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短編_金の雨降り

 豪雨の中、智晴と照子を訪ねてきた友人は思いもよらないものを二人に預け、しまいにはマンションの住民を巻き込んだ騒動が起こる。
 崩壊していく世界の中で、未来を探す姿を意識して描きました。
(文字数:約8600字。文庫本で20ページ程度、1時間ほどで読み終わります)

サムネイルは Bing image creator で作成

 雨水が流れ込む排水口には溺死した蝉の死骸が溜まっていた。コーヒーを蒸らすわずかな時間、智晴はふとキッチンの小窓を眺めやってその様子に気づいた。そして顔を近づけて蝉の数を数えようとした。だがとめどなく窓を伝って流れる雨水のせいで、景色は海面のようにゆらゆらと揺らいでいた。ただ山盛りになった蝉たちのシルエットが見えるだけだった。

 智晴は二つのマグカップにコーヒーを移しながら考えた。これだけ大量の蝉の死骸を一度に見たことはなかったが、この雨ならあり得ないことではなかった。異常に発達した雨雲はいつまでも空に居座り、凄まじい雨は三日も続いていた。木陰に身を潜めてもきっと無駄で、雨は容赦なく蝉たちを洗い流したことだろう。そのうちの数匹が博打に出て飛び立ったとしても、雨に羽を撃ち抜かれて終わりだったのだろう。

 いい気味だと智晴は思った。うるさい奴らはいない方がよかったし、そもそも年を追うごとにおかしくなっていく夏の季節に適応できないのなら、その程度の生物だというまでだった。智晴たちの住むマンションに今のところ雨の被害はなかった。これだけ山から離れていれば土砂崩れの心配はなかったし、智晴たちの住む一階は地面から多少高いところに作られているので、浸水の恐れはなかった。

 智晴は妻の照子の前にマグカップを置いた。照子はダイニングテーブルの前に座って、熱心にスマートフォンを見ていた。よく見ると、耳にはワイヤレスのイヤホンを付けていた。
「照子、コーヒー」
 といって智晴は照子の視界に入るように手を振った。
「ああごめん。ありがとう」
「何を観てたの?」
「ニュース。やっぱり専門家の人にもいつ収まるかわからないんだって。それから海には絶対近づかないようにって」
「ニュースなんて観るなって言ったじゃないか」
「私一人で観てるんだからいいじゃない。智くんに迷惑かけないようにちゃんとイヤホンまで付けてるんだから」
 智晴はテレビのニュースが好きではなかった。わざわざアナウンサーの緊迫した声を聞いたり、テロップで〈異常〉やら〈記録的〉やらの文字を見たりして、必要以上に心を乱したくなかった。今がどれだけ緊迫した状況なのかなど、もう十分わかっていた。
「でもさ、本当にこれからどうなるのかな?」
「ほらそうやって不安になるだろ」
「だって……。毎回こんなに降るようじゃ、雨の日は外に出れないし、晴れたら晴れたで猛暑だし」
「これから夏は外に出なくなるかもね」
「そんなの不健康すぎ」
「出て危ない目にあうよりいいんじゃない?」
「そうだけど……」
「じゃあこうしよう。夏は外に出てずっと水に浸かる。そうすれば涼しく太陽の光を浴びれる」
「それじゃあ何もしてないのと一緒じゃん」
「夏は休みの季節にするんだよ。冬眠の逆バージョンみたいに」
「南国の人って夏は何してるんだろ?」
「さあね。そろそろ日本も桜の代わりにマンゴーでも植えるといいかもね」
「桜って暑いと死んじゃうの?」
「知らない」

 その時、智晴のスマートフォンが鳴った。着信は同じマンションの九階に住む三郎からだった。
「やあ智晴。突然なんだけど、食べ物って余ってたりする?」
「食べ物? あるにはあるけど」
「実はこんなに降ると思ってなくて、全然買い溜めてなかったんだ。買い物に行こうか迷ってたところでさ」
「買い物は無理だろ。風邪ひくどころじゃないぞ」
「とりあえずそっちに行くわ」
 智晴と照子は家にある食料を確認しにパントリーに向かった。そこにはカップ麺やレトルトカレー、アルファ米やパスタソースや缶詰がずらりと並んでいた。他にも二階の倉庫には、照子が月に一度はチェックしている災害用の食料が入ったバッグがあった。
「これだけあれば三郎たちにも渡せるね」
「うん。でも、なんかウキウキしないものばかりね」
「ウキウキ?」
「食べるためのものしかないっていうか。〈食料〉って感じで」
「食べ物なんだから当たり前じゃないか」
「わかってないなぁ」

 そうこうするうちにインターフォンが鳴った。智晴は画面を確認せずにドアを開けた。そのせいで、智晴は腰を抜かすほど驚くこととなった。三郎と秀美の夫妻は水着姿で廊下に立っていた。
「なに! その格好?」
「いやあ、どうせ濡れるならいっそ海パンで行こうかなと思って」
「うちに来るためだけに? 他の人に見られたらどうするんだよ」
「違うのよ、智晴。私たち買い物に行くんだから」
「いやいや止めとけって。さっき言ったばかりだろ」
「そうですよ秀美さん。何かあったらどうするんですか?」
「一階の二人は知らないと思うけど、九階からの眺めはすごいぞ」
「そこらじゅう海みたいになっててね。魚が泳いでても不思議じゃないくらい」
 智晴はため息をつきつつ、説得を諦めることにした。
「で、買い物に行くとして、うちには何をしに来たの?」
「だから、買い物に行ってくるって伝えに来たんだよ」
「そうかい。そりゃあ、わざわざありがとう」
「本当のことを言うと、来る途中で気が変わったのよ。外に出た途端、なんかもう気持ちが抑えきれなくなっちゃってね」
「気を付けてくださいね」
「ありがと。照子ちゃん、欲しいものあったら買ってくるけど、何かいる?」
「そうですね、お肉かお魚があれば嬉しいかも。あまり新鮮なものを食べてないから」
「オッケー。任せて!」
「じゃあ行ってくるわ」
 といって、二人は律儀にも頭に付けていたゴーグルを目に装着してから、エントランスへと歩いて行った。
「秀美さんたちってどうしてああなの?」
「おれにもわからないよ」

 三郎と秀美は智晴の高校時代の同級生だった。だが智晴が出会った時には、幼馴染み同士の二人は既にあの調子で、完全に別世界に生きていた。同級生たちの中で二人の世界との間を行き来できるのは、なぜか智晴ただ一人だった。そのせいで、智晴は友人たちから謎の尊敬を集め、先生からも一目置かれるようになった。大人になってもその関係は変わらず、智晴が照子と結婚してこのマンションに住み始めると、程なくして二人も引っ越してきて、ある日突然「やあ」といってドアの前に現れた。

「ひょっとして天才なんじゃない?」
「ただの変わり者だよ。いや、あの格好じゃ普通に変態だな」
「私よく秀美さんとランチに行くけど、話していていつも自分が何者かわからなくなるもの」
「どういうこと?」
「なんていうか、あの人って本当に自由だから、自分の好きなものとか嫌いなものがなんでそうだったのか、途中でわからなくなっちゃうっていうか」
「秀美とランチになんか行くもんじゃないよ」
「でも楽しいのよ。違う生き物になったみたいで」
「怖いこと言うなぁ。それより、店なんて今やってると思う?」
「やってないよ。ニュースで見たもの」
「言ってあげればよかったのに」
「言って聞くような人たちじゃないことくらい、私も知ってますから」
 案の定、二人はただずぶ濡れになって帰ってきただけだった。それでも三郎は、まるで水辺で遊んだ子どものようにはしゃいで喋った。
「すごかったぞ! 国道は冠水して車は一台も走ってないし、まるで海の上に街を作ったかのようだった!」
「三郎さん、タオル」
「ありがとう。でも泳ぐにはもう少し降らないとダメだな」
「泳がなくていいからな、三郎」
「秀美さんは?」
「秀美なら……」
 といって三郎は廊下の向こうに顔を向けた。ドアから身を乗り出して覗くと、秀美はエントランスの近くで猫を抱えて立っていた。

「木陰でずぶ濡れになってたんだ。周りは本当に海で逃げ場もないし、このままだと危ないかなと思って拾ってきた」
 三郎はそう言うと、なぜか廊下の奥に向かって歩いて行った。するとそれを合図にしたかのように、秀美がドアの前にやってきた。胸に抱えられた猫は黒ぶちで、雨に濡れたせいでほっそりとして見え、明らかに元気がなかった。
「申し訳ないんだけど、預かってくれないかな? 三郎、猫アレルギーなの」
「え!?」
 智晴と照子は声を合わせて言った。
「マンションがペット禁止なのは知ってるけど、これは緊急事態でしょ?」
「そうだけど、さすがに無茶だよ」
「秀美さんはまずこれで身体を拭いてください。猫は一旦下に置いて、私が拭きますから」
「照子?」
「雨が止むまでの間だけよ」
「ちょっと待て。いつ止むかなんてわからないじゃないか。本当にちゃんとニュース観たのか?」
 照子はキッと智晴を睨んで、すぐに顔を背けた。秀美は気持ち良さそうに長い髪をガシガシと拭いて言った。
「二人の下なら猫ちゃんも安心だと思うわ。それにほら、うちには猫ちゃんの分の食料なんて本当にないんだから」
「そうでした、準備しなくちゃ。二日分くらいあれば十分ですか?」
 といって照子が猫から手を放して立ち上がった瞬間、猫は玄関の敷居をまたいでそそくさと部屋に入ってきた。
「ああもう……」
 智晴はせめて他の部屋に入らせないよう、急いで先回りしてドアを閉めた。道をふさがれた猫は文句を垂れるように鳴き声を上げ、最後にはリビングのカーテンの下で丸くなった。

 三郎と秀美が帰った後、照子は缶詰のシーチキンと深皿に入れた水を猫に与えた。食事をフローリングの上に置くと、猫はあっという間にそれらを平らげ、なおも食事を求めるように二人を見上げた。
「がめつい奴め。もうあげないからな」
 すると空腹が満たされたのか、猫は活発に動き始めた。部屋中を動き回って食べ物を探しているのかと思うと、突然カーペットや壁を引っ搔き、飽きると今度はテーブルの上に登ってコーヒーの入ったマグカップをひっくり返した。

 智晴は完全にブチギレてしまった。そして「やめろ!」と声を荒げて猫をひっぱたいた。すると猫の方でも敵意をあらわにして、智晴の顔を見ると殺気だって威嚇し、しまいには宥めようとする照子の指まで噛むようになった。
「だめだ、もうやってられない!」
 といって智晴は玄関のドアを開けた。雨はさっきよりも激しく降り、廊下を挟んだ手すりに打ち付ける水が顔に跳ね返ってくるほどだった。ほんの数秒ドアを開けているだけで湿気は全身にまとわりつき、足元から部屋の冷気が逃げていくのがわかった。
「この状況で追い出すつもり?」
「仕方ないだろ! こっちだって部屋を荒らされちゃたまったもんじゃない。さあ出てけ出てけ!」
 智晴は猫を足蹴にしながら玄関の方へと追いやった。猫は開け放たれたドアに気が付くつと、急激にスピードを上げて駆け出し、外へと逃げて行った。

 だがこれで一安心とはいかなかった。しばらくすると、廊下を行ったり来たりして鳴いている猫の声が聞こえた。出口を求めてうろうろしているのは容易に想像できた。普段ならなんてことない高さの廊下の手すりも、この雨では登ったところで外に出られないだろう。エントランスの自動ドアのセンサーが反応するわけもなければ、猫一匹でエレベーターに乗れるはずもなかった。智晴と照子は痺れを切らして廊下に出た。このまま鳴き続けられては周りの住人たちにも迷惑だった。すると案の定、一階のあちこちでドアが開き、ぞろぞろと住人たちが出てきた。

「誰か猫でも飼っているのかね?」
「違うんです。友人が急に持ってきた猫でして……」
 智晴は事情を説明した。
「もしかして、それって九階の坂田さんですか?」
「あの変わったご夫婦?」
「そうです! ご存じでしたか?」
「そりゃもちろん。このマンションで一番の有名人じゃないかな。ああ、ごめんね。悪く思わないでくれ」
「全然。昔からああいう感じなんで」
「私ちょっと雨の様子を見ようと思って戸を開けたんだけど、あの二人水着で外を歩いてなかった?」
「嘘? なにそれ?」
「ほんとなのよ斎藤さん。私もびっくりしちゃったんだけどね……」
 照子は「あの!」と言って話題を戻した。
「とにかく雨が止むまで、あの猫をどうにかしないとだめだと思うんです。でも、猫用のゲージなんて誰も持ってないですよね?」
 一同は一斉に首を横に振った。
「管理人さんに相談してみるのは?」
「たぶんこの雨じゃ出勤してきてないんじゃないかな。僕はよく管理人と話すんだけど、たしか電車で二十分くらいかけて来てるって言ってたから」
「とにかく行ってみましょうよ。隣のごみ置き場にゲージの代わりになりそうなものがあるかもしれないし」
 一同はまず猫を捕まえてから管理人室へと向かった。猫は人の多さにひるんだのか、それとも鳴き疲れたのか知らないが、案外すんなりと照子の腕に収まった。

 管理人室は暗く、扉には鍵がかかっていた。一同は諦めて隣のごみ置き場に行き、ゲージの代わりになりそうなものを探した。するとその時、管理人室の電話が鳴った。一同は一瞬音の鳴る方に振り向いたが、取ろうにも取れないことに気づくとまた向き直った。
「さすがにゲージみたいなものはないわね」
「このカゴを裏返しちゃえばいいんじゃない?」
 それは一番中身の入っていない瓶用の大きなカゴだった。
「ナイスアイデア」
「上に何か重いものでも置いとけばいいかも」
「じゃあ下にはオムツでも敷いておきましょ」
 と言ったのは智晴と照子の隣に住む山岸さんだった。
「そうすれば猫ちゃんも安心だろうし、後で片付ける時にも楽でしょ」
「でもオムツなんて持ってる方いますか?」
 と照子は言った。その時、またしても電話が鳴った。すると一人の若い女が管理人室の表側へと回っていった。

「実はうちのおばあちゃん、ついこないだ亡くなっちゃってね。ちょうど大人用のオムツが余ってるのよ」
「え! そうだったんですか……。まったく知らなくてすみませんでした」
「いえいえ、私も皆さんに伝えようか迷ったんだけど……」
「もしもし? 管理人さんは今いませんよ」
 若い女の声はエントランスの広い空間に反響してごみ置き場まで聞こえてきた。どうやら開いていた表の小窓から電話を取ったようだった。
「突然のことだったから、葬式とか役所の手続きをしているうちにすっかり忘れてしまって。ごめんなさいね、皆さんにお世話になっておきながら」
 一同は再度一斉に首を横に振った。
「電気は予備電源があるはずですから、ある程度は大丈夫だと思いますよ。―いや水道は知りません。―私? 一〇三号室の橋本です。名前なんて聞いてなんになるんですか?」
「まだまだお元気そうでしたのに……」
「ちょっと熱があるっていうから病院に連れて行ったんだけど、そのまま体調が急変しちゃってね。入院して一週間くらいだったかな。でも、こんな形でオムツが役に立つんだから面白いわよね。皆さんともたくさんお話できたし」
 誰もが山岸さんと同意見だった。住人たちはこれまで廊下ですれ違えば挨拶こそするが、お互いのことをほとんど知らなかった。
「今度お線香上げに行かせてください」
「ぜひぜひ! おばあちゃんも喜ぶと思うわ。さあて、私はオムツを取ってきますね!」
 山岸さんと入れ違いに、電話を終えた若い女が帰ってきた。

「こっちの名前は聞くのに、自分の名前は名乗らないのってどう思います?」
「どんな人でした?」
「高齢のおじいちゃん。たぶん一人で住んでて暇なのね」
「寂しいんだよきっと」
「だからって、用もないのに管理人室に電話をかけるのはどうなの?」
「許してあげましょうよ。この雨じゃ心細くなってもおかしくない。僕たちはたまたまこうしているから、気が紛れているだけだよ」
「それにしても、雨止みませんね」
 窓のないごみ置き場からは、実際にどれだけ降っているのかわからなかった。だがマンションの壁に打ち付ける雨の音で、その程度を知ることができた。ある瞬間、雨は会話を遮るほど強く降りつけ、静まったかと思うとまた降り出した。一同はその度に、思わずその方向の壁を見つめた。

 戻ってきた山岸さんは数枚のオムツをハサミで切って平にし、地面に敷き詰めた。照子がその上に猫を置くと、智晴はさらにその上から裏返したカゴを被せた。最後に重りになるごみを乗せて、猫のゲージは完成した。一同はひとまず明日の朝、ゲージの中を確認することにしてそれぞれの部屋に帰った。

 その夜、住人たちはよく眠れなかった。
 智晴はベッドに入ったものの、脳裏には悪い想像ばかり浮かんだ。水嵩がこれ以上増えて、もし浸水してきたらどうすればいいのか。本当に泳げるくらい、足がつかないくらいの水量になったら、この街はどうなってしまうのか。
 智晴はベッドから起き上がってキッチンへ向かい、コップに水を注いで飲んだ。暗い夜の中で、水は食道を落下していく青い光のようだった。おかげで智晴はいくらか冷静に物事を考えられるようになった。

 大雨の原因は自分たちにはなかった。智晴たちが生まれた時には、既にこの崩壊は始まっていた。といって、止める手段はなかった。智晴たちにできるのは、気まぐれに雨が止むのを待つこと、そしてこの崩壊を見届けることくらいだった。
 ベッドに戻ると、照子はもぞもぞと動いて「眠れないの?」と言った。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。私もあまり眠れてなかったから」
 智晴はそっと照子の手を握った。
「雨は止むよ。それでしばらく経ったら、もっと大きな雨が来る」
「やめて。寝れなくなっちゃう」
「眠れるよ。今日のところは」
 二人は夢うつつの中で雨の音を聞いた。
「まずはしっかり見通しを立てるんだ」
「見通し?」
 と照子は欠伸をしながら言った。
「そうすれば、何に食らいつくべきか見えてくる」
「もう寝よう、智くん」
「……うん」
 智晴はしぶしぶ目を閉じた。するとあっという間に雨の音は聞こえなくなっていった。眠りに落ちつつある智晴には、意識が遠ざかっているせいなのか、本当に雨が弱まっているのか、わからなかった。

 翌朝、二人は身支度を整えてすぐにごみ置き場へ向かった。玄関を開けると外は嘘のような快晴で、早くも昨夜の雨水を太陽が温め、数歩歩くだけで汗が噴き出るような暑さと湿気が辺りに充満していた。ごみ置き場では既に集まった一階の住人たちと、なぜか三郎と秀美が話をしていた。智晴は二人が変な格好をしていないのを見て、ひとまず安心した。
「おはよう、智晴! 昨日はありがとう」
「一階の方々は良い人ばかりね。みんなで猫ちゃんを守るなんて、私感動しちゃった」
 すると山岸さんが微笑みながら言った。
「良いお友達をお持ちね」
「すみません、朝から。ご迷惑をおかけしてないといいんですが……」
「全然。みんな昨日は眠れなくて、さっきまで目をこすってたんだけど、あのお二人のおかげで元気になっちゃった」

 その時、エントランスの自動ドアが開いて人が近づいてくる気配がした。やって来たのはマンションの管理人だった。一同は昨夜の出来事を説明した。すると管理人は居合わせられなかったことを詫びた。
「鈍行も止まっちゃったもんでね。せめてもと思って、今朝は朝一番の電車で来ましたよ」
「そうだ、管理人さん」
 と言ったのはあの若い女だった。
「私勝手に電話を取っちゃったんです。どこの階の誰かわからないけど、クレーマーっぽいおじいちゃんで」
「もしかして小枝さんかな? ちょっと高い声で早口の?」
「たぶんそうです!」
「まったく。しょっちゅうかかってくるんですよ。何か嫌なことでもあるんでしょうね」
「動物でも飼ってみればいいのに」
「あの猫ちゃんでもプレゼントしますか?」
「止めとこう、秀美。あいつは人に懐かないよ」
「もしかして大変だった?」
「ちょっとやんちゃな子ではありました」
 秀美は申し訳なさそうに両手を顔の前で合わせた。

 一同は裏返したカゴを上げて猫を取り出し、マンションのエントランスを出た。その途端、一同は朝の熱波を受けて顔をしかめ、足を止めた。この数分間の間にも太陽はアスファルトを照り付け、辺りは陽を受けて輝く水溜まりの金色とは裏腹の、気が狂うような暑さに包まれていた。智晴は一瞬現実感を失った。目の前の金色の水溜まりとこの暑さは、別の世界の出来事だと考えた方が理解しやすかった。だがこの時、智晴はそう考えたい自分がいることに気づいた。智晴は自分のことを鼻で笑った。そして唐突に大きく肩を回して、隣の照子を見た。照子は腕に抱えた猫を下ろそうとしているところだった。
「元気でねー! もう三郎さんと秀美さんに見つかっちゃだめだよ!」
「もしかして照子ちゃん、僕らのこといじってる?」
「そんなわけないでしょ。照子ちゃんは良い子よ」
 猫は金色に光る水溜まりを避けながら、一度も振り返らずに消えていった。
「じゃあ、私も行きますね」
 と言ったのは若い女だった。
「お仕事ですか?」
「そう。だいぶ溜っちゃっているんで、早めに行って片付けないと」
「オムツのごみは私に任せてね。って言っても、ごみ置き場にあるからすぐだけど」
「じゃあこれで解散にしますか」
 一同はそれぞれ部屋に戻ったり、仕事に向かったりした。特に次に会う機会を約束することはなかった。むしろ全員が顔を合わせるのが今日のような非常時だとすれば、そんな機会はない方がよかった。それでも、次に誰かと会った時、今まで以上に心の込もった挨拶ができるだろうと誰もが思った。

(了)


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