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犬の散歩も引き受けます

※これは今から10年以上前に、私が某公立小学校で副校長を務めていたときのエピソードです(注:私が勤務する自治体では、「教頭」のことを「副校長」と呼んでいます。学校教育法上の「副校長」とは異なります)。

 夕方、校門のところに数人の1年生が集まって騒いでいた。何事か、と思って行ってみると、1年生の輪の中に1匹の柴犬がいる。
 犬の首輪には長さ2メートルほどのリード紐がついたままで、それをズルズルと引きずっている。周囲を見回してみたが、飼い主らしき人物は見当たらなかった。どうやら、どこかに繋がれていた犬が逃げ出してしまったらしい。
 男の子が、私の姿を見て叫んだ。
「副校長先生が来たから、もう大丈夫だ!」
 大変ありがたいお言葉だが、それってもしかして、私が飼い主を探すという意味なのかね?
 さらに、女の子が犬に向かって話しかけている。
「よかったね、ワンちゃん。これで、おうちに帰れるよ」 
 ・・・これだけ期待をされている以上、副校長として飼い主捜索に乗り出さないわけにはいくまい。
 まあ、犬は賢い生き物だから、学校の近所を適当に歩いていれば、自分で手がかりを見つけて家にたどり着くだろう。
 そんなことを考えながら、犬を連れて校門を出た。

 教員は出勤後にジャージなどのラフな服装に着替えることが多いが、副校長はスーツ姿が基本である。スーツを着て犬を連れ歩き、その周りに1年生が5人ほど群がって歩いている。これだけの異様な一団が動けば、いやでも周囲の注目を集めてしまう。
 途中で顔見知りのおばあちゃんと出会い、声をかけられた。
「副校長先生、こんにちは。犬の散歩ですか?」
 私は曖昧に笑って通り過ぎたが、
(おばあちゃん、よく考えてくださいよ。わざわざ職場に犬を連れてきて、しかも勤務時間中に散歩をするわけがないでしょ。もう少し冷静に状況を分析した方がいいですよ。くれぐれも『振り込め詐欺』には気をつけてね。今の調子だと、いいカモになっちゃいますから)
 と、心の中でつぶやいた。

 10分ほど近所を歩き回ったが、肝心の犬はというと、キョロキョロと周囲を見回したり、さかんに匂いを嗅いだりはしているものの、気のせいか散歩を楽しんでいるようにも見える。
(まったく、気楽なもんだな)
 と思った直後、犬は駐車場の前で立ち止まり、それまで下向きになっていた耳がピンと上を向いた。
(・・・何かが来る!)
 身構えた次の瞬間、犬は猛然と走り始めた。
「ドワー!!」
 犬に引っ張られて、私も全力疾走を始めた。
 冷静に考えると、大人の力で踏ん張れば犬も止まったことだろう。しかし、このときは、
(犬に走り負けてはならない!)
 という思いが私の頭の中を支配していたのだ。
 ・・・最初のうちは子どもたちも一緒になって走っていたようだが、しばらくすると後ろの方から、
「副校長先生~」「がんばってね~」
 という声がして、ついにはそれも聞こえなくなった。

 300メートルほど走ると、目の前にコンクリートの高い壁があった。行き止まりだ。
 犬は急ブレーキをかけたように止まり、壁の前でグルグル回りはじめたが、やがて途方に暮れたように私の顔を見た。その目は明らかに、
「行き止まりですぜ、旦那!」
 と訴えている。
(「行き止まりですぜ、旦那!」じゃね~よ)
 と、怒鳴りつけようとしたとき、犬は壁の脇に細い農道を見つけ、再び走り出した。
(もう、どうにでもしてくれ。こうなりゃ、体力が続くかぎり付き合ってやるぜ)
 なかばヤケクソで走っていると、畑の中で農作業をしているおじいちゃんがいた。
 おじいちゃんは、犬の姿を見るなり叫んだ。
「あっ、うちの犬だ!」
 ・・・事態は一気に解決である。
 一応、飼い主の名前を確認しようと思って尋ねると、
「○△○×です」
 という答えが返ってきた。
 どこかで聞いたことがある名前だと思って記憶をたどっていると、20年ほど前のPTA会長がその名前であることを思い出した。
 校長室の壁面には歴代PTA会長の写真が飾られている。写真はだいぶ前に撮られたものだが、明らかに同一人物である。
 私の態度は一変した。
「毛並みがいい!」「自力で家まで帰って来るなんて、お利口なワンちゃんだ!」
 と、ひとしきり犬をヨイショしているところへ、今度はこの家の若奥さんが息を切らしながら走ってきた。
 若奥さんには小学生の子どもが2人いて、私の勤務校の保護者でもあるので顔見知りである。
「どうしたんですか?」
 と尋ねると、「洗濯物をしまおうと思ってベランダに出て、ふと外を見てみたら、副校長がうちの犬を連れてものすごい勢いで走っている、という理解し難い光景を目にして、あわてて出てきた」ということだった。
 また、犬は庭に繋いでいたのだが、紐がほどけて逃げ出してしまったようだ、ということもわかった。
 ともかく、これで一件落着である。気がつくと、周囲は暗くなっていた。
「それでは、これで失礼します」    
 挨拶をして、学校へ戻るために歩き始めると、後ろで犬の鳴き声がした。
 振り返ると、犬がこちらを見て尻尾を振っていた。

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