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小説『BALI HIGH』 都市迷宮シリーズ 1 家族の休暇


 白の上に赤。

国旗は、潔白の上に立つ勇気、という意味をもつ。

※この物語はフィクションであり、実在する団体・地名、事象などとは無関係です。

  ◇◇◇

 磨き抜かれたタンブラーの中で、静かに氷が溶けてゆく。
 香りのいいアイス・コーヒーは、飲みかけのまま。
 太陽は海を目指し大きく傾いていた。それでも三十度以上はある気温、強い湿度。むせるような亜熱帯植物の息吹。青臭い匂いに混じって、濃い緑が続く樹木の奥深くから、熟した果実の芳香が滲むように漂う。静寂を引き裂くように鳴き出す鳥たち。
 時折に、木造りの東屋をすり抜ける潮風の心地良さ。
 熱帯モンスーン気候に支配される小さな島。バリ。
 雨季の中休みに当たる二月は、乾季と変わらないほど空が晴れ渡り、強い陽射しが降り注いでいた。
 東南アジアに完成された緑の楽園は、人を怠惰にさせる。
 藤製の包み込むような広さの寝椅子の中で、一人の日本人青年が瞼を上げた。執拗に彼を引き止める眠りを払うように、額にかかるストレートの黒髪を指先でかきあげる。
「……何か……? 僕はここに居ますが?」
 ハウス・マザーの甲高い声が近付いていた。やや慌てた癖のある日本語に、彼女の日常語に近い英語で答えてやった。
「スコール? そんなはずは……、こんなに晴れているのに?」
 彼は上体を起こし、完全に目覚めるために立ち上がった。強張った背筋を伸ばしながら、張り出した草葺きの屋根の下から踏み出す。目を細め空を眺めてみる。風向きが変わり、山から海へと吹き降ろす風が強くなってはいる。
 別荘のすべてを管理するハウス・マザーは、気候までも管轄であると言わんばかりに、背後で本当だと言い張る。
 あなたはここに、昨夜遅くに到着したばかりだからわからないのだ。他の土地に来たのなら、その土地の者の言葉に、ちゃんと耳を傾けるべきだ、とまで。早口な英語だった。
 ……それはその通りだ。
 了承の笑みを向けて、彼女の命令を実行に移すことにした。
「舞はどこに?」
 ビーチにお出ででしたわ。彼女は丁寧に答える。
「一人で? メイドか誰か、付いていますか?」
 彼女のせいではないのに、警戒心が詰問の口調になってしまう。染み付いた習性で、これだけは忘れられない。たとえ眠っていても、妹を気遣うのは止められないと確信できる。
 この世で最も愛する女性であり、なぜか困難に見舞われやすい少女。その上、気に食わない銀髪男が一人、影のようにまとわりつく。名も知らない男。彼の部下たちの高度な調査能力でも突き止められない素性。本名の代わりに、その男を『Z(ゼーダ)』とマークした。並外れた戦闘能力だけは、見せつけられてきた。
『Z』の能力が、彼の妹の危機を回避させたこともあった。
 ……だが彼は、『Z』の存在を容認するつもりはない。
 ここほど安全な場所はありませんわ。と、ハウス・マザーに言い返される。
 それもその通りだ。この国の現政権ナンバー2と言われる国防相が所有する別荘だ。管理する彼女以下、十数名の使用人たちには、物穏やかな黒い瞳の中に隙の無さと賢明さが伺えた。プライベート・ビーチも含めた周囲は、私服の国軍の精鋭が固めているはずだ。彼等を空港で迎えたのも、私服の兵士たちだった。例え神出鬼没の『Z』であっても、侵入できるわけがない。
州都デンバサールから西へ車で二時間弱。観光地化された島の東南部とは対極に位置する、バリ海峡に面したギリマヌク村から東へ入り込んだチュキッの村外れ。猿や鹿、ヒョウまで居るらしい国立公園を背後に、海へなだれ込むような山肌に別荘はひっそりと張り付いている。足元の小さな入り江は、天然の要塞じみていた。狭い砂浜へは、熱帯植物の茂みを縫って木製スロープが下り、要所要所にテラス風の東屋が造られていた。
 母屋に一番近いテラスに、彼は居た。海峡を挟んだ対岸に、横たわるジャワ島の島影が見えるほど高台にある。
 背後からハウス・マザーに急かされる。客人をスコールで冷やしてはいけないという職務的プライドだけではないだろう。
 年若い女性の客人を、彼女は個人的に気に入った様子だった。
 小柄な彼女と同じ東洋人の兄妹は、彼女にとっては親しみ深い相手のようで、まるで二人の祖母のように暖かく対してくれた。
 ミスタ・シズキ? 彼女がもう一度、呼びかけてくる。
「いえ。傘は結構。すぐに引き返してきます」
 うっすらと日に焼けた頬を引き締め、踵を返す。
 雪村紫月。二十七歳。家族は、妹が一人。彼が家長であり、他に肉親は無い。
 妹とは十二歳も年を違える。母親も違う。だが互いに、家族として必要としあっている。助け合ってきた。
 二年前に父を亡くし、紫月は遺産のほとんどを拒否し、住み慣れた自宅さえも手放した。父方の欲深い遠い縁戚が不快だった。経営にだけでなく兄妹にまで口を出し、いまさら親戚面をする。父とは長く絶縁状態であったのに。
 何よりも紫月を激怒させたのは、彼の妹に政略的婚姻の駒として目をつけたこと。父との絶縁の原因は彼女であり、彼女の母親の素性が知れないということが発端だったはずだ。 
 そんな彼等と、紫月の知らぬ間に和解していた父親を彼は最も憎んだ。一代で巨大企業を創り上げ、死後も兄妹を縛ろうとする強大な父の影。その影を払うため、家や、それに連なる忌むべき絆を捨てた。妹を守るため。グループを背負うのは、足枷になる。日本を飛び出し『力』を得るため、世界へ踏み出した。唯一、ユキムラ・グループから譲り受けた警備部を基礎に興した、国際的総合警備企業『FIS』を武器に。今、着実にその基盤は世界に根付こうとしている。
 ボス・シズキと呼ばれて二年。休む間もなく働き続けていた。
 帰る家のない兄妹は、世界中を転々とするしかなかった。
 そろそろ休養が必要な頃だった。ボスとしてではなく一人の人間として。家族としての休暇が欲しくて、影のように離れずに居たボディガードや秘書、部下たちとも離れたかった。だが側近たちは揃って否と言った。トップである以上、兄妹二人だけでは危険すぎると。紫月は妥協し、過去の恩を受けることにした。
 以前、クーデター寸前の国内情勢の中、『FIS』の前身であった機動部隊が、現国防相の依頼を受けた。父の存命中のことで、紫月は関与していない。だが、その秘密作戦の成功は、この国での流血を回避させた。国防相となった男は、紫月を父の正統な後継者とみなし、いつでも力になりたいと申し出た。毎年の別荘への招待状を欠かすこともなかった。
 昨夜遅く訪れた兄妹を、ハウス・マザーのメギナ・アサは日に焼けた頬に満面の笑みを浮かべ迎えてくれた。
 そこから、家族の時間が始まった。

※ 2 スコールの悪戯 に続きます。


ここまで、お読み頂き有難うございました。感謝致します。心の支えになります。亀以下の歩みですが、進みます。皆様に幸いが有りますように。