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正直者は馬鹿をみるが きっと人生は素晴らしい

back numberの『ベルベットの詩』の歌詞のような 
まっすぐな言葉とメロディが、何歳になっても 好きだ。

今日の文章のタイトルは この歌の歌詞の一部。
この言葉を 贈りたいと思う人たちの顔を思い浮かべた。
仕事でかかわった 優しい心の人たち。
わが子。
そして 、自分にも。


正直者が生きるのは やっぱり難しい、大変なことも多い。
そう思うけど、でも、正直者でいたいという気持ちは捨てずにいたい。
もちろん、ずるさも弱さもあって、だから、過ちも犯す。
でも、正直者であろうと思う気持ちを持っていたい、と。

歳を重ねて、余計にそう思う。
顔に、その人の生き方が刻まれる。
表情に、その人らしさが現れる。
こういうことを日々痛感してきたからかもしれない。

私はやはり寛容な人間ではないので、許すべからざることをしてきた人に対して、
「あの人も同じ経験をすればいいのだ」などと思ってしまう。そうしないと、相手の辛さがわからないだろう、と。
そう、うっかり 誰かを裁くという できもしないこと、いや、おそらくしてはならないことを思ってしまうのだ。

人間が誰か具体的な誰かを裁くということはできない。法が裁く対象も、たしか、人間、ではなく犯したことについてではなかったか。
そして、許されざることをした人は、既に報いを受けているのだ、と思うことも時にある。本人が自覚していようがいまいが。

だから、できれば、自分は ずっと自分でありたい、自分であろう、そう思う。ひどい仕打ちに、大きな衝撃を受けることはあっても、そのことで、その後の自分の生き方までをも ずたずたにされるようなことがあるのは、あまりに そのひどい相手に自分のすべてを明け渡しすぎではないか、と。

あの人の言葉を うっかり信じて 何年もひどい状況にあったけど、それでも どこかで私は私らしさを 守ることができたから、今ここに在る、そう思うことで、 「きっと人生は素晴らしい」と 自分に 、そして、次の世代に伝えられたら、と 日々 そう思いながら生きている。

憎しみを刻み込んだ 顔ではなく、
穏やかさを残した 表情で ここに在りたい。


 

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