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アンフェアなのはだれか

吾輩はゲイである。
吾輩はゲイであるが、LGBT人権活動に関しては強い反対の立場にある。

勘違いしないで欲しいのは差別を容認しているわけではない。
吾輩はこう呼ばれることを好ましく思ってはいないが、いわゆるLGBT当事者の枠に含まれる人間だ。
同性愛者として後ろ指を刺されたくないし、差別もされたくない。
相方と一緒に過ごすことを後ろめたいなんて思いたくはない。
では何が気に入らなくてLGBT人権活動に反対してるのか、と言うと…

LGBTという属性の違和感

LとGとBとT、更にその他色々。
レズビアンはレズビアン。女で女が性愛の対象。
ゲイはゲイ。男で、男が性愛の対象。
バイはバイ。男だろうと女だろうと両性が性愛の対象だ。
トランスジェンダーは基本的に性同一性障害という状態だ。
LGBTはBとTの間で全く違うものになっている。
故にLGBTを一括りにするのは違うと思っている。
吾輩としてもゲイではあるが、LでもBでもTでもないので一括にされてしまうのは非常に不可解だ。
特に主張されている就職、就労時のLGBT差別の多くはトランスジェンダーの属性が強い。

さて、何故そんなことが起きるのかと言えば答えは単純。
数の問題だ。
LとGとBとTを足してようやく人口の8~13%になるからだ。
約1割という数は決して少なくない。
10人中1人だ。
数が一定数入ればその要望やそれらの人が抱える問題が社会問題へと格上げされる。
だからこそ、より主張を強力にするための「数」が必要でカミングアウトを推奨する流れになっているんじゃないかと吾輩は思っている。

差別議論はアンフェアである

・人権問題において反対意見を述べるのは当事者以外にとって難しい。
・LGBTが不自由だと訴えている差別的な場面が主観的。
 LGBTに起因していない可能性があるにも関わらず断定的である。
・主張が非常にLGBT優遇的であったり、負荷の大きいものだったりする。

など、「LGBTは差別を受け続けている被害者である」というスタンスであり、主張にはそのスタンスを利用していると感じるほどに過剰で過大だ。

差別を受けたと言う被害者に対して、その被害への疑義を挟むことは非常に憚られることだ。
これはLGBT問題に限らず多くのことに該当する。
女性差別、人種差別、性犯罪なんかもそうだ。
被害者の言動に不審な部分があって、それを指摘すれば、「被害者の傷に塩を塗るような酷い仕打ち」として糾弾されるだろう。
このロジックを突破するには被害者と同じ属性の人間が声を上げるしかない。
だから吾輩はこうして同性愛者としてLGBT活動に対して否定の声をあげている。
差別に関する議論は基本的アンフェアである。

活動家は信頼できるのか

活動を行っている人物たちは本当にそれはLGBT当事者の気持ちに寄り添っている主張なのだろうか?
少なくともゲイである吾輩の気持ちは置いてけぼりのまま彼らの活動は続いている。
LGBT活動を行う人物たちは本当に信頼できるのだろうか?
ホントはキケンな同性婚でも書いたが、同性婚におけるリスクは非常に多いし、同性婚を望む人口についても疑問がある。
そのことに関してLGBT活動家は決して議論しない。
LGBT活動を行う人物たちはLGBT活動を通して何か良くないことを企てているのではないかと勘ぐってしまうほどに彼らの主張は理想的で美しい。
そして浅い反対派の意見を取り上げて反論するばかりだ。
性善説の理想論で成立した制度に何か問題が起こっても活動家はそれを解決することも責任をとることもしないだろう。

LGBT活動家の言う通りにすれば、その結果はLGBT当事者は満足できるものになるのかもしれない。
しかし日本人としては大きなマイナスを抱えることになる。
LGBTもまた日本人だ。
その収支がプラスのまま終わることは決して無いだろう。

吾輩がLGBT人権活動に反対する理由のまとめ

①LGBTを一括に論じているという違和感
②クローゼットへの同情、否定とカミングアウトへの礼賛
③反対意見に対しての議論が少なく、改善が無い
④差別活動への反対意見を言うことのリスク
⑤そもそも吾輩の希望と合致していない
⑥活動家の正体への疑念
など

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