物〉という存在は、無限の自由発想に一際眩い輝きを彩る宝石であった。
そして、その奔放さは幼少だから許される特権だ。
大人になるに連れて、そうした発想は幼稚と社会風潮から抑制される事となる。
だから、母親は広げてあげる事とする。
「もっと大きいのもいるのよ?」
「ロッチョーよりも大きいの?」
「ええ。それはギリシアの〈テュポン〉と呼ばれる怪獣。いっぱい蛇の頭があってね、山よりも大きいの」
「怖い」
子供らしい素直な恐々が可愛らしく、母親はクスリと苦笑した。
「そうね。とても怖いわね」
ポン……ポン…………。
「その怪獣、強いの?」
「ええ。神様が逃げ出しちゃうぐらい」
「すごーい!」
今度は一転に純粋な驚嘆。
本当に子供の一喜一憂というものは色を変える。
見ていても飽きないし、また愛くるしい。
だから、母親は続けてあげる事とする。
「もっと大きいのは北欧神話の〈フェンリル〉かしら?」
「フェーリル?」
「とっても大きな狼でね、口を開くと空と地面まで届くのよ?」
「大きい!」
「そうね」
母親もまた、子供の頃から空想物語が大好きであった。
若い頃は、それこそどれだけの神話本を買い漁って読み耽った事か。
やめたのは、いつだったか……。
幼稚な趣味と周囲から蔑笑されたので封じた。
大人になるなら子供騙しから醒めて、それらしい実用的な趣味にしなさい……と。
それが、こうして役立つ日を迎ようとは……。
微笑ましく嬉しい遺伝であった。
「強いの?」
「ええ、神様と相討ちになるぐらい」
ポン……ポン…………。
「それが一番?」
「もっと大きいのは、アフリカの〈ダ〉という蛇」
「どのぐらい?」
「地球を何周も巻くぐらい」
「ええ? すごーい!」
ポン……ポン…………。
ポン……ポン…………。
ポン……ポン…………。
語る愛情に包まれ、いつしか子供は寝入っていた。
興奮が精神的な疲労を心地よく誘発したようだ。
スヤスヤとした寝息が愛しい。
だから、母親はそっと額にキスをする。
ありったけの愛を込めて……。
「おやすみなさい、私のぼうや……」
そして、静かに屋外へと出た。
母親は知っていた。
この世で〈一番強いもの〉を……。
それは如何なる動物よりも強く、如何なる怪物よりも恐ろしい。
眼前の光景は、その立証に他ならない。
荒廃と汚れた土壌は地平と広がり、瓦解にくすんだビル群が文明の墓標と呪詛を唱う。
人間───。
その恐ろしくも愚かしい者の名は、人間────。
あらゆる生態系を滅ぼし、命の源泉たる自然を食い潰し、そしてまた一夜にして自らの存在すら歴史から抹消してしまう強者。
黒塵を孕んだ風が吹き抜ける。
死の灰を踊らせる洗礼が凪ぎ去る。
それに呑まれるかのように、防空壕に残留した二対の思念は陽炎と掻き消えた。
さりとも、風は知っていた。
この世で一番強いもの──それは死して尚、我が子を慈しんで止まない〝母親の愛情〟だという事を。
[終]
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