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小説『BALI HIGH』 都市迷宮シリーズ  3 バリ・ナイトメア

「こんなことになるとは思っていませんでしたが……。
 様子を見に来て良かったようですね」
 翌朝、早い時間に別荘へ一人訪れたのは、紫月の側近中の側近。社長秘書の立場にある狩野(かりや)であった。四十代前半の俊敏な長身。常に紫月の背後に佇み、穏やかな目で全てを細密に見守る有能な男だった。
 社長命令で、洲都デンパサールのホテルで休暇中ということになっている。他六名のボディガードも同じく、骨休めを無理強いされた。なのに狩野だけが、見透かすように駆けつけたことで、舞の表情の陰りは幾分和らいだ。その良い変化を見取って、ハウス・マザーのメギナは狩野へ信頼の笑みを向けた。 
「どうしてしまったのかしら、兄さん」
「何があったのですか?」
 メギナの薦めるコーヒーを断って、狩野は舞を紫月の寝室へと促した。邸内は広く、歩きながらでもゆっくりと状況を聞きだすことができる。少女は思案した。
「……。何も。……何もなかったと思います」
「さきほど逢ったハウス・マザーは、悪い夢を見たのだと言っていましたよ。バリの神々の悪戯だと」
「そんな……。ただスコールに打たれただけなんです。
 昨日の午後です。東屋で眠っていて、運悪く屋根に雨漏りが。私たちが気付いた時には、兄さんは目も覚まさず、すっかり雨でびしょ濡れに。
 なんとか起して部屋に連れていったんですけど。……その時から、様子がおかしくて。私が側に居るのに、眼中になかったみたいでした……」
 兄の奇行に一晩中考えを巡らし、夜が明けても困惑しきっていたのだろう。少女は疲れた目と寂しい表情を隠せずにいた。
「大丈夫ですか? あなたの方も」
「ええ……。大丈夫です。私がしっかりしないと」
「その通りです。きっと私たちやガードを締め出して、あなたを独り占めにしようとした天罰ですよ」
 涼しい顔で、狩野はボスへの嫌味を言ってやった。
 舞は目を丸くし頬を緩めた。秘書たちやボディガードたちの除け者にされたという不満は、彼女も知っている。狩野までが口にしたことが意外だったのだろう。
 それがジョークだと悟って、更に笑みが広がった。
 ボスだけでなく、彼等『FIS』にとっても至上の宝石である舞の微笑みは、狩野を内心、安堵させた。
「濡れたまま、熱いシャワーも浴びずに部屋に籠もってしまったんです。きっと、服も着替えずにソファで眠ってしまったのね。あっという間に真夜中には酷い熱が」
「そして、うわ言ですか……」
 さすがに、狩野も心配になった。まさに天罰としか思えない。
 まだ紫月は二十代という若さなのだ。やや細身の身体だが、雨に打たれた程度で寝込むほど虚弱な男ではない。事実、バリで四日間の休暇を取るまで二年以上、ほとんど無休だったのだ。休暇三日目にして寝込むとは、考えられない不運だ。
「今は少し熱も下がって、起き上がっているみたいです」
「けれど、大切なあなたにすら顔を合わせたくないと」
 再び瞳を寂しくさせて、舞はコックリとうなずく。
「昨日、誰かに逢いましたか?」
「誰にですか? ここには兄さんと私しか来ていないんですよ」
「………。彼が」
 一言だけの問いに、舞は何も言えず足を止めた。
 空中に乗り出す造りの渡り廊下は、ゆるやかな風を一杯に受け、肩を包む長さの彼女の黒髪を巻き上げる。
 狩野も立ち止まり、舞の答えを待った。向き直る少女は一点の後ろめたさもなく、きっぱりと返した。
「いいえ。私は逢っていません」
「本当に?」
 聞きただされて、少女は即座に眉間を寄せた。優しく整った顔立ちの中に、意志の強さが浮かび上がる。
「本当です。私、そんな嘘はつきません」
「そんな嘘、ですか? どういう意味でしょう?」
 あくまでも、狩野は穏やかな表情の中に、冷淡な疑いを潜ませる。ボスの代理というより、冷徹な審判者のつもりだ。
「わ、私……。こんな時に、あの人を庇うような嘘は、絶対に言いません」
賢明に、言葉を選びながら、彼女は言った。
「すみません。嫌な言い方をしました。ですが、私自身、一度確かめたかったのです。もう一つ尋ねさせて下さい。
答えたくなければ、拒否して下さい」
「言って下さい」
 瞳の中に怯えを滲ませながらも、舞は狩野を見上げた。
「彼に、『Z(ゼーダ)』としか呼べない青年に、あなたは好意を感じているのですか?」
 やはり、というように、彼女は頬を強張らせ狩野を見返した。
 この答えを求め探るような視線を、彼女はいつも誰かから感じているはずだ。『Z』の存在を知る者たちは、彼女との距離や関係を気にかけている。誰も口にはしないが。
「悪い人ではないと思います。嫌いでもなく、とても大好きというわけでもありません。……自分でも、自分自身の気持ちがわかりません。明確に思えるほど、私、あの人のことを何も知らないんです。
 それに、あの人に対して何も求めてはいません。彼は無償で私を救ってくれます。それは事実です。ただ私が、あの人の欲しいものに気付かないだけなのかもしれませんが」
 舞は、それだけは途方に暮れたように弱く口元で微笑んだ。
「悪い人ではないのに、兄さんが嫌っているのが悲しいんです。
 秘密ばかりの、あの人自身が、いけないのでしょうが」
「それが、あなたにも不安を与えていますね。その点では、十分に彼は悪人ですね。少なくとも私は、そう感じます」
「……狩野さんも、嫌っていますか?」
 上目遣いに、彼女は肩を落としながら尋ねた。
「理解しあえない相手ではないですね。できれば敵にはしたくないというのが本音です。彼は、いいうちの社員になれます」
 小さく、少女が笑ってくれた。嬉しそうに、次々に笑みが零れる。狩野は肩をすくめた。余計なことを言ったと、彼なりに反省した。少女は勢いづいて、熱心な目をする。
「私、二人にもっと理解しあってほしいんです。少なくとも、兄さんには、事実をちゃんと認めてほしいわ」
「難しいでしょうね。ボスは彼に関しては完全に石頭です」
「一度二人で、きちんと向かい合えばいいと思うんです。
 ……できれば、あの人がここに来てくれないかって、考えていました。そうしたら、ゆっくりと話し合えるでしょう?
 今度こそ、私、あの人をちゃんとお兄さんに逢わせるわ。
 この島はゆったりと時間が流れているから、二人とも、とても穏やかな気持ちになれると思うの」
 狩野は頭を強く振った。
「それだけは、よして下さい。ボスが衝撃のあまり、どうなるか。あなたの兄であると同時に父親替わりだと自負しているのですよ。大切なあなたに、男を紹介されるなんて」
「そんなつもりじゃありません……」
「わかっています」
 さっと頬を赤くする少女を見下ろして、狩野はうなずいた。
「ハウス・マザーの言う通り、悪い夢でも見たのでしょう。
 バリの神々にあなたの願いが通じて、ボスは夢の中で彼を含めた三者会談の予行演習に及んだのでしょう。
 ……それが少々、刺激が強すぎたのかもしれませんね」
 狩野は舞をその場に押し止め、一人、廊下を進んだ。一人でボスに逢った方がいいだろうと判断した。
 振り返ると、舞は引き返そうともせず、廊下に立ち尽くし祈るように両手を合わせ、狩野を見ている。バリの伝統的織物、華やかなバティック模様の膝丈のワンピース。それも、ここでは神聖な色とされる濃い黄色。髪にオレンジ色の花を挿し微笑んでくれたなら、彼女の存在そのものがパラダイスになるだろう。
 狩野は密かに肩で息をついた。誰にでも愛される家族を持つということは、なかなか困難が多いらしいと、認識したのだ。
 ……一体、どんな悪夢をご覧になったのか……。
 想像はつく。彼のボスに、それほどの衝撃を与える事、人物。
 想像通りなら。狩野自身、ボスと同じ立場なら、心穏やかではないだろう。だから紫月に同情できる。
「ボス? 私です。狩野です」
 ノックをしても返答がない。……これは重症だ。
 夢ごときで、これでは。彼女が恋人を連れてきたり、あまつさえ結婚などと言い出したなら……。
「……どうしてここに居る? 僕に首を切ってほしくて来たのか? 休暇をやったはずだぞ」
 返事を待たずに部屋に入ると、ふて腐れた子供っぽい顔で、ベッドの上から青年は不満を漏らす。いつもの精悍さは微塵もなく、髪は乱れ頬は赤く、瞼も半ば眠りかけている。
「あなたの妹さんが、とても心配しておいでですよ」
 ぴくりと目を剥き、紫月が見返す。
「……わかってる。今は、……逢わない方がいい」
「では、リビングに帰します。外で待っておいでなので」
「……心配いらないと言ってくれ。僕は……」
 しどろもどろに、他人行儀なことしか言えずにいる。
「そんなに楽しい夢を見せてくれましたか? バリの神々は」
 あきらかに、紫月の顔から血の気が引いた。
「……何の話だ、早く行け……」
 図星である。確信して、狩野は引き返した。


「夢なのか……? あれは本当に夢なのか……っ」
 ……よく考えれば、時間的に食い違いがある。今日でバリに来て三日目だ。スコールも毎日出くわしている。
 ……第一、僕の舞があんな真似をするはずがない……。
 思い返した瞬間。身体が熱くなる。慌てて意識から追い払う。
 目を閉じるのも逆効果。熱のせいで震える指先を握り締めても、空しく力が抜けていく。
 目を開けていても、悪夢が続いているようで息が詰まる。
 紫月は、疲れ切った視線で部屋を見渡した。
 一人きり。窓は大きく開かれ、涼しい朝の風が渡る。
 第三者である狩野と顔を合わせたことは、心強い。自分を取り戻せそうだ。この島に来る前の、信じられない夢を見る前の自分を、狩野が連れてきてくれた。
 ……僕はどうかしてる……。どうしてあんな……。
 夢に惑わされ、熱に浮かされて、押さえ切れなくなる自分を感じた。現実を夢だと錯覚してしまいそうな自分。馬鹿な男。
『あなたの妹さんが、とても心配しておいでですよ』
 ……嫌な奴だ。あいつも薄々感じているのに。一番聞きたくないことを言ってくれる。
 だが同時に、最大のショック療法だとも知っている。
「……もう大丈夫だ。舞が悪いんじゃない。……くそっ」
 ……最後のアレさえなければ……!
 紫月はシーツを引っ被り、清々しい風に背を向けた。
「なんでアノ野郎と……!」
 ……間接キスだと………!?

  ◇◇◇

「今、舞お嬢様をお呼びしますわ。紫月様はお加減がお悪くて、起き上がるのは無理かと。どうぞ、こちらでお待ち下さい」
 微かな警戒心が、彼女の笑顔の底に忍んでいた。なるほど。現国防相の別荘を預かるだけのことはある。ハウス・マザーの、主人への忠誠と職務へのプライドは、強い信頼に足る。
 国軍の将校服を着ている程度では、そう簡単には騙されないということか。じっくりと見せた特務任命将校証も、彼女の人を見る目の前では意味がない。
 早朝の客人は、黙ってリビングを見渡した。玄関に迎えに出たボーイが、リビングの入り口から、オリエンタル・スマイルを浮かべ彼を監視している。
 視線を逸らし、彼は将校帽を脱いだ。細くしなやかな銀髪を手櫛でかきあげる。長い前髪が額に落ち、左目を薄く隠す。
 ハウス・マザーが消えた先から、軽い足音が近付く。無造作に帽子をソファに投げ出した。その手に嵌めた時計を見やる。
 彼に与えられた時間は、ほぼ六時間。急がなければならない。

※ 4 特務任命将校 に続きます。



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