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【宝石箱の中身】ある人の物語 〜番外編〜

彼女は、自分から好きになった人としか付き合う気にならない、自分のことをそう思っていた。
年上か年下かに関わらず、何人もの男性が、彼女を見つめて、そばにいたいと願うのに、彼女は その思いにも気づかない様子で、勇気を出して想いを打ち明けた人には、困ったように「私には恋人がいるから」と告げるのだった。

恋人?そんな人といるのは見たことがない、と 誰もが戸惑うのだった。

彼女は、ある時から、雨が好きになった。
今日は彼と一緒にいられる、と初めて胸躍らせた日が 雨だったからだ。バスの窓に流れる雨の粒ひとつひとつが 光って見えた。後ろにいた彼が、ずっと本を読んでいるのが窓に映っていた。その手を、見ることも幸せだった。
そう、彼女には、愛する人がいた。
何もかもが彼女にとって例外だった。外見も、性格も、彼女が苦手とするタイプだった。
しかも、彼が彼女に想いを告げたことが、ふたりのはじまりだった。

なぜ、惹かれたのかと聞かれたら、彼女は 私を好きになってくれたからだと答えるしかないことに気づき、苦笑した。

ふたりは相性がいいわけでもなかった。彼女が彼にそっと話しかけても、彼は何か別のことに集中していて、そっけない態度だったり、彼が彼女に近づいても、彼女は他の誰かに声をかけられたりして、なんだか噛みあわないふたりだった。ふたりが心から打ち解けて、柔らかい気持ちで互いのことを見せられたのは、本当に短い時間だった。

すれ違うために出会ったようなふたりだったと言っても、言い過ぎではないだろう。

彼女は、彼の身勝手さを恨みがましく思い出す。自分から思いを告げておきながら、間もなく遠くへ行ってしまったこと。しかも、ほんの短い間に、自分だけを見てほしいとばかりに、彼女に対して、彼の持てる全てを注いでしまったこと。他の人には決して見せなかった、悲しみや不安を、全て見せてしまったこと。

あなたを忘れられなくなってしまったじゃないか。

まるで、幼稚園の頃同じクラスにいた男の子みたいだった。言動が暴力的で、いわゆる問題児だった彼。鋭い眼差しで周囲を威嚇しながら、ある女の子のことだけは絶対にいじめなかった少年。殴るふりをしながら、そっと、その女の子の頭に手を置いたことに気づいた自分に、びっくりしたことを覚えている。

あの時の少年よりも、彼は、何かを恐れていた。その恐れを、彼は 彼女にだけ見せた。辛辣な言葉で、憎しみさえ込めて、彼は彼女を突き放す言葉を吐いた。まるで、彼女に復讐するみたいな眼差しさえ向けてきた。彼女に出会って、間もないはずで、ほとんど彼女のことを知らないというのに。私が何をしたというんだろう。しかも、そういう日は、空は鮮やかな色で世界を覆っていて、だから、彼女は雨の日の方が、彼の気持ちを穏やかにしてくれている気さえするのだった。

今頃、彼は、どこで何をしているんだろう。
雨が降ると、彼女は車の窓の雨に目を遣る。降ってきて、光を宿らせたと思った次の瞬間には、どこかへ消えてしまう。

彼は、雨のような人だったか。
彼女の心を、時に殴りつけるように、時に、心に潤いを与えるように。
私が傘を用意していない時に限って、雨は降るのだった。車で移動しているから、油断してしまう。
そう、傘を持たずに、出かけたら、あるいは彼を見つけられるだろうか。
たった一度でいいから、思いを告げた頃の優しい眼差しを もう一回だけ受け止めたい。

そんなことを思いつつ、晴れた空を眺めながら、彼女は、日常を取り戻していく。


(実在する人の、ただひとりの話を書いたのではありません。ある人から聞いた、話が心に残っていて、それをもとに書いたものです。)






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