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掌編_我が白原

 彼が向かいの檻から出ていってしまったことを、私はまだ受け止め切れていなかった。私は一人地べたに座って、力なく顔を上げた。檻の鉄格子はしなびた花のように折れ曲がって固まり、いつまでも彼の不在を示し続けていた。

 彼と私はずっと一緒だった。二人でいたからこそ、この不自由な檻の中での生活にも耐えることができた。互いの境遇を慰め合い、励まし合う時、私は彼の言葉が嬉しかった。脱出の方法について真剣に議論をする時でさえ、私には楽しいひとときだった。結果的に私たちは、檻に鍵穴が付いていないことを発見した。それから看守がいないことも、私たちの監獄だけが切り取られたように孤立していることも、のちに明らかになった。
「となると、僕たちをここに閉じ込めたのは誰なんだ? まさか僕たちは、進んで檻の中に閉じこもったとでもいうのか?」
 と彼は言った。彼が大真面目に脱出の方法を考えていることが私には少し可笑しかった。新しく判明した事実は、私にとってそれほど大切なことではなかった。脱出しようがしまいが、彼とともにいられることに変わりはなかった。脱出の方法がわかれば、彼は当然私を連れ出してくれるはずだった。

 私たちはあらゆることを話した。彼は話が弾むと「君と一緒なら、なんだってできる気がする」と口癖のように言った。私はそれが嬉しかった。
「檻を出たら一緒に美味しいものを食べよう。僕の生まれたシチリアの海を眺めながら、トマトをたっぷり使ったパスタを食べるんだ。ワインは僕の妹がサーブするよ。でもいいかい、決して妹に色目を使っちゃだめだ」
「お兄さんの君の前で、そんなことするわけないだろう」
「いや、君ならやりかねない」
 私たちは笑い合った。
「昔から臆病で恥ずかしがり屋だけど、とても気立ての優しい子なんだ。君に紹介したい」
「本気で言ってるのか? もうワインを飲み過ぎたんじゃないだろうね?」
「本気だよ」

 彼との日々を思い出していると、私は檻にある変化が生じていることに気づいた。檻の鉄格子はみしみしと音を立てながら膨張し、一本ごとの隙間が減って壁のようになり始めていた。私は彼が去り際に言ったことを思い出した。
「この檻に閉じ込めているのは、自分自身だ」
 どうやら檻と私自身は繋がっているようだった。私は彼が檻を出る間際に取り組んでいたあることを試した。坐禅を組み、呼吸を整えて、目を閉じた。何をしているのかと聞くと、彼は「瞑想だ」と答えた。あのあたりから彼の目つきは変わり、言葉数も少なくなっていった。

 だが依然として檻は元のままだった。彼と同じ方法では私の檻は開いてくれないようだった。私は一度問題を整理し、頭から考え直すことにした。まずは鉄格子の太さを変える必要があった。
 その時、私はあることに気づいた。と同時に鉄格子は、まるで私の気づきと呼応するかのようにキラリと光った。過去を思い出して膨張したのであれば、未来を思考すれば収縮していくかもしれなかった。鉄格子はその通りだと言わんばかりにもう一度光った。
 だが、私には生きてみたい未来などなかった。頭に浮かぶのは彼とシチリアの海を眺めながら食べるパスタのことばかりだった。すると鉄格子は急速に膨張し始め、あっという間に壁と変わった。私は完全に私自身に閉じ込められてしまった。

 中の様子は決して居心地が悪いものではなかった。壁のいたる所には彼のある時、ある瞬間の表情が映し出され、また時折、思い出すことのできないもっともっと昔の誰かの横顔が浮かび上がっていた。私は堪えきれず涙を流した。そしてもっと近くで見ようと手を伸ばした。だが私が近づくと、彼らは消えていった。もとの場所に戻ると姿を現し始めるが、決して近くで見ることはできなかった。何度やっても同じことだった。
 私はだんだんと腹が立ってきた。どうして私は私自身に嘲笑されなければならないのだろう? 自分にとって大切なものはすべて自分のものにしたかった。彼も昔の誰かも、ちゃんと私の側にいて欲しかった。いやいっそのことあらゆるものを手に入れて、自在に操り、支配したかった。それこそが自由だと私は思った。

 すると、壁の四隅には白く明るい点が現れた。四つの点は檻の各辺を高速で駆け回り、切り込みを入れた。すべての辺に白い光が走ると、檻のそれぞれの面は後ろに倒れ、それまで私の目に映っていたものは一斉に姿を消した。
 外には真っ白な平原が広がっていた。空も大地も見渡す限り白かった。そのため、なだらかな地形にできるわずかな影がなければ、平衡感覚を保つのは難しかった。すぐ近くの丘の上では、白い茎に白い穂を付けた植物が風に揺れていた。しかし、葉擦れの音は聞こえてこなかった。私は耳がおかしくなったのかと思い、近くで聞こうと一歩踏み出した。すると私の足音だけが耳に届いた。この平原に聞こえるのは私自身の音だけだとわかった。

 しばらくすると、空から一枚の紙が落ちてきた。紙には彼の筆跡で「 脱出おめでとう」と書いてあった。私は彼に会いたくなった。彼をこの平原に作りだそうと思った。自由であれば、それくらいできて当然のことだった。私は背後に気配を感じる間もなく、肩を叩かれた。
「元気だったかい?」
 と私は言った。彼は笑ってみせた。
「君の故郷のシチリアの海をここに作ろう。僕は行ったことがないから、教えてくれないか? 海はどんな色をしていて、どんな風が吹き、どんな日差しが差し込んでいるのか。一から十まで僕が作ってみせる。君の妹のことも詳しく教えてほしい。どんな服を着ていて、どんな髪型をしているのか、そしてどんなふうに笑うのか。もちろんパスタと、君の妹が手に持つワインについても」
 だが彼は肩をすくめた。
「そんなことより、散歩でもしないか?」
「散歩?」
「君の世界の果てまでいこう。君と一緒なら、どこまでだって行ける気がする」
 彼が私の提案に乗らないのは意外だった。
「でも本当にいいのか? 君はあれだけ故郷のシチリアの海を見たいと言っていたじゃないか。遠慮しなくていいんだよ。君を作ったように、僕には容易いことなんだから」
「わかってる、わかってるよ」
「まさか先に脱出したからって、僕のことを見くびっているんじゃないだろうね?」
「違うよ。まずは君の世界を見てみたいんだ。僕のことは後でいい。じゃあそうだな、散歩が終わってからはどうだろう?」
「もちろんだよ!」
 私は元気よく答えながらも、少しだけ不安だった。彼の言う私の世界の果てには、いつになったら辿り着けるのかわからなかった。だが私は彼にそのことを聞かなかった。彼がそう言うのなら、それでいいのだろうと思った。

「ねえ、自由とは本当に素晴らしいね。もう一度君に会うことができた。すべてが思い通りだ。そういえば、君はシチリアの海の他に欲しいものはないのか? それから君は脱出してから、今までどこに行っていたんだ? まさか一足先にシチリアの海を見てきたんじゃないだろうね?」
 彼は私の冗談に答えることなく、既に歩を進めていた。その横顔にはうっすらと笑みが浮かんでいるように見えた。私は彼を追って走った。そして横に並ぶと、白い平原の果てに向かって歩き始めた。

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