恋重荷

 昔々。

 白河院という方が世の勢いを一身に担っておられた頃。白河院が非常に菊がお好きで、菊のお花をよく愛でられるので、お庭にも色とりどり多くの菊が大切に育てられておりました。其の菊の枯れた葉を摘むお仕事に、「山科の荘司」という老人が任じられています。こういう細かなお仕事を担う人はたいてい身分が低かったのです。この老人もまた身分が低く、高貴な人のお目に入らぬように曲がった腰をさらに曲げて、低いところの菊の枯れ葉を一つ一つちぎっては一日を過ごすのです。

 さて、この老人がいつものとおりに菊の茂みにひょこひょこ見え隠れしながら仕事しているのを、御簾の奥から女たちが見ております。ある高貴な美しい女人と、其の人に仕える女房達です。女房達は老人の白い頭を見て「少しだけ降った雪のようだ」「水浴びをする鳥の背なかのようだ」「火を消した後の灰のようだ」と好き勝手に言ってひそひそと笑っています。「女御さまも御覧になれば」と女房の一人が高貴な女人を呼んで申します。「女御様」「こちらへいらっしゃいませ」「趣深いものがございますよ」

 女御さまはなんとなく気分が晴れずぼんやりなさっていたのです。女房達にふいに呼ばれたものですから、弾かれたように立ち上がってよく考えもせず御簾の方へ近づいて行かれました。

 そのとき、まさにそのときに、宮をまっすぐに吹き抜ける一陣の風。渡り廊下を抜けて勢いを増し、ひといきに女御の前の御簾を吹き上げてしまったのです。

 あッという声すら出ないままに御簾はするりと、降りました。お部屋とお庭はまた何事もなかったように、隔てられました。

 御簾の巻き上がったほんの一瞬に、老人は頭を挙げて女御のお顔を見ていました。暁に降りやんだ雪のような、けばだった鳥のような、すっかり冷えた灰のような、白い頭を挙げて。薄暗いお部屋の中で白い女御のお顔がほんのりと光り輝いて見えました。

 この日、老人はいつも昼までに終わる仕事が、夕暮れまでかかりました。一枚葉をちぎっては女御のお顔のことを考え、一枚葉をちぎっては首を伸ばして御簾の奥に目をこらし、ちぎった葉を手持無沙汰に握りなおして庭で呆けておりました。しまいには役人が叱りに来ました。

 老人を叱った役人が、老人のこの様子を自分の主人に告げ口し、その主人が面白がって言いふらし、そんなこんなで老人の恋は宮殿中に知られてしまいました。

 女御様の周りは非常に深刻な雰囲気です。身分の低い老人が、女御さまのお姿を見てしまったことが問題なのです。しかも老人が恋心を抱いて執着しているというので、女御さまご本人が気味悪がってふさぎ込んでしまわれました。「庭を見るのも怖い」とおっしゃいます。

 「ご心配なさいますな。私に考えがあります」と貴族の一人がにっこり笑います。「まず老人をお庭へ呼び出しましょう」

 ぼうっとした老人が庭へやってきました。貴族はにこにこして「お前は畏れ多くも女御様に恋をしたのかい」老人は震えあがって「ど、どうしてそのような……」「すっかり噂になっているよ」。貴族はますます微笑んで「女御様がおっしゃるにはね。そんな賤しい身分で、ずいぶん年寄りなのに恋などするのはあんまり憐れだから、「ある試練」をお前が見事成し遂げたら、お前に会う、とおっしゃったよ」「な、なにわたくしに会ってくださる、女御様が」「そう、その試練というのがね」貴族が手招きすると、向こうから従者が二人がかりで、何かきれいな物を捧げ持ってやってきました。丁寧に置かれたそれを、老人が見ると胸に抱えられるくらいの大きさの荷物でした。美しい布に包まれ、きらきらした紐で結わえてあります。

 「この荷物を、お前がもって庭を何周もしてみせたらよいのだ」確かに自分でも持ち上げられそうだ、と老人は瞬きしました。「そうしたら女御様がわたくしに会ってくださる」「そうだよ、さ、さっそくお始めなさい。女御様が見ておられる」

 老人は喜んでその荷物に近寄り、ちょうど持ちやすそうな結び目に手を掛けました。

 一方女御様は老人に会ってやるなどとんでもないことと思って青ざめておられました。貴族が戻ってきて「ご心配なく。まぁ見ていらっしゃい」と申しますので息を呑んで御簾の外を見守ります。

 老人は結び目を握ってぐっと腰を伸ばそうとします。しかしどうでしょう、荷物はびくともしません。手が滑るのかと思って結び目を握りなおします。ぐぐっと腕に力を込めました。やっぱりびくともしません。御簾の方を振り返ってみました。役人が叱ります。手にもう汗をかいてきました。結び目の根元を両手でしっかりつかんで引っ張りました。足を荷物の下に入れ込んで傾けてみようとしました。荷物は動く気配もありません。骨ばかりの指に、きれいな紐がじりじりと食い込みます。持ち上げようとするたびにぎりっと締まって、握りなおす掌の皮が剥けました。

 女御様は固唾をのんで御簾の外を見ておられます。御簾ごしにぼんやりと老人の背が見えます。老人の鷺のような貧弱な肩があがったりさがったり、がくりとおちたり、……上がって、またがくり、……もうあきらめたかと思うと、また上がって、……

 老人はまた振り返って女御様のいる方を見ようとしました。役人が杖を振り上げて叱りました。老人は荷物を見下ろしました。「なぜ持ち上がらないのか」と荷物を叱ってみました。皮の剥けたところが痛くて握れもしません。きつく締まった結び目をみました。「わたくしの恋心が叶うはずもないから持ち上がらないのか」荷物は動きません。まるで根でも生えたようです。老人は涙を流しました。荷物に抱き着いて布を掻きむしりました。「なぜ、持ち上がらないのか」掌で荷物を叩きました。

 やがて老人はよろめいて、日ごろ世話をする菊の茂みへどうっ、と尻もちをついてしまいました。お庭の菊の花がひどく揺れて薫り高い朝露を落としました。老人はその薫りにほぉっと今にも死にそうな気がいたしましたが、頭を振って荷物をさがします。女御様がみておられるのです。いや、退屈してもう御簾の向こうにいらっしゃらないかもしれません。あわれと思ってまだいらっしゃるでしょうか、でも今にも立って奥へ消えてしまうかもしれません。大慌てで老人は立ち上がろうとしました。腰が抜け、柔らかい土に手足がもつれて、もがきました。頭の上でお庭の菊が揺れています。すっくりと人のように背が高く見えました。白い菊の花が女御のお顔に見えました。「恋をしております」と老人はそのお顔に向けて叫びました。「あなたに恋をして苦しんでおります」菊の花はゆらゆらと揺れました。女御様が首を横にお振りになったように見えました。老人はひどく打ちのめされて、仰向けになって動かなくなりました。

 人々が老人の死に気づき始めますと、お庭は騒然としました。あの美しい荷物はぴたりと同じ場所にありました。老人の必死のあがきを受けて、布が少しめくれております。隙間からごつごつと厳めしい岩肌がのぞいています。美しい荷の中身は老人に持ち上がるべくもない、大きな岩でした。

 女御様はひどくかわいそうと思われ、御簾をくぐって庭へお出になります。荷物の近くへと近寄って中の岩を見つけると「こんなものをあんなおじいさんに持たせて」とため息をつかれました。そのときです。

 ぴしりと女御様がうごかなくなりました。溜息すら凍り付いたように荷物のそばに立ち尽くしてしまいました。着いていった女房が気味悪がってお声をかけても、青ざめた顔で目をきょろきょろとなさるだけで石の柱のように立ち尽くしているのです。

 菊の群れの中から、ぞろりと何かが立ち上がりました。ちょうど老人の力尽きたあたりから。女房がギャッと声をたてました。土気色にそまったおどろおどろしい老人の姿。菊を踏み折りながらぞろり、ぞろりと女御様に近づいてきます。女御様は立ち尽くして動けません。いよいよ老人が目の前までやってきて杖を振り上げました。女御様はがくりと膝をついてしまいます。肩のあたりに重みがのしかかって立っていられないのです。

 老人は土気色の口元から死人の息を吐いて、杖をぶるぶると振り上げています。今にも女御の華奢な肩をぶとうとするのです。ぞぞぞ、ぞぞぞ、と老人が息をすると菊の下葉が震えます。ぞぞ、ぞぞぞ、目の下には女御の光り輝く顔があります、やさしい肩があります、老人が死ぬまで苦しんで持ち上げようとしたあの岩、あの岩の重みが女御の肩にいま圧し掛かっています。女御は真っ青な顔で苦しんでいます。悩み苦しむ女御のお顔を老人だったものは見下ろしました。女御が眉を寄せると、亡霊も眉間に力が籠りました。苦しんで肩をひねると亡霊も身をよじりました。女御は苦しみの中からやっとのことで声を挙げました。「あなたはわたくしを殺したいのですか」

 女御にひとこえをいただいた、そのとき土気色の亡霊の顔は一瞬生きた色を帯びました。

 「いいえいいえ、」気づけば死人の口はそう動いていました。「お守りしましょう、お守りしましょう……あなたをお側でいつまでも守りましょう……」涙を流しながら亡霊は女御の顔を見ました。近くで見ればなお美しく、菊の花より真っ白でほんのり光り輝くようなそのお顔をじぃっと見ると。

 亡霊の姿はさらさらと消え、菊の茂みと恋心だけがそこに残りました。


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原作:謡曲『恋重荷』

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