【ワンシーン小説】fall
男は最後のドアを開け、ある商業ビルの屋上に出た。
目の前には夜の都市が広がっていた。人々が灯すきらびやかな光は遥か遠くまで続き、時折吹く強いビル風が男を襲った。
すべてはあと数分で終わるはずだった。それが現実になるか否かを決めるのは男自身だった。そう思うと、男の脳はまるで別の生物にでもなったかのように、不気味に動き始めた。
男はポケットからスマートフォンを取り出し、都市に向かって投げた。スマートフォンは都市の光に揉まれながら落ち、次第に回転の速度を早めて消えていった。しばらく経っても、下に着いた音は聞こえてこなかった。男はその事実を受け止め、ゆっくりと目を閉じた。今度は男の番だった。
男は柵を乗り越え、へりに足をかけて下を覗いた。するとはじめて、眼下にごま粒ほどの人の姿が見えた。男は一度、誰もいない背後を振り返った。だが風は相変わらず強く吹き、男を急かした。男は決心とも諦めともつかない息を一つ吐き、宙へ飛び出した。
きっと走馬灯のように様々なことを思い出すだろうと男は淡く考えていた。だがそんな余裕はどこにもなかった。
身体の回転とともに視界はぐるぐる回って、頭は混乱を極めた。そして何より、落下していく恐怖で他のことなど考えられなかった。
男は身体をすぼめて回転と恐怖に耐えようとした。だがその分空気の抵抗が減ったのか、速度は増していった。
どこかから人の叫び声が聞こえた。男は知らぬ間に閉じていた目を開いた。天と地が目まぐるしく入れ替わる中、自分を見上げている地上の人々の姿が辛うじて見えた。
男は彼らの表情をもっとよく見たいと思った。一回転する毎に、彼らの容姿や顔の輪郭がはっきりと浮かび上がってきた。だが同時に、それは地面との衝突が近いことも意味していた。
地面との距離はもう数十メートルまで迫っていた。男は遂に人々の表情を捉えた。しかしそこにあったのは微かな軽蔑だけだった。それもほんの数人で、ほとんどの人は無関心に男を見上げていた。
男は呆気にとられてしまった。もっと強烈な恐怖や驚きが浮かんでいるはずだった。そうこうするうちに、地面はもう目と鼻の先まで近づいていた。
人々は最後の瞬間を見ないように、手で顔を覆い始めた。それを見た男は突然、腹の底から強烈な力が湧き上がってくるのを感じた。
はじめのうちこそ、これは怒りなのではないかと男は思った。だがすぐにそうではないと気づいた。
人々がどうであろうともはや関係なかった。男ははじめて心と身体が、自分と世界が重なって、自由になれたような気がした。
男は落下に抗って地面に手を着いた。だが触れた途端指は粉々に砕け、全身に痛みが走った。
それでも男は抵抗をやめなかった。あと数センチに迫った時、男は回転する身体をねじりながら地面に頭を突っ込んだ。この地面の先にまだ見ぬ世界が広がっているなら、隅々まで見てやろうと思った。
こんなことで終わるわけにはいかなかった。
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