【小説】 フラヌール

「“出るんだよ”」

大都会東京、大崎駅、山手線、外回り。
三、四番線の登りエスカレーターは、手すりの方が動くのがすこしだけ早いから、改札階までたどりついた時には、身体が自然と前傾姿勢になっていて、まるで一番乗りでゴールをするように改札を駆けぬけてしまうのだ。


弊学までの通学路は大通りを道筋に、山手通りとひとつになる(一体化する)ほうが早いらしい。
私はみんなと同じことをするのが嫌い。
大名行列のように歩みを進める若者たちを尻目に、逆方向に歩みを進める。
ファミリーマートの横を通り、下駄ばきのマンションを潜り抜けて、一礼してから神社をすり抜けては、サークル棟を横目に昨夜の乱痴気騒ぎを思い出し、住宅街を縫うようにして、大学正門の前に出たい。


「“なにが出るの”」


ながらスマホはいけないので、トークパレットの一番手前の椅子に座った。毎日購買で働いているあの子は、いつもは結っている髪を今日は下ろしていた。
LINEの相手は、同じ学科に在学している同学年の藤沢である。藤沢は戸越銀座のボロアパートに住んでいる同学年の女だ(生物学上は恐らく)。入学から時間の経つに連れて奴の大学に通う意欲は著しく低下してゆき、今では明るいうちから布団を被り、閉め切った部屋の電気を消しては妄想の世界に浸るのを良しとしていた。
四六時中四畳半にひとりぼっちの藤沢を想像して、私は少し可哀想な気持ちになってしまった。


「“鯨の幽霊だよ”」


藤沢の奴、遂に思い描いた幻想と現実との区別がつかなくなってしまったらしい。
閉鎖された不条理の蔓延る世界を漂う藤沢は、その脳内に建立された空想上の弊学弊キャンパスの中庭に鯨の幽霊が現れると言い出してきた。
それでも、それは奴の描いた絵空事に過ぎないのだから、私は現実の弊学弊キャンパスのトークパレットで藤沢に返信を打っているのである。


「“あんたも馬鹿ばっか言ってないで、少しは外の空気でも浴びたら?”」


私がそう送信してから、藤沢からの返信はぱたりと途絶えてしまった。
スケボーで山手通りを通学する茶髪のあの子は誰だ。
教職課程を泣きながら辞めることを伝えたあの子は誰だ。
期末レポートの条件が提示され始めた、セミが私の代わりに泣いている。
夏と呼ぶにはまだ早い、空を覆う雲が息苦しさを助長させるような季節であった。




恋に恋する柚木嬢から昼飯のお誘いを頂いたのは、それから数分後のことであった。柚木と書いて「ゆのき」と読ませるこの女は、私と同じサークルに所属をしている、性格のねじ曲がった女である。
彼女は薬学部に在籍しているらしいが、薬学に関する知識をひけらかしたことはこれまでに数えるほどしかなく、普段は占星術から黒魔術まで古今東西のスピリチュアルに手を出しては力強く揉まれている奇特な存在である。
柚木嬢からのお誘いは、いつもの如く五反田駅前の春日亭(ラーメン屋。美味い。)にて待つ、とのことだった。
このあと三限の授業がある、と言って返事を投げ返すと、柚木嬢は、終わる頃に迎えにゆく、などということを申してくれた。




三限の講義は短歌の創作の授業である。
五号館の最深部にある縦長の教室に入ると、一斉にたくさんの目がこちらに向けられた。恐らく私は遅刻をしてしまったらしい。
空いている席に荷物を置き、最前列の机に置かれたレジュメをコソコソとくすねては、ひらりと学生証をタッチして出席を確認してもらった。
これは余談だが、席に戻るときに机に足をかけられて転びそうになってしまったのである。再びたくさんの目が私に向けられたが、私は何食わぬ顔で椅子の背を引いて席に着いた。全ては計算通りである。
「セックスや ああセックスや セックスや」という短歌を提出したところ、先生に名指しで「短歌は三十一文字で詠むのですよ(憤怒)」と非難されてしまった。
授業が終わり荷物をまとめていると、眼鏡を掛けた男が私の元に近づいてきた。
「さっきの歌、良かったですね」と言う彼は、同じ学科の鈴木くんらしい。学年は彼の方が一つ下だが、私は昨年落とした中国語の授業を今年も取っていたので、そこで親しくなったのである。鈴木くんは小さい頃、中国に住んでいたことがあるらしい。
彼の歌も少しだけ見させてもらった。受け取った大学ノートを開くと、そこには少女の尊さだけを詠んだ歌が、隙間無くびっしりと書き込まれていた。
処女がどうこう、スカートがどうこう。
個性的で良いね、と私が全霊でサムズアップをすると、メガネの男はおもむろにメガネを外して机の上に置き、私の手を握ってその甲をすべすべと撫で回した。
それから置かれたメガネを再び手に取って、私の顔に掛けてはまた私の手を握ってその甲をすべすべと撫で回した。驚くなかれ、わずか三秒の間に起こったことである。
私は、度の強いガラスでぼやけた視界の片隅に、教室の外の廊下からこちらを覗き込む人影を認めた。私は鈴木くんを突き飛ばして教室を出た。メガネを廊下に投げ捨てて踏み壊すと、そこにはすでに誰もいなくて、ただ知らない男たちの笑う声がどこの教室からか聞こえてくるだけであった。




柚木嬢は、その細身の身体の左半分を半透明にして現れた。
私はいつも通り五号館の前の自動販売機でコーヒーを何十本も買い込んでいたので、そのうち一番品性が欠けているであろうコーヒーを柚木嬢に差し出した。
彼女は、ありがとう、と言って私からコーヒーを受け取ると、勢いよく蓋を開けてソレを床にびちゃびちゃとこぼし始めた。
どうして右半分だけ輪郭がはっきりとしてるの、と私が彼女の耳元で囁くと、彼女は、教えてほしいなら煮卵を奢りな、などと抜かしやがった。誰が奢ってやるもんか。
私が汗水流して稼いだお金で購入された煮卵が、隣に座る女のラーメンの上に乗っている。彼女は煮卵を口に入れて咀嚼をすると、その口を開いてこちらに向けてきた。彼女の口の中には、砂浜が広がっていた。私は、下品な女だ、と吐き捨ててラーメンをすすった。美味しい。一瞬、その汁の中を一匹の鯨が泳いでいるように見えたが、これは私の見間違いだったと信じたい。
ラーメンの汁を飲み干した時には、柚木嬢の左半分はいつのまにか元通りになっていた。どうして左半分が半透明だったの、と私が彼女の唇を奪って聞くと、彼女の口から溢れた砂が私の口の中に押し寄せてきた。大量の砂を春日亭の床に溢すわけにもいかないので、私はその砂たちを一粒残らず飲み干した。苦い。
店を出ると、音も立てないような梅雨独特の雨が降り始めていた。
湿気に蒸されるようなこの感覚を、懐かしいと思っている自分も居た。
この後は五限があるんだ、という柚木嬢を五反田のホテル街に置き去りにして、私は山手線に乗り込んだ。環状線は地球を難なく一周すると、そのまま輪廻の輪を頑張って回り始めようとしたので、私は慌ててホームに転がり出た。
そこは「温泉」という名前の駅であった。いつの間に地下に入っていたのであろうか。陽の光の入らない閉塞感のある作りのプラットホーム。切れかけた灯りが構内を仄暗く照らしている、広告の一つも貼られていない無機質な壁は線路に沿ってどこまでも伸びていた。


「こんなところに、温泉が….?」


突然携帯が、鳴る。
誰からだろうと覗いてみると、それは菜穂ちゃんからのメールだった。菜穂ちゃんはLINEをやっていない、LINEなんて俗物がやるものだ、と常々話していたのを覚えている。
菜穂ちゃんは弊学に棲みついている女の子である。私が入学する数年前から目撃情報が現れ、今ではすっかり弊学の生徒と言っても過言ではない存在になってしまった。
彼女と私が出逢ったのは、今年度の初めに私が三号館の外階段でくつろいでいた時のことだった。三号館の外階段の三階から四階に続く部分は、屋根が付いているのに人通りが極めて少ないため、最早私の隠れ家になっている。
そこで寝転がってビートルズの歌をムニャムニャと歌っていたら、隣に添い寝をしてくる少女が居た。彼女は今時の子とは一線を画した大正ロマンを感じさせる服装で、目の奥に鈍色の光を宿らせていた。
それから彼女と私が、そこで添い寝をする文化が始まった。私が右で、私の左腕を枕にして彼女が収まるように眠っている。その光景はまるで絵画の一枚であるかのような美しさであった。


「“露天にいるよ〜ん”」


気持ちの悪いメールを送ってくるのが菜穂ちゃんなので、これは本物に間違いない。露天というのは、ここが「温泉」駅だから当然、露天風呂のことなのであろう。
私は必死にホームを走った。三分くらい走り続けて、ようやく壁の途中に上へと続く狭い階段を見つけた。私は祈るようにその階段を登っていった。
差し込んできた光の元に出ると、それは大崎ゲートシティのマクドナルドの前であった。振り返ると私の登ってきた階段は消え去っていて、そこに一枚の木の葉が置かれているのが見えた。




テイクアウトしたチーズバーガーを食べながら、大崎の雑踏をかき分けて歩いた。大学に戻ってくると、驚いたことに弊学の四号館がすっかり消え去ってしまっていた。四号館といえば、弊学でも屈指の歴史と汚さを誇る建物で、学生からは曰くがついている、とされて忌み嫌われていた。
その四号館であっても、いざ消え去ってしまうとなると悲しい気持ちになるものである。どこかから、鯨の鳴き声が聞こえた。


「四号館が消えている」


更地になった四号館の前に立ち尽くした私の横で、そう呟いている男がいた。隣を見る。彼の名前は鈴木孝介といった。もちろん上記の鈴木くんである、しかしメガネはかけていなかった。どうしてだろう。
私は彼に近寄ってキスをした。いや、彼の影と私の影がキスをしたに違いない。キスをして、頬を舐めて、そのまま一つに混ざった影は、独自の自我を持ってその場から歩き始めた。私と鈴木くんは驚愕した、そして、自分の影を失ってはならない、ということで協力して影を追い詰めた。
影は走って逃げた、影はキャンパスの端にある大学図書館に逃げ込んだ。私たちも後を追って入り込んだ。
私は、借りていたマルキ・ド・サドの『ソドム百二十日』を二年も延滞していることを思い出した。鈴木くんはいつの間にか全裸になっていて、その最も大事な部分を木製の風呂桶で隠していた。
私たちは図書館の中を、影を追って走り回った。私のポニーテールが揺れる、鈴木くんは桶を両手で押さえて走った。影はどこまでも逃げた。そうだ、最初は漢詩の書物に紛れ込んだ。私たちは活字の隙間に飛び込んでは、紙魚と一緒に余白の海を泳いだ。李賀の詠む幻想的な世界に、影と私と鈴木くんは惑わされないで泳いだ。やがて影が本を飛び出して、今度はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に飛び込んだ。
私は追うのを辞めた、鈴木くんは両手で桶を押さえながら私に叫んだ、どうして負わないんだ、って。そして私を見限って、単身『フランケンシュタイン』のなかに入り込んでいった。




図書館を出ると、すっかり辺りは闇に包まれていた。携帯の振動で目をやると、藤沢が久しぶりに大学に来てみた、ということを言っていた。私は嬉しくて小躍りしてしまった。
会う約束をした構内のカフェに行くと、そこに藤沢がいた。数ヶ月前に彼女の家で会った時より、少しふっくらとしたような気がする。
私は彼女に聞いた。どうして人間は生きていると思う、って。
彼女は私の髪の毛を触り、そうっと撫でては私に思い切りビンタをした。
右頬をぶたれて当惑した私が地面に倒れ込むと、藤沢は私に馬乗りになって私を殴りつけてきた。私は嫌な気持ちになった、そして叫んだ、あんたはよくないことをしている、と。鯨の鳴き声が強く聞こえ始めた。
すると、藤沢の動きが止まった。私は彼女を蹴飛ばして立ち上がった、間違いなくあばらの二本はやられた。藤沢に目をやると、その外皮がでろんと剥け落ちて、中から大きな狸が現れた。信楽焼のあの見た目をした、大きな瓢箪を持ってどこか斜め上を見上げてニヤニヤ笑っているあの狸だ!
私は狸を殺してやろうと考えた。あいつが私を平手打ちして、挙げ句の果てには殴りやがった。しかしそんな体力は残っていなかったので、私はその場に再び倒れ込んで気を失ってしまった。




音楽が聞こえる。
これはフリッパーズギターの、……あの、ほら、あの曲だよ。
まぁ、いい。起きると、そこは保健室だった。消毒液の匂いが鼻を突く。
しかし違和感を覚えた、そうだ、この部屋は上下が逆さまになっている。
私はベッドで寝ていると思っていたが、天井に溜まった埃を枕にして寝ていたのである。頭の上にベッドが並んでいる。まるでボルトで天井に固定されたみたいだ。布団が落ちてこない道理が分からないが、私だけが重力が反転して天井を歩いていることになっていた。
すると斜め上の扉が開いて、一人の少女が入ってきた。大正ロマンを感じさせるその格好は、言わずもがな菜穂ちゃんである。彼女は本来の重力の通りに歩いていた。決してスカートがべろーんとなっていたりはしない。私と彼女の目がちょうど同じ高さにあるのに、逆さまになった相手が目の前にいる、という事実は私たちを笑わせるには充分な理由だった。


「露天は最高だったよ」


私はそう言って笑う彼女の目に、自分の目をくっつけてみることにした。彼女も拒まなかった。そして幾許かの時間が流れて、私と菜穂ちゃんは頑張ってキスをしてみよう、ということになった。
二人は頑張って背伸びをした。限界まで背伸びをした。二人が頑張りに頑張れば、目の位置じゃなくて唇の位置が同じになるんじゃないか、と考えたのだ。
妄想の世界に浸って背伸びをしすぎてしまうと、いざという時になって着地をすることが難しくなる。斯く言う私も、その一人であった。
背伸びに背伸びを重ねた私は、気がついた時には背の高い太陽の塔になっていたのだ。両腕はすっかりとあの独特な丸みを帯びた腕になっていて、金色の顔は後頭部に私のポニーテールをしっかりと結わえていた。
太陽の塔には第四の顔がある。私は太陽の塔の状態のまま、図書館に再度訪れた。そして『フランケンシュタイン』の背表紙から、影を取り返しに殴り込みに行った。入り込んで直ぐに、転がった木製の風呂桶を見つけた。流氷に囲まれたとある船の一室を覗くと、鈴木くんの遺体が寝かされているのを見た。
私は船内を、信楽焼の狸を探して歩き回った。しかしどこにもその姿を認めることはできなかった。私と鈴木くんの影が混ざった影は、串刺しにされて甲板で火炙りにされていた。しかし元が真っ黒なので焼けているのか不安だったため、食べるのはやめておいた。
歩いてもあるいても、私に何もできることはなかった。悲しくなるたびに、柚木嬢の芳しい香水の匂いを思い出す。私は太陽の塔のまま美しく死にたいと考え、甲板から流氷の海に飛び込んで、そのまま上がってくることはなかった。




消えた四号館を消したのは、四畳半で妄想に耽る藤沢の所業であった。
彼女は不可思議な事件を脳内の弊学弊キャンパスで頻発させることで、現実の弊学弊キャンパスでどれだけ逸脱した出来事が起きたとしても、すんなりと受け入れられるように自分を鍛えていたのであった。
しかし彼女は、度を超えた妄想を繰り返してしまった。彼女の脳内だけで起こり得ていた出来事が、現実の世界に介入し始めたのである。
これには藤沢も気づくことができなかった。彼女の親友が、その影を追って『フランケンシュタイン』に飛び込んだことも、信楽焼の狸が自身の皮を被って親友を殴り倒したことも想像できなかった。
ましてや、菜穂ちゃんとキスがしたいがために太陽の塔になってしまうなんてことは予測できなかったであろう。鯨は結局姿を見せなかった、ただ悲しげに鳴き声をあげては皆を不安がらせるだけだった。
今でも藤沢は布団を被っては空想を描いて悦に浸っている。





小林優希

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