意識についての仮説と石

意識

魂、霊、ゴースト、主観、意志、意識(現象的意識)─────様々な語で呼ばれるが、本記事の中では以後、単に「意識」と称する。


科学が発達して脳の機能も明らかになってきたのに解明されない、"これはそろそろ科学で取り扱うべきなんじゃないの?観測できないからって誰も手をつけないけどさ"という、こちらの問題を切り口に始めよう。

意識のハード・プロブレム

  • 物質としての脳の情報処理過程に付随する主観的な意識的体験やクオリアというのは、そもそも一体何なのか?

  • 主観的な意識的体験やクオリアは、現在の物理学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか?

この前半部についての、自分なりの仮説がある。そして後半分の解決へのアプローチを拡げることができるができるとも思っている。名付けて─────

「アンビバレンス説明仮説」

  • 意識は判断を行うすべてのシステムに、その判断の説明として付随する。

  • 意識はシステムの行う判断の複雑さに伴って濃淡を持つ。

和柴は言っている。
地球も、森も、工場の化学プラント、パソコンも。和柴、和柴の細胞、和柴の細胞のミトコンドリア、和柴の細胞のミトコンドリアのタンパク質に至るまでが「意識」を持っている、と言っている。犬も人も草も星も。そして鹿威しも。

だが石にはない。

"アニミズム(八百万の神々)か、お前にはがっかりだよ。"
まぁそう逸るでない。「石にはない」のだ。

意識レベル

例1:
カジュアルに用いられる「脳死」という言葉がある。頭を使っていない状態を指して言う。あなたがこの「脳死」で、他に考え事をするわけでもなく、箱からミカンを取り出し袋に詰める作業をしているとき、ミカンや袋を認識しているし、意識もある。このときの意識を仮に「薄い意識」とする。
かたや田舎の農協に、箱からミカンを取り出し袋に詰めるロボットがあって、コンセントに繋がれて動いている。

和柴はこのロボットに、先程あなたが脳死作業しているときの「薄い意識」と同じくらいの意識があると主張している。

例2:
和柴がコンクリートブロックや鉄パイプを用い、あなたを襲撃する。徹底的に頭部を狙われ意識を失ったあなたは救急病院のICUへ、和柴は警察の留置所へ。一命を取り留め、病室で絶対安静の状態で意識が戻るのを待たれているものの、あなたには高次脳機能障害が残るだろう。
翌朝病室に光が射し、目を開ける。瞳孔が少し収縮する。脳を大きく損傷したあなたは何も考えられず、ただ「明るい………」と感じた。このときの意識を「薄い意識」とする。
病室の窓際に置かれた植物は、フィトクロム、クリプトクロム、フォトトロピンなどの光受容体で明るさを感じ、植物体内にシグナル物質を放出し、光屈性を作動させより多く光を浴びようとする。

和柴(あなたを襲撃した仮定の和柴ではなく、ぼく)は窓際に置かれた植物に、脳を大きく損傷したあなたの「薄い意識」と同じくらいの意識がある、と主張している。

例3:
鹿威しは水がいっぱいになると動作し、音を出す。

和柴は鹿威しには"水がいっぱいになったなぁ"と感じる意識がある、と主張している。

"例1はまだ、制御部のマイコンに魂が宿るのもわからいではない。植物も動物も真核生物だし、例2も許そう。例3は流石にどうなんだ。竹筒の組み合わせのどこに魂が宿るんだよ!筒か?軸か?柱か?バラしたらどうなるんだよ!?"
とても良い問いかけだ。

逆にあなたの魂は、あなたのどこにあるだろう?心臓?脳?脊髄?そしてその所在は、バラしてしまったらどうなるのだろう。あなたの身体で試してみないか?少しずつ脳以外の全ての器官を切り取っていく。「水槽の脳」のミームの実験例は公式には存在しない…あれが成功すれば、少なくとも脳に所在するとはわかるね…
閑話休題。この哲学的な問いにはすでに名前がついている。

テセウスの船

現代の科学が照らす範囲に、意識の具体的な所在はない。しかしこの、「意識のハード・プロブレム」の後半───

  • 主観的な意識的体験やクオリアは、現在の物理学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか?

───について、ただ"意識は固有の物体に宿っていない"というのは確からしい。
例えば、体中の各器官を構成する水分子や各種元素は食事と排泄のたびに入れ替わっていくし、あなたを構成する細胞はどんどん生まれ変わるので、ひとつひとつの細胞は長くとも10年しか生きない。なのに、あなたはあなたの意識の連続性を保ったままで生きている。

テセウスの船を同一だと認めるかどうかは個人の自由だが、どうやら意識はそれを認めるようだ。とすれば、意識はこの生体や脳といったシステムに宿っているのではないか?そして同時に、他のシステムにも同じことが言えるのではないだろうか?

人間機械論

コンピュータのHDDの調子が悪い時、その内容を新しいHDDにコピーしてレストアすれば同じように動くのと同じように、人間だって部分ごとに可換的なシステムだ。ただ複雑さのベクトルが違うだけで、有機物でできているだけで、生物という"あるシステム"であることに変わりはないはずだ。

偶然にも発生し、偶然にも自己複製機能を備え、偶然にも環境適応能力に傑出した個体が産まれ種の断絶が防がれ、偶然にもそうして生き残ってきた、偶然にも今ここに存在しているシステム。
リチャード・ドーキンスが「利己的な遺伝子」で解説した、「生命はただ遺伝子の乗り物だ」という考え方とも近い部分がある。

人間原理を否定

「人間を機械みたいに!」何が違う。
「生命をそんなふうに!」生命すら定義もできない人間風情が何を。
「サイコパスめ!」意識やクオリアは共有できず、個々の人間同士ですら完全に感覚を理解し合えない、ただの平均値的で検証不能な価値観を以てサイコパス呼ばわりとは。
「そのような考えが命を粗末に扱うんだ!」ぼくの思想は命を粗末に扱っていない。そういう方こそ命があろうともなかろうとも丁寧に扱え。

生命至上主義にも人間原理にも辟易する。地球環境の中で他の生物と同じように産まれ、他の生物と同じように生存のために活動している人間をつかまえては環境保護だ自然を守るだ、それこそ何様─────傲慢にもこの星の神の目線でいるのだろうか。この我々が生きる世界の中で自分たち人間のことを無意識に特別視しているからこそ、そんなことが言えるのだろう。

また話が逸れてしまった。意識に話を戻す。

ベンジャミン・リベットの実験

カリフォルニア大の生理学者、ベンジャミン・リベット医師の行なった興味深い実験がある。人間が行動を起こそうとする時に、身体の各部がいつ動作するかを測定した実験だ。話せば長いので結論だけ言おう。

  • 人間が何かをやろうと思う。

  • 0.2秒後、実際に身体が動く。

これはわかる。しかし結果はこれだけではなく、この実験は"その前"が存在することを明らかにした。

  • 脳が活動する。(0秒)

  • 0.5秒後、人間が何かをやろうと思う。(0.5秒)

  • 0.2秒後、実際に身体が動く。(0.7秒)

なんと自分が「思った」と自覚した瞬間より0.5秒前に脳は動いていたのである。ぼく(意識)が「今だ!」と思うより0.5秒前に脳が「今だ!」と動き出している。0.5秒前に脳が勝手にやるって決めたことを、0.5秒後のぼくが、さも自分で決めたかのように思い込んでいる。

日常でもこのズレは感じることができる。
夢を見ながら眠っているとしよう。脇腹をつつかれて目が醒める時、つついている人から見ればすぐに目を開けているが、夢の中では唐突に、夢のストーリーと関係なく文字通り藪から棒が出てきて自分をつつき、何だこれは─────と考えているうちに、つついている人が目に入り、藪からの棒は夢か、と気付いたりする。
物理的に存在しない、主観の中にしかない時間が存在するのだ。

ただ入力に対して動作を返していく。それがたとえ生命活動としての反射でも、高次脳機能としての処理であっても。脳を含む我々の正体は、思いのほか自動で動くシステムのようだ。

例えば、あなたが国家試験の会場で、問題を読んで詰め込んだ知識を思い出し回答を記入していることだって、脳が勝手に自動でやっている。
長期的に見れば「より人生をより良くするために試験に受からなければならない」という状況判断、中期的に見て「今は試験会場にいて時間内に回答をしなければいけない」という状況判断、そしてごく短期的に見れば問題に対する正解を選ぶ判断─────ここに書ききれない数多の状況、情報の入力を元に、判断し、行動していく。

意識の濃淡とアンビバレンス

脳があまりにも忠実に、ほとんどの情報を解像度高く、0.5秒というほとんど気付かないタイムラグで意識に伝えてくるので、その働きは全く同一で、意識が全てを司っているように感じられるが、実は脳が勝手にやった結果を後から受け取っているに過ぎないようだ。

さらに、我々の持つ脳というシステムは、その後の行動を変えられる高度なシステム─────コンピュータで例えるなら"自律的にソフトウェアを書き換えていくことができる"システムであるから、我々は(というか、我々が自分自身の意識だと思っている脳は)先の行動を変えていくことができる。そしてまた脳が判断したことを我々が"自分の意思でこうしようと思ったんだ"と感じるのだ。

我々がいろいろなことを思ったり感じたりするのは、脳というシステムが機械として淡々と処理や判断をした後の結果を説明として受け取っているだけなのではないか─────これが仮説の「説明」の意味だ。

結論として

人間は群れの仕組みをもっと高度化させ、社会という概念を持つようになるにつれ、本能的な判断を超えてより多くの入力が判断に介入し、同時にすぐに判断できない葛藤─────アンビバレンスを抱くようになった。
それに伴い、システム─────脳から与えられる説明は、ただ何かをぼんやり感じるような「薄い意識」ではなく、思考を伴う、我々が覚醒時に持っているような「濃い意識」として感じられるになったのではないか。

システムとして脳が自動的に演算する、葛藤─────「アンビバレンス」を解決するのにかかった時間、判断プロセスを「説明」するため、物思いとして投影されたものが、思考があるような濃い「意識」なのではないか。

想像として

  • 主観的な意識的体験やクオリアは、現在の物理学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか?

生体や脳のように複雑なシステムが情報を処理する論理的な空間は、その判断条件の数だけの次元を累積していくにつれ、ほぼ無限に見える有限の超次元空間となる───我々の感じる意識は、ここにあるのではないだろうか。超弦理論における弦の状態を11次元空間として記述するカラビ=ヤウ多様体のような、物理的にどういう実体と結び付くかわからない、もしかしたら証明できるかもわからないところに。
こちらは何の根拠にも基づかない想像だ。

以上が和柴の魂───霊、ゴースト、意識についての仮説、あるいは宗教だ。

システムがそれなりに成熟していれば、意識的な決断は必要ない。これだけの相互扶助のシステムがあって、これだけ生活を指示してくれるソフトウェアがあって、いろいろなものを外注しているわたしたちに、どんな意志が必要だっていうの。問題はむしろ、意志を求められることの苦痛、健康やコミュニティのために自身を律するという意志の必要性だけが残ってしまったことの苦痛なんだよ

「ハーモニー」伊藤計劃(2008)

多数の入力に対応し、選択肢を多く持つがゆえ判断にアンビバレンスを持つ、我々の脳のような高度なシステムがあるからこそ、この自分という意識が、悩み、苦しみを受ける。和柴はそれら一切から逃れたい。何の知覚、認識もなく、判断もない、システム足り得ないものになりたい。できることなら今すぐ、今この瞬間にも。だから───

転生するなら

石がいい───今日も和柴は言う。うわごとのように。

鹿威しではダメだ。水の量が閾値ギリギリの時に、倒れるか倒れないか微妙なラインがある。つまり、迷い、葛藤がある。それからも逃れたい。

長くなってしまったが、ぼくがいつも「石になりたい」とぼやく理由は以上だ。ぼくのことが大好きなファンの皆さんにはこれを踏まえて「そういう人なんだな…」と思ってこれからもお付き合いいただけると嬉しいな。


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