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魚眼ノ箱庭

 満足な環境であった。

 水質は澄み、酸素は潤沢に湧いた。

 適度な水草がそよぎ、戯れる岩礁も据えられている。

 空腹を覚え始めた頃には水面から餌は降ってくるのだから、此処へと移り棲んでからは飢えた覚えも無い。

 日々の糞尿で少しばかり水質が濁りを生じたとしても、不思議と朝には新たな快適と再生するのだから気にする事でもなかった。些か警戒を覚えるとすれば、その予兆には大きな地震が起こる点だが、然したる被害も無く鎮まるのだから過敏に構える必要も無いだろう。時折、数匹が神隠しに遭ったが、直後には戻って来ている。

 とはいえ、潮流とは無縁な静寂に在るせいで、ひっきりなしの回遊は自発的に継続せねばならぬ。

 領海の果てが気になりはしたが、行けば目に見えぬ結界が鼻先を叩くものだから、止む終えず引き返すしかない。奇妙な理だが、この障害は東西南北に聳えていた。先に世界は広がっているようだが、どうにも進入は叶わなかった。透明とはいえ障壁越しでは明瞭な視認も侭ならない。

 だから戻る。

 遊泳を繰り返す。

 そうした日々が続いた。

 不満は無い。

 快適だ。

 此処は神が与え給うた楽園に違いない。

 そんなある日、大きな震動が私の世界を襲った。

 毎朝恒例となった地震ではない。

 明らかに大きい。

 とはいえ、すぐさま水中は鎮まりに呑み、いつもと変わらぬ環境に落ち着く。

 きっと外界では、とんでもない惨状が生じたに違いない。

 憐れな事だ。

 それに比べれば、此処は楽園である。

 泳ぐ水域に変化は無い。

 外界での異変発生時には微々たる影響が反映されるも、次の瞬間には快適が変わらずに在った。

 此処へ移り棲んで正解だ。

 多少不可思議な世界ではあるが……。

 ひとつ気になるのは、水質浄化が微々と劣化した点か。

 糞尿や食いカスは浮遊に漂う。

 とはいえ、気にするほどでもないだろう。

 数日か数ヵ月かは定かにないが、再び異質な大地震が襲った。

 しかしながら、やはり直後には鎮まるのだから問題ない。

 つくづく外界の者達には憐憫を抱く。

 この楽園は変わらぬ。

 快適な環境は損なわれない。

 少し水温が上がった気はするが……。

 またもや大震動である。

 今度はそれなりに長かった。

 それでも、やはり鎮まる。

 私が呼吸する世界は変わらない。

 いまにして思えば、これが最後の異質震動であった。

 次第に水質は淀み、エサは降らなくなり、酸素も涌かず、水草は腐った。

 到底生きられぬ世界と変わり果てたが、かといって逃げ道は無い。

 四方は透明な壁によって閉ざされた結界なのだから……。

 そして、総ては干上がった……。

 楽園も……。

 私も…………。

 最初はリビングにて愛でられた。

 見慣れてきた辺りで気分任せに玄関先へと飾られた。

 やがて庭先に移されると、どうやら世話も面倒になってきたらしい。

 そして、最後には不法投棄に運ばれた。

 水槽の中に泳ぐ魚の目には水槽の中しか映らぬ。

 それが〝総て〟でしかない。

 外界からの視点は判り得ぬのである。

 例え〈楽園〉が何処へ推移していようとも……。

 さて、私はいま〝何処〟に居るのであろうか?

[終]

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