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美しさについて考える

みなさんは「美しさ」について考えたことがありますか?


デザイナーという職業なら自分が美しいと感じるものものをある程度定義づけて言語化出来ないといけないと思っています。

自分が美しいと感じるものはなんとなく理解しているし頭の中ではぼんやりとそのビジュアルも思い浮かべることができます。けどそれを「言語化しろ」と言われると難しい、というかそもそも美しさについて考えることが少なかったのかもしれません。

だから美しさについて考えてこの記事で言語化し、「美しさとは何か」の僕なりの答えを知りたいと感じました。

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本題に入る前に、
あくまで個人的な美しさの定義について書いているもので、決してこれが正解というものではありません。個人個人が考えて自分が思う美しさを定義してみて下さい。

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01.美しさを知りたくなったきっかけ

なんでこんなに僕が美しさについて知りたくなったのか。

それは最近読んだ三島由紀夫の金閣寺という小説に影響を受けたのがきっかけでした。この本を読んでいくと物語の中で定義づけられた「美しさ」のビジュアルが見えてきます。

金閣寺の美しさや、登場する女性の美しさ、それに対照的に描かれる主人公の人間的な心情が事細かく比喩的に描かれています。

ここで描かれている美しさは儚いものや手の届かないものを美しいと定義していると僕は解釈しました。それを主人公の心情と対比的に描く事でより「美しさ」を強調しているように感じました。


美しさを強調する際に対比的に表現する事はよくありますが具体的には後ほど記述しています。

この記事を書いている段階ではまだ半分程度しか読めていませんが、言葉だけでここまで美しさの情景を表現できるのかと感動しました。

流石にこの小説ほど言語化するのは難しいですが僕の少ないボキャブラリーの中でできるだけ言語化していこうと思います。笑


02.美しいと感じた根源

美しさを定義していく過程としてまず美しいと感じた根源から遡ろうと思います。生まれた時から何かを美しいと感じていたわけではありません。日頃の見てきたものが感性となって美しさの定義につながっていきます。

そんな僕の美しさの根源はズバリ侘び寂びです。

侘び寂びとは人の手が加わらない自然的で朽ち果てた様に美しさや趣を感じたりする日本特有の美意識の一つです。海外の美術はいかに装飾的か豪華かが美しさの定義でしたが、それとは対比的な美意識が日本には根付いています。


そんな侘び寂びに初めて触れたのは小学生の時で、家族に連れて行かれた京都にある龍安寺の石庭を見たのがきっかけでした。

龍安寺の石庭は世界遺産にも登録されていますが設計者はいまだに不明で今でも謎が多い遺産の一つです。その頃はあの庭が侘び寂びなことを知る由もなかったですが、大学に入りデザインを勉強していくうちにあの庭の設計が侘び寂びだったことに気づきました。

一見この庭は決して美しいとは言い難い容姿をしていました。装飾などはなく、白い砂で水面を表現した枯山水に苔がまばらに散りばめられていてその中心に15個の大小の石が置いてある。だけの庭です。

しかしこの庭の奥は深く、美しく魅せるための緻密な計算がされています。

ただ無作為に設置さてた15個の石は黄金比を元に設置位置を決めたとされています。また一度に15個の石を見るこはできない設計にもなっています。(理由は諸説ありますが15という数字は「完全」を表す数字とされていて不完全さに趣を感じる侘び寂びの精神とかけているともされています。)

不完全で自然的な様しかしそれを作るために設計された人の技とデザインに小学生にしながら美しさを感じていました。


▼龍安寺について、詳しくは...


03.美しさの共通点

大学に入って自分の中で侘び寂びが美しさの根源になっていると気づいたわけですが、そのきっかけは近代建築家のミース・ファ・デル・ローエを知ったことでした。

ミースは近代建築の三代巨匠とも言われ「Less is more.(少ないということは豊かなこと。)」という言葉を残した人物で、無駄のないシンプルなデザインが特徴的です。

ミースの作品の中でも特に衝撃を受けたのが、バルセロナパビリオンという建築の図面を見た時でした。その図面は建築図面にしては何もなく不完全な図面で、龍安寺を見たときに感じた美しさに近しいものを感じました。

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▲バルセロナパビリオンの図面

一見何もしていない、乱雑に引いたように見える直線は空間に入る日光や池の水の反射などを緻密に計算してあるべき場所に描かれ設置された直線で調べれば調べるほど美しさの理由が理解できました。

見えない部分への配慮やデザインなどその考え方に魅力を感じ調べていくうちに侘び寂びという美意識にたどり着き、龍安寺に繋がっていきました。ミースが侘び寂びを知っていたかはわかりませんが、海を超えてもその美意識は共通なんだとその時感じました。

それから大学の課題はミースに影響され無駄のない作品が多かったなと今になって感じています。また枯山水や庭園を模した作品も多かったです。その頃からなんとなく自分の中で美しさの定義を模索していたのかもしれません。


少し余談になってしまいますが僕が好きな杉本博司さんというアーティストも侘び寂びをテーマにした作品を多く手かけています。家には東京で開催していた展示の時にポスターを購入するほど尊敬するアーティストの一人です。


04.対比的な美しさ

最初の項目でも述べた三島由紀夫の金閣寺で美しいものとの対比を作ることで美しさが際立つという表現ですが、侘び寂びの美意識にも対比的な表現を加えることができると考えています。

侘び寂びの不完全で自然的な様を美しいと思う美意識。それと対比的に綺麗すぎるものが並ぶことでさらに侘び寂びの美しさが際立つと考えています。(ここでは綺麗すぎるものはネガティブとし、自然的な様を美しいと定義しています。)

綺麗すぎるものの定義は少し曖昧ですが、幾何学的な形状、量産的で機械的なデザインなどがあげられます。それらと対比するように侘び寂びの美意識が加わることで美しいという感情に「趣」という深さが生まれると考えています。


綺麗な場所に綺麗なものがあるのは当たり前です。それはそれでもちろん綺麗で美しいものです。しかしそこに僕は趣を感じません。

朽ちた場所や人の手が加わっていない場所に綺麗なものがある方が僕は趣と美しさを感じます。

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上の写真は小田原にある江之浦測候所という杉本博司さんの作品、建築の中の森の中にある作品の一つです。

金属で作られたこのオブジェは数式を元に設計されて形状で、周辺の竹の有機的なラインとの対比がとても美しく趣があります。


先程までの内容をまとめ、「不完全で自然的な様にネガティブなものが対比的に並び趣がある様」を僕の美しさの定義とします。



05.デザイナーと美意識

デザイナーとして忘れてはいけないことはアウトプットに対してとことん拘ることだと思っています。

グラフィック、空間、アートなど様々なものに落とし込みながら今度はビジュアルとして「美しさ」を具体化し、「美しさ」の定義によりオリジナリティを加えていこうと思います。

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