見出し画像

【人と向き合う】踏み越えてはならないものがある、とわからない場合があるらしい…というものに遭遇したら、「逃げ恥」を選択する

(始まりが抽象的ですが、最終的には、ちょっと何が言いたいかがはっきりする、はず…)

これは、何人かの顔を思い浮かべながら思っていることだが(身の回りだったり、ニュース等で見知ったことだったり)
あの人は、あるいは あの時のその人は…
やっぱり、どう考えても、してはいけないことをしてしまったんだろうな、と改めて思う。
踏み越えてはいけないボーダー。それは、一度越えてしまうと、たとえ後戻りできたとて、決して消すことのできない足跡を深く深く刻み込んでしまうのだ。
それを、深く考えずにあっさりと、踏み越えてしまったのだと思う。

境界線を見る感覚。
踏み越えてはいけないものを見極め、そして踏み越えない、という判断をするか、あるいは覚悟を決めて踏み込むか。

境界線に立つときに問われる強さやしなやかさ。
踏み込むと決めたら、その結果を何等かの形で自分が引き受ける柔軟性。

こういった感覚をもたずして、入ってはいけない領域に踏み込んでしまうことは、まるで、社会的なルールを、自己中心的で、身勝手で、極めて利己的な思いから、いともあっさりと破ってしまう、という禁忌を冒すことと相通ずるものがあるように思う。

残念だけれど、これがへっちゃらな人は、根本的にこの怖さがわかっていない人は、何度でも平気でこのボーダーを越えてしまうのだ。たとえ、そのことで、痛い目に遭って、その時は反省しようとも、次に違った状況に出くわして、そこにボーダーがあったら、やはりまた、あっさりと踏み越えてしまうのだ。途中で戻ってくることもある。深い傷跡だけ残して。そして、もちろん、この傷をつけた相手に謝ることは決して、ない。自分が悪いとも思わないらしい。

この怖さを知る感覚は、もしかしたら、先天的なものなんだろうか、と思うくらい、何度でも平気で境界線を踏み越えてしまう人を見たことがある。つまり、「学べない」ということ。

本当に「学べない」のであれば、できれば、こういう人とは、同じ空間で同じ時間を過ごすことを避けた方がいいのではないか、と思う。

これまで、人を参らせてしまうリーダーの話などを書いたことがあるし、自分自身が力を奪われた相手のことを書いたが、
こういう人たちは、「共感能力」が決定的に欠如している。
それを何とも思っていない人もいれば、心のどこかで、他の人と交わりあえない、漠然とした不安感を抱いている人もいるように思う。ただ、不安感といっても ほんとうにぼんやりとしたもので、本人が、「なんだかかみ合わないけど、自分の何がいけないんだろう」と思っているケースは多くはなくて、どちらかというと他人のせいにしていることの方が目につく。

共感能力の度合いが他の人とずれていることによって、他の人が越えられたくない線や、他の人が越えないと思う境界をあっさり越えてしまうことができるのだろう。

こういう人に気づいたら、とにかく「逃げる」ことしかない、と今の私は思っている。気づくのは難しい。私自身、以前、周辺で「気づいたときには、いっぱい重いものを持たされていた」というケースを見聞きしたことがある。その時、持たされた人は、ずたずただった。なんせ、普通しないことを、言わないことをたくさんぶつけられていたから。

境界線を平気で踏み越えてくる人、というのに一人で対処するのは、無謀だ。自分の感覚はまず通用しない。

だから、そういう時には「恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切」と、心得よう。

踏み込んでくる人に、責任や覚悟なんていう感覚なんて、はっきり言って、皆無なのだから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?