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小説『アテネ・ガーディアン』2 笑わない男(ガード)

 ただひたすらに白く眩しい陽射しと、乾き切った大気。
 これだけは太古と変わりない。
 神聖なる地が、遠い未来に至って、ひどい交通渋滞と排気ガス、喧騒に満たされるとは、オリンポスの神々も予測不能であっただろう。
 だがこれが、現代のアテネだ。
(もう十月だっていうのに……)
 スニーカーとTシャツ姿で群れている観光客が、彼には訳もなく目障りだった。
「ちゃんと目的地に着けてくれ。すぐそこじゃないか?」
 ガクンと、道中と変わらずひどい運転で、道路脇に車が停まった。
「ご冗談でしょう、ミスター?
 このポンコツで、アテネ一の最高級ホテルに横付けしろっていうんですかい? 王侯貴族か国賓なら別ですが。
 つまみだされるのがオチですぜ」
「誰が、つまみだされるって?」
 声は険悪だが表情は変わらない客に、東洋人は無表情と心得ているのか、太った運転手に応える気配はなかった。
「どうぞこっから歩いて下さいよ。ギリギリすぐ近くまで着けましたから」
「わかったよ」
 奴はニヤニヤ笑いを浮かべ、ハンドルに腕を乗せて、レンを見送った。自分の客がつまみだされる姿を、見物しようという魂胆だ。そもそも、ホテルに横付けできないような目に合わせたのはドライバー自身である。
 アテネ国際空港を出て、横付けするのに相応しいリムジンを探し歩いていたレンに声を掛け、威勢よく自信満々で走り出したのだから。
「グランド・エルターニュだ」
 そう乗り込む前に告げたはずなのだが、ドライバーは冗談だと思い込んでいたらしい。無理もない。睨むだけに済ませ、レンは腹を立てる気にもならなかった。
 ギリシャの乾いた陽射しの下では、黒い革のボトムとくたびれた黒のカッターシャツ、それも長袖の。手にしたコーデュロイのジャケットは存在すべきではないのだ。
 もともと彼自身が、ここに居るはずがない。十月のカナダでなら最も相応しい身なりだ。
 本当なら今頃、エドモントンの郊外で三週間の休暇を始めているところだ。他人とは季節はずれるが、誰に気兼ねのないバカンスになる予定。それも特別な休暇だ。
 最初の二週間は、射撃及びサバイバル訓練に当てる。
 本格的な休暇は、残りの一週間。だが現実は最悪だ。
 場違いな暑苦しい服のままで緊急だと呼び付けられ。太ったタクシードライバーにまで小馬鹿にされ。その上で、奴の思い通り、最高級ホテルの上品なフロントマンに摘み出されてなど、絶対にやるべきではない。
 二、三歩、歩き出して、レンは振り返りジッとデブを見据えた。凍りついた視線に、奴は一瞬怯んだが、やはり嘲りきって食いしばった歯から卑屈な笑い声をもらした。
 レンは凍て付いた表情のまま、無関心にドアを抜け、そのまま二度と、惨めな姿をギリシャの青い空に晒すことはなかった。
 待ちくたびれたドライバーが車を発進させた頃、長い廊下をベルボーイに従って、レンは歩いていた。
 勿論、丁重に。客として。
 それでもレンが不愉快なのは、アテネで呼吸していることから全てが、彼の望みではなかったことに他ならない。

 ◇◇◇

「NO。紫月の部屋まで案内してくれればいい」
 荷物を受け取ろうとしたボーイに、見城蓮(けんじょう れん)はそれだけ告げた。
 貴族国賓、VIPたちの定宿となっているだけあって、内装も見事な建物だった。アテネでは最も古い歴史を持つホテル。グランド・エルターニュ。
 外観内装とも古典調だが、完璧なセキュリティシステムを擁しているはずである。その方面のプロとして、少なくとも、鼻持ちならない気位の高さと比した安全性の完璧さには、期待と好感を抱くことができる。
 通された部屋は、デラックススイートだったが、グランド・エルターニュにとっては最高の部屋ではないようだった。
 ルームナンバーが刻印された両開きの扉を抜けると、シャンデリア付きのファースト・リビングが広がった。真っ直ぐに抜け右手すぐに部屋のドアを開け、ボーイはレンに促したが、それも一言下でレンは拒否をした。宿泊する意志は毛頭ないのだ。
 大きな盛り花のオブジェで仕切られた奥へと進む。
 ちょっとしたパーティーが楽に開ける広さのメイン・リビングは、シンプルだが優雅な調度が置かれ、日当たりのいい窓際には楕円形の白いテーブルと白い瀟洒な椅子が並び、ダイニングに使われていると想像できた。
 最後にリビングの突き当たり。開け放しのドアの奥、書斎といった趣の部屋へ到着する。
 部屋には一人の青年が、ホテルの窓越しに日焼けがしたいのか、窓辺にもたれている。レースのカーテン越しに白い陽射しを体一杯に浴び、ファイルに目を落としていた。
 顔を上げると、光りのせいで体全体が白っぽく、髪も茶色く透けて、少年のような印象が浮かんだ。目が慣れ、彼が日陰に移動すると、いままで耳にしてきた通りの年齢に一歩ずつ戻っていった。それでも、電話からレンが想像していた人物像とは一致しない。ピンストライプのワイシャツの無造作な皺が、二十六歳よりも、もっと若く見せている。
 レンが手にしたままのバッグと、背後で所在なげに佇むボーイに青年は視線を止めて、すぐに意味を理解した。
 ボーイにチップを渡して帰すと、青年は緊急に呼び出したことを詫び、歓迎を示す笑顔でソファにかけるように勧めた。
「若過ぎると驚くのは、君だけではないよ。僕がFISの責任者、雪村紫月(ゆきむら しづき)だ」
 レンは握手を交わす気もなかったし、無表情にすべてを聞き流した。一言だけ告げて、帰るつもりだった。
「コーヒーでいいかな? ホットで」
 レンに対する、ささやかな冗談である。
 最低限の礼儀を返す意味で、レンは革張りのソファに掛けざるを得なかった。
 雪村紫月は、インターフォンにアイスティーを二つと告げた。肉の薄い端正な頬はそのままで、目だけが心から微笑んでいた。
「ボディガードとしての君の腕は、全面的に信用できる水準だ。君が関わったケースの記録を読ませてもらったが、悪くない。強いて言うなら、もう1ランク上のVIPを扱うべき、というところかな」
 明るい、抑揚に富んだ声。相手の気を緩ませる、素直で柔らかい物腰。卑屈に受け取れば、狡猾な印象に出会うのは、これが初めてではない。レンの依頼人の半分はこんなタイプで、彼等が『成功』しているからである。
「危険な地域での利権を欲しがる商社マンや無鉄砲なジャーナリスト、危機管理の出来ないミュージシャンばかりじゃ、満足な老後は望めないだろう?
 私の本音を言えば、我が社にヘッドハンティングしたい腕だが、君の意思を尊重して譲歩している。これでも、つもりだ。ワンステップアップのチャンスだ。ぜひ、今度の仕事は引き受けてもらえるね?」
 ストレートで強引な口調は、やはりただ者ではない匂いを発散している。瞳はまだ他にも色々と落とす台詞はあるのだと言わんばかりに、きらきらと奥底が輝いている。
 豊富な手持ちのカードと素早い選択。この二つを縦横に利用して、目の前の、レンにとっては三歳も年下である青年は、ほんの二年で世界に躍り上がってきた。FISという名の総合警備企業のトップとして。
「残念ですが。としか、申し上げられません」
 レンは、このまま立ち上がりたかった。畳み掛ける紫月。
「理由を教えてくれないか?」
「ご存知のはずですが」
 紫月は、軽く首を振った。
「本当の理由だ。怖いのか?」
「何に、でしょうか?」
 なぜか、レンの喉が強張った。
 紫月は堅実な教師のように、言葉を積み重ねた。
「それは私が聞きたい。
 人が他人の頼みを拒否する最大の理由は恐れだ。
 私は依頼人として、君の抱いている恐れを取り除きたい。可能だと信じているが」
「そうしていただくほどのものでもありませんし。必要はありません。理由は、恐れが障害ではないからです」
「……思った通り、強情だな」
 じっとレンを見返し、紫月はソファに背中を預けた。
「誰もそんな言い方はしませんよ。冷酷すぎるとおっしゃったらどうです?」
 レンは自分を評する一つの言葉を思い出していた。
『笑わない男』。依頼人たちは一様に、そう評価する。実際、レンの態度が厳しすぎると、契約を途中破棄したクライアントも居る。
 レンにとっては当然の権利。本気で生きる気があるのかどうか、詰問しただけなのだが。
「仕事に忠実で誠意のある証拠だ。
 君を怒らせる気はないよ。穏便に交渉を進めよう」
 再び身を乗り出すようにして、紫月は体を起した。
(強情なのはどっちだ……。理由を知っているくせに)
「どうしても、私でなければならない?」
「そうだ」
 即答されて、レンは沈黙した。
 不思議な気分だった。紫月は、旧知の間柄のように話しかけてくる。お互い直接会うのも、会話をするのも、これが初めてである。電話は一方的すぎて会話ではなかった。
 だが、紫月はFISの報告書の束でレンをよく知り尽くし、レンは世間一般の雪村紫月に対する評価しか記憶にはない。
 日本では五指に数えられる総合企業ユキムラ・グループの御曹司でありながら、父親の死後、その地位を拒否した男。たしか二十四歳の頃だったはずだ。単身、唯一譲り受けた、ユキムラ・グループの中でもセキュリティ関連の企業体を核にして、『FIS』なる世界規模の企業を設立した。
 父親の残したプロジェクトの継続が主だったらしいが、確実にFISのシェアは拡張されている事実は紫月の手腕といえ、才能は年齢とは比例しないことを如実に表している。
 実際、その有能な経営者に丸裸にされた気分は、居心地の悪いものだった。仕事柄か、紫月には颯爽とした若々しさと老練さが同居している。この何年かでレンが苦労して身に着けた年寄り臭さである。
「なぜ女性と若年者のガードを避けるのか、僕が納得できる理由を聞かせてくれないか?」
 こんな問い掛けはレンにとって始めてではない。澱みなく教えてやった。
「往々にして、危険への認識が低すぎます。女性の能力が劣ると批判するつもりはありませんが」
「続けてくれ」
 紫月はレンの視線を捉えながら、すぐに促した。
「危険というものに無防備なだけなら平均値ですが、認識が欠如しているということは、敵を前にする以前に存在する壁です。
 且つ、危機に直面した場合、自己を失い、混乱し、暴走に至り、本来の我々ボディガードの目的さえも忘却し、最悪の場合、もっとも悲惨な状況を自ら招く場合もあります」
「なるほど、危険性の最大限の回避の為か」
 緋色の制服のメイドが、アイスティーをテーブルにのせて引き換えす間、二人は沈黙した。冷たい睨みあいと受け取ったのか、彼女は逃げるように出て行った。
「私に猶予をくれないか?
 君のように優秀なボディガードを諦めるための、時間と物的証拠が欲しい。
 一週間。アテネに滞在している間だけでいい。彼女をガードしてもらいたい。
 FISのセキュリティ・システム部は全面的にバックアップする。幸い、アテネ支部が開設されたばかりだ。君の要求には、完璧に応えることが可能だ」
 白い歯を見せて、自信に満ちた笑みが零れる。レンには真似のできない種類のものだ。
「そちらの優秀なシステム部で、ガードなさればよろしいでしょう?」
「公私混同するつもりはないよ。それに、今の支部の能力では、彼女をガードしきれないのでね」
「FISのシステム以上だと、私は自惚れてはいませんが」
「正直に言って、FISではこれ以上人員を割けない状態なのだ。シェア拡大の為に、手一杯だよ。
 アテネだけじゃない。世界各地に、即戦力となるガードを配置し、支部を開設し、生身の人間による警備、捜索、捜査活動を行うことが急務となっている。
 FISは速やかに、且つ独自に、全世界をカバーできるネットワークを形成する必要があるからね」
 この方法論が、FISを急速に発展させた原動力である。
 紫月の成しつつある偉業には、門外漢のレンでさえ、驚嘆するしかない。
 すでに世界は、何社かの巨大保障企業によって、幾重にもネットワークが張り巡らされている。それ以外にも、各国の情報部によってサーチされ、個人の情報など筒抜けなのである。
 無論、不純な動機による悪しきネットワークも存在する。
 その直中に紫月は乗り込み、企業としての利益を求めようというのだ。無謀とも言える戦い。ともすれば、安定したシェアを持つライバル社に潰されかねないというのに。
『FISは速やかに、且つ独自に、全世界をカバーできるネットワークを形成する必要がある』
 なぜ、そう言い切れるのか?
「よって、私の妹一人に回せる人間は、残念ながらゼロだ」
 あっさりと、両手を挙げて彼は苦笑気味に告げた。
「よくわかりました。では他の、私と同じフリーのボディガードを雇って下さい」
「どう頼んでも無駄か?」
「私は、女性のガードは引き受けません」
 レンの即答を受け、紫月の頬は強張った。
「フリーのガードにしては、とんでもない項目を掲げて、よく五年も続けてこられたものだな」
「ええ。これからも下ろす気はありません。失礼」
 レンは立ち上がった。会見はこれまでである。紫月の声音にも微かな棘という変化を見た。時には思い通りにならないこともある事実を知っただろう。
「私は君が必要だ。君も恐らく私を必要としているはずだ」
「? わかりませんね。
 あなたが言う通り、商社マンやミュージシャンなんかを相手にしている、私は二流のボディガードですよ? そんな人間は他にゴロゴロしてる。超一流の腕を持つフリーのガードだって、あなたのFISのリストにはファイルされてるんじゃないんですか?」
 フワリと、紫月は額にかかる前髪をかき上げた。その手はきれいな指をしている。自然な動作が何を意味しているのか、初対面のレンには図りかねた。
「……三度も言わないよ。
 我々は必要としあっている……」
 立ち上がると紫月は、執務卓に軽く持たれた。
「このまま部屋を出るなら、やむを得ない。
 今後一切の協力を、FISは拒否させてもらう」
 穴の開くほど、レンは紫月を見返した。そんな真似をされたら、レンは干上がるか、しくじって死ぬだけだ。
 フリーの孤独なガードでは手の回らない、特殊な情報を買い取り、FISの機動部、いわゆるガードマンたちにサポートを依頼するなど、年を追うごとに、FISとの契約は頻繁になっていた。
 抗議の視線を撥ね付けて、更に紫月は表情を凍らせた。
「プラス。ある情報部にも同様の依頼を送らせてもらう。
 君は知らないだろうが、中東のさる国王は、父の旧知で妹をいたく気に入っている。君のビジネスを窮地に立たせるのは、私には一本の電話で事足りるんだよ」
 鉄面皮のレンも、この卑怯な申し入れには顔色を変えた。
「もう一つ。予備知識として伝えておくが。
 妹は普通の女性とは違う」
 一瞬、紫月の瞳に苦痛が滲んだ。
「……努力は認めます。合気道、剣道の心得在りというお話しですが、実戦でどうなるか。所詮、女性は女性です」
 最後の空しい抵抗だと、レンは悟っていた。
「そういう意味じゃない。君にも伝わることを祈るが、彼女は特別なんだ」
「どういうふうに?」
 半ば投げやりに、軽い調子で尋ねたつもりだった。紫月は低く呟いた。
「……。神の娘だから、としか言えないな」
『神の娘』だと?
 レンの思考が停止する。
 神々の地ギリシャで、気でも触れたのか?
「答えは?」
 紫月は眼光を強くし、聞き質した。
「……どんな結果がでるか、私には責任は持てませんよ」
 苦々しさを噛み締めながら、レンは呟いた。
「責任など、君の命であがなってもらうさ。今から心配することは無いよ」
 一転して表情を和らげる紫月は、高圧的に続けた。
「当然だろう? 私のたった一人の肉親を、君に預けるんだ。いざという時には、身代わりに死んでもらいたいね。
 たとえ生きて不様な姿を晒しても、君にはガードの仕事が続けられないように手配するつもりだから。同じことだ」
 ……依頼を拒否しても失敗しても、路頭に迷わせるということだ。
 こんな高慢な人種に出会うのも、初めてではないが。一生、こんな仕打ちに慣れることはないだろうと、レンは苦々しく思った。
「かけてくれ。話しはこれからだ」
 きびきびとした動作で、紫月は元の席に引き返した。レンは、鈍い動きで従った。
「ガードに関する要望は?」
 自分の感情を押し殺し、レンは要点に入った。
「特別にはない。君の最善を尽くしてくれ。こちらも協力は惜しまない。ただし、彼女の希望とスケジュールを優先してほしい。自由を束縛しないように。君の仕事の支障のない範囲で。それだけだ」
「もっと具体的な希望が他にあるのではないですか? ある種の話題を避けるとか、必要以上に彼女を怖がらせないようにとか」
「君の一般常識に任せる。
 報告書では、君は女性に関心のないかなりの堅物だとあったので、その点では十分に信頼しているよ。
 フェミニストでなければ『女性は守れない』などと言い切れるものじゃないだろう?」
 執務卓から一束の書類を取り上げた。
「ここに彼女が行きたがりそうな場所のリストがある。詳しい地図も用意させた。
 今夜のうちに頭に叩き込んでおいてくれ。
 君のサポートには、アンジェラ・シールズを当てる。以前、中東で君のバックアップを担当したらしいね。息の合う相手の方がいいだろう?」
 よく調べてあると、今更ながら感心する。『笑わない男』とは正反対な陽性の性格を持つ女性だ。生命の危機感から神経質になっていた依頼人と厳しすぎるレンの間で、完璧なバランスを保ってくれたサポーターだった。潤滑な任務の遂行には貴重な上、居て損の無い人材であることは、一匹狼を固辞するレンであっても、素直に認める唯一の女性といえた。
「それと、君の名義で拳銃携帯許可証を申請しておいた。すぐに受け取りに行ってくれ」
 完璧な自信と、手回しの良さ。一度手の中に入った獲物は絶対に逃さない、狡猾さ。
(一体、俺は何をやっているんだ……!)
 数時間前、LAの空港内で呼び出され、カウンターでプラチナブロンド美人から受話器を受け取った。すでに、カナダ行きのチケットを、レンは手に握っていた。
 受話器の向こうには、目の前の男が居て、FISのトップだと知った時には、正直驚いた。早口の日本語を懐かしいとさえ感じた。そこからが罠への第一歩だった。
『仕事を依頼したい。個人的な依頼だ。堅苦しく考えないでくれ。
 私の妹をガードしてほしい。緊急だ。どうしても君の手が借りたい。とにかくアテネに来てほしい。
 アテネのグランド・エルターニュで詳しく話し合おう。それでは、待っている』
 少なくともあの時の口調は切迫していて、今の高圧的な気配など微塵もなかった。だから、ついふらふらと紫月の罠の中へ飛び込んでしまった。
 レンは断るつもりだったが、紫月は最初から『断られる』気は無かったのだ。
 必要書類を渡され交渉の終了が告げられた。笑顔で促されドアを押したレンの背中に、電話のベルが反響した。
「? 紫月だが、どなた……? !
 たった今から、気分は最悪だ!」
 吐き捨てる言葉の激しさに、レンは反射的に振り返った。別人だ。なぜか黒い瞳は鋭い怒りに満ちている。
「どういうご用件かな? フォートバーン伯爵、それとも今はベルエイブル氏かな?
 どんな手を使ってここを突き止めたかは知らんが、名無しのミスター? 生憎だが、妹は同行してはいないよ」
 納得した。妹がらみとなると、人格が変貌する男らしい。
「香港に? 君も随分と忙しい身らしいな……、おいっ!」
 一方的に電話を切られ、しばし紫月は呆然としていたが、すぐにダイヤルを選んだ。
「紫月だ。香港支局に連絡を。Z(ゼーダ)が香港に居るらしい。本人を確認してくれ。出国管理局で、出国するようなら事前にチェックするように。
 アテネには、絶対に近付けるなよ」
 ともかく。紫月に泡を食わせた『Z』に、ささやかだが感謝をするレンであった。


ここまで、お読み頂き有難うございました。感謝致します。心の支えになります。亀以下の歩みですが、進みます。皆様に幸いが有りますように。