【小説】 GOTANDA GIRL BYE BYE

「鎌倉ですか?」


そう、良いところだよ鎌倉は、なんて言うのは前期の終わりも近づいた昼休みの学食である。普段ならば数多の学生で賑わっているこの場所も、テスト期間の今とあっては、ほとんど人の姿も見えない。私といえば、四限に迫った期末テストの勉強をしなければならないのに、偶然正門前ですれ違った少女に連れられてこの食堂に来てしまったのである。


「良いところなら、他にも」


という黒髪の少女は、私をこの場に引きずり込んで、あわよくば落単させてしまおう、と企んでいる張本人であり、それは私と同じ学科に所属する氷尾さんであった。
氷尾さんは氷尾と書いて「ひお」と読むその名の通り、氷のような女性である。
それは決して彼女のスラっとした手足やむにむにのほっぺたが冷たいということではない、それ以前に私は彼女に触れるどころか息を吹きかけたことも、吹きかけようとしたこともない。
冷たいのは彼女の送りつけてくる、その視線である。入学して早々、埼玉にある別のキャンパスで学科の同期の親睦を深めるオリエンテーション合宿が行なわれた。
当然のように私や氷尾さんもそれに参加して、先輩の余興を楽しんだり、夜の広大なキャンパスを満点の星空の下、一列になって歩いたりした。
そんな楽しい状況にハメを外した私は、面白いだろう、と思って構内に生えている大きな木に登り始めた。周りは雑談や綺羅星に夢中でほとんど私の行動に気づいていなかったが、手を滑らせた私は大木から落下してしまい、その根元を流れる太くて浅い川に落ちてしまった。
暗闇の中から沢山の視線がずぶ濡れの私の元に向けられている光景はあまりにも凄惨なモノだったが、中でも一際鋭い視線を川辺から送ってきている女学生がいた、それは水面に写った星たちを虫取り網で掬い上げようと企てていた氷尾さんである。


「聞いてますか、先生」


先生、と彼女が私を呼ぶのは一種の戯れである。私は年齢の割りに大人びた見た目をしているとよく言われる、その入水事件から彼女は私を先生と呼びはじめた。それでも彼女と私は一年しか生まれたときが変わらない、それはつまり、彼女と私が同じ誕生日であることをも意味していた。
あの星の夜、ガタイのいい先輩たちに川から水揚げされる私に向かって、星屑が逃げてしまいました、と冷たい一言を投げかけてきた氷尾さんは、広島のとある港町で育った漁師の娘なのである。
彼女は中高一貫の女学校を卒業して、指定校推薦で弊学の文学部文学科に入学した、言ってしまえばどこにでもいるような新一年生なのである。
斯く言う私といえば、高校三年生のときに郷里の某国立大学に落ちてしまい、もう一年間真摯に勉学に勤しむことを決断した勇気溢れる青年である。そのまま二回目のチャレンジでも同じ大学に落ちてしまい、おいこれどうするんだよ、といった空気が実家内を流れるなか、滑り止めとして受けていた東京の大学への進学をギリギリになって決めた極めて決断力のある青年でもある。


「そう、宮島とかね… 」


私は氷尾さんに合わせるようにそう呟いた。宮島とは、広島県にある有名な島である。
厳島と言ったほうが分かりやすいかもしれない、そんなふうに氷尾さんに媚びた回答をしていたら、彼女はガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。
私は思わずビクビクっと驚いてしまったが、決して驚いてはいないといった顔をしてそのまま足を組んでみた。
黒髪の少女は、今日の日替わり、チキン南蛮じゃないですか、と言って券売機に走って行った。焦らせる。
私が鎌倉の話をし始めたのは、決して彼女と由比ヶ浜の波打ち際で乱痴気騒ぎがしたかったわけではない。学食に続く階段で彼女が、夏らしいことを今年こそはしたい、というから、鎌倉なんてどうだろう、という提案を私がしたに過ぎないのだ。


「いただきます」


黒髪の少女がタルタルに唐揚げを絡めて頬張る姿を見て、私はもう少しだけこの場に居たいと思ったりした。
彼女は温厚で、食べることが大好きな人物である。それでいて繊細な部分も兼ね備えていて、私は彼女に惹かれて仕方がない。
そんな氷尾さんを、私は一度だけ怒らせてしまった?ことがある。
あれは我々が入学してから四ヶ月ほどが経ったころ、それは丁度いまと同じように夏休みを迎えようとしている時期だった。トークパレットに集まった学科の同期たちは、とりあえず学業にひと段落がついたので、ここでひとつ皆んなの出自について話そうということになった。もちろん話したくない人は話さなくていいということだったので、私は高校時代の武勇伝については鼻高々に話したが、クラスの女子にいじめられていた中学時代と、暗黒に暗黒を塗り重ねて何とか現世に存在していたような浪人時代については初めから無かったことにした。
氷尾さんは先ほど私が述べたような、広島が地元であるとか中高一貫の女子校出身であるなどと話した。そして最後に指定校推薦でこの大学に入ったと言った。
いま考えてみるとそれは、長々と話した出自をまとめて今の自分に繋げる為や、自分の順番のなかで空白が生まれないように、と18歳の少女が添えただけの一言に過ぎなかったと思う。それでも私はそこに噛み付いてしまった。


「指定校?」


空気が不味くなったような気がした。理性を失った私は、指定校推薦は一般受験で入った人間に話しかけるな、とか、指定校で入ったやつは首から「指定校です」って札を下げながらキャンパス内を歩け、だとか、指定校推薦で大学に入学した人間への最大限の憎悪を吐き表してしまった。
散々に指定校推薦への恨みや嫉みを投げ、肩を震わせてその場に立ち尽くしている私に、黒髪の少女は優しく言った。


「ごちそうさまでした、先生」


私はその場で失禁をしてしまった、今でもあの光景を思い出すと寒気がする。
対面に座っている少女が放ったそんな一言が、私をあそこまで追い詰めてしまったのだ。
一年前の苦々しい記憶を掻き消そうとする私の目の前で、氷尾さんは箸を置いて手を合わせた。私はそれを見て急いで学食から飛び出た、そのまま中庭を駆け抜けて山手通りのラーメン屋に入り、大鍋に入れられたスープに飛び込んで骨と皮になるまで煮込まれたのだ。




鶯谷のラブホ街を抜けると、顎の曲がった黒目がちな男に声をかけられた。
男は望月と名乗った、それは私の高校時代の親友の名前と同じであった。
望月は片手を頭上にあげて、こちらに来るように、と私に手招きをした。
線路の上を掛けられた鉄橋を渡る、昼下がりということもあり、橋の欄干は、手を触れただけで皮膚がくっついてしまいそうな暑さを保っている。前をゆく男はサイズの合わないチェック柄のシャツを着ている、滲んだ脇汗が色を変えていて些か香ばしそうだ。
山手線の改札をくぐると、男は胸ポケットをまさぐりだし、そこから黄ばんだマウスピースを取り出した。


「これ、これ」


そう言いながら望月は、右手に持ったそのマウスピースを左手で指さした。
だからなんだよ、と言おうとしたが少しばかり不気味である。男はそのマウスピースを上の歯にはめ込むと、複数回ほど顎を開閉してニカリと笑った。
どうやらこの男は、私と同じで大学受験に失敗して、今では水道橋にある某大学法学部に通っている、私の高校時代の悪友であり親友である望月という輩に間違いないらしい。
どこから私がラブホテル「苺」でバイトをしていることを知ったのかは知らないが、望月は連絡もせずにわざわざ直接鶯谷に押しかけてきたのだ。全く食えない男だが、液晶の文字だけで人間が繋がって良いわけがないというそんな気持ちも分かってしまうのが我々同志なのだ。
そう、我々は似てないようでとても似ている。国立大学至高主義の教育のもとに育った私と、都の西北にある某えんじ色の大学を志望していた望月では似ても似つかないようであるが、教室で騒ぎ散らかす指定校推薦の連中を殺したいほど憎んでいたという点では、我々はほぼ同値である。
受験に失敗した私は一年流浪の民となって勉学に励む道を選んだが、この男はそんな強い意志を持っていなかったらしく、仮面浪人という体で現役入学した大学にも惰性で通い続けてそのまま三年生になってしまったような男である。


「大学、そんなに居心地がいいのか」


そう聞くと、望月は両手でピースをしてこちらを見た。歯にはめられたマウスピースも光る。
列車のドアが閉まる、平日ということもあって山手線の車内にはいくつか空きの席がある。我々はそこに横並びで座った、望月が眩しいというので途中で席を入れ替わることができたくらいには車内は空いていた。
第一志望の大学に落ちたショックで顎関節症を患ってしまった望月は、米粒ひとつ噛むこともままならないほど顎が開閉しなくなってしまったのだ。
私と、もう一人の友人・惣田という男の協力によって彼を救済する案が企てられた。クリームソーダの異名を誇る惣田は歯医者の倅であるので、望月の歯形に合うマウスピースは数十分で開発され、彼は晴れて顎関節症から解放されたのであった。


「…え、されてなくね。解放…」


それを聞いた男はマウスピースを口内で鈍く光らせ、悲しそうに笑った。
駒込、駒込。そのとき列車が駒込に到着をして、望月は、ここで降りよう、と言って車両を後にした。
慌ただしく私がプラットホームに飛び出ると、男は既に改札へと続く階段を上り始めていた。
いったい駒込に何があるって言うんだ、と私が叫ぶと、望月は振り返らずに、何もない、と呟いた。続けて、何もないのだ、と言うその背中はとても寂しそうであった。
改札を抜けると、信じられないほどの暗闇が広がっていた。


「暗闇が広がっていた?」


私が疑問符を抱いて辺りをぐるりを見回す、当然のように太陽は沈んでいて、駒込駅前には正体不明の路上ミュージシャンたちが夢や愛なんかを歌っていた。


「高円寺に、いけよぉ」


望月がそう言う気持ちもよく分かる、私は駒込界隈に明るい訳ではないが、どう考えてもここは愛だのなんだのを嘆くには静かすぎる街であろう。


「うるさい、そこの青二才」


と知らないマッシュルームヘアになじられた望月は、黒目をさらに大きくさせて、そいつが持っていたベースを奪い取って南西に向かって走り出した。
ドロボウ、なんて声が聞こえる前に私もその場から駆け出した。望月は貰ったベースを無茶苦茶にかき鳴らしながら駒込の街を南西へと走り抜けてゆく。空にはまんまるの月が浮かんでいて、月光に照らされた我々はまるでどこかの武装強盗集団の一員であるかのように文字通り暗躍した。


「ぅわ!」


突然、望月がマウスピースを漫画のように飛び出させて驚きの声を上げた。
私は吐き出されたマウスピースが地面に落ちるより先にそれらを掴み取った。
件のベースは私が勢い余ってへし折ってしまったので、路傍に投げ捨てておいた。
どうしてこの男がそんなに驚いてしまったのか、その一部始終は駒込駅から南西に進むこと10分ほどの位置にある庭園「六義園」の門前で起きた出来事だった。六義園は「りくぎえん」と読む。
六義園は躑躅の花が特に有名で、地元では「駒込と言えばツツジの花の咲く街」と謳われるような象徴的な存在となっている。また庭園入口近くにある枝垂桜も、3月末に枝いっぱいの薄紅色の花を咲かせる名木として有名で、この枝垂桜の最盛期と紅葉の最盛期にはライトアップもされる。芝生の整備も行き届いており、都内を代表する日本庭園として名高く、海外からの観光客も多い(この段落全てWikipediaより引用)
その歴史は1695年に綱吉公の命によって造成が始められた、とか、ザ・ドリフターズがビートルズの前座として公演を行なった際の黄色い歓声によって地面から盛り上がってできた、とか、M-1グランプリ2005のチュートリアルの講評での松本人志の「い〜〜やぁ〜、おっんもしろいですねぇ」の「い〜〜やぁ〜」の余波で吉本興業が建設を開始せざるを得なかった、とか、などと学会が日々騒ぎ立ててはいるが、その真相は藪の中に葬られて今では定かではない。


「六義園 入場料300円也」


そう書かれた門前の立て看板を見て、どうやら望月は驚いてしまったらしい。
確かに高くは感じるかもしれないが、いずれにせよ歴史と価値がある庭園だ。百聞は一見にしかず、こんなところで300円を惜しんでいたら我々スノッブとしての評判が下がるぞ、と男の左肩を叩いたところ、バフバフと泡を吹いて望月は卒倒した。


「値段に驚いたわけじゃないんだ」


半刻ほどの時間が過ぎたか、我々は誰もいない六義園の砂利道を歩んでいた。
まんまるの月はいつの間にか上弦の月になっており、それは時の流れの速さの証左であるように思えた。夜はいつまでも夜なのである。
それではどうして気を失ったりした、と私が訊くと、男はマウスピースを口から出して私の手に乗せた。私の手のひらの上で無数の涎をまとったソレは、とても人間の口に入れていい光を放ってはいなかった。
男は、顎関節症が再発した原因がこの六義園にあると言いたいようだった。


「恋ですね」


茶化した私がそう言うと、そんな穢らわしいものではない、と望月は黒目だけになった目で私を睨んだ。
そんなに怒ることもないよ、と空いているほうの手で砂利を拾ってみる。
ただ、近しいものではあるかもしれない、と言いながら望月も砂利を拾った。
ここでそんな大人のようなことが言えるようになった望月に、私は感動と尊敬の念を送った。高校時代の我々であれば、自身が傷つけられたくないが故に周りに毒を吐いて撒き散らし、恋だなんて言葉は二度と私の前で発するな、と狂乱しながら大路を走っていったであろう。


「はっ。もしかして、例の女か」


そう私が問うと、男は砂利を近くの池に投げ飛ばした。
図星じゃないか、と言って私もマウスピースを池に投げ飛ばした。
そんなことは、と言うや否や、男はその場にへたり込んだ。
私も釣られて止まってしまったので、サクサクと鳴っていた砂利の音が途絶える。
無音が二人を包み込む、この広い庭園内に、我々以外に誰もいないことが明らかになった瞬間であった。


「ある」


そんなことは、ある。そう言って男は涙を流し始めた。へたり込んだ両膝を地面に擦らせ、砂利を掴んでは恨みを込めて池へと投げ込んでいる。
間違いがないあの女だ、あの女。私はその存在を知っている。それは私と同じ演劇サークルに所属している、あの女のことだ。
弊学で学祭が行なわれた昨年の秋頃、例にも漏れず私は演劇の公演準備に勤しんでいた。望月という男とは高校時代から絶えることなく連絡をしては会合を繰り返していたので、その日も私のサークル活動が終わってから夕食にでも行こうと弊学の正門前にて落ち合う約束になっていた。


「おつかれぇ」


我々演劇の一同は正門前で散り散りになった。近くにいた望月に、待たせたね、と言って声をかけると、顔が赤らんでいて目の焦点が合っていない。熱でもあるのかと思って額に手をやると確かに発熱をしている。
どうした、大丈夫か、と声をかけると、その視線の先にはついさっきまで私と同じ舞台を創っていた、とある女が居た。
その女は大きな猫目と姫カットが魅力的な東北美人で、恋愛経験の乏しい望月が好意を抱いてしまう気持ちも分かるほど美しい女だった。我が演劇サークルの絶対的主演女優でもあり、授業が無いときはもっぱら秋葉原のメイドカフェでアルバイトをしていて、将来は舞台女優として生計を立てていきたいという夢を持っている儚い女だ。
美しい薔薇には棘があるとはよく言うが、こればかりかは本当にその通りだと思わざるを得ない。その数週間後に私の仲介で何とか猫目の女と邂逅した望月を、運命は容易く引き裂いてしまった。




「うんこ雲ですね、先生」


「ばか、そういう、はしたないことは言うな」


隅田川に架かる、吾妻橋を渡る。前方の金色の雲を見て、氷尾さんがそんなことを言っていた。あれは秋も終わりに近づいて、冬が始まるよ、と言った季節のことだった。
望月が猫目の女と待ち合わせをしているのは東京スカイツリーの足元、ということだったので、我々文学科コンビも休みを合わせてそこに行ってみた。もちろんこれは望月たちの恋の成就を願って後をつけようとしているのであって、決して氷尾さんとよろしい関係になりたいだとか、浅草観光をして渇望した心を満たしたいなんて思っているわけではない。


「浅草は初めてです、先生」


例の指定校事件以来、私と氷尾さんはよく話すようになった。彼女自身も、指定校推薦で大学に入ったことにコンプレックスを抱いているらしく、私の鋭い発言を面白いと思ってくれたみたいだった。いやはや恐ろしい。
それでいて、一枚やはり「努力して勝ち取った推薦を己の自分勝手な感情で馬鹿にして申し訳ない」という壁が隔たったままの私は、どこかで氷尾さんに謝罪する機会を設けさせてもらおうと思いながら数ヶ月が経ってしまった。
大学は夏休みが終わって後期が始まり、そのまま後期も終わらんやとしている。このまま二年生になるのはどうも心が落ち着かない。学校終わり、五反田駅に向かって話しているときに知ったのだが、彼女は卒業研究で魔術的リアリズムなる分野を研究したいと考えているようなのだ。
それは現実の世界に気付かないほんの少しの非現実がどこからか溶け込みはじめ、それが気付けば膨張して日常の大部分を担ってしまっていたりするという舞台設定の文学作品らしい。


「ようするに、ファンタジーってことかい」


そんなことを冗談っぽく聞いた私が馬鹿だった。それだったら、彼女のまなこをしかと見て学術的思考の末にその質問をした、という形にすればよかった。
全然違う、全然違う、全然違う、全然違う、と氷尾さんは、繰り返して、繰り返して、繰り返して繰り返して繰り返繰り繰り繰り返した。そのまま私の腕を引いて目黒川沿いをあみだくじのように橋を渡りながら歩き進め、終いには池尻大橋まで走破して、ほら、全然違うでしょう、と言って私にパフェを奢らせた。
そういえば、望月のことも猫目の女のことも知らない氷尾さんが、まさかこんな不埒な誘いに乗ってきてくれるとは思いもしなかった。これだったら「二人きりで浅草観光にでも行かないか?」と男らしく言ったほうが良かったのではないか?
否、それでは私が氷尾さんに好意を抱いているようではないか。そんなことはない。私と彼女は同じ学科の同期であるに過ぎない。それ以上でなければそれ以下でもない。私と氷尾さんは友人なのだ。そして更に仲の良い友人になりたいだけなのだ、私は。


東京スカイツリーのふもとには望月も猫目の女も居なかった。
その代わりと言ってはなんだが、クリームソーダの異名を誇るでお馴染み、私と望月の高校時代の親友、惣田がそこには居たのだ。


「貴様、東京にまで付けてきたのか」


惣田は高校卒業後、親の仕事を継ぐために関西にある某大学歯学部に進学したはずだった。
ここ数ヶ月は文字盤上でのやりとりしか交わしていなかったのでその近況は把握していなかったが、何故かいま東京の東の果てで私と対峙をしている。
スカイツリーの足元は木製のテラスが設けられており、黒縁眼鏡で陰鬱な惣田が居てはいけないほど爽やかな雰囲気が辺りを包んでいた。


「なに、一大イベントらしいじゃないか」


小指で眼鏡の傾きを直しながら、惣田はそう言ってきた。
どこから聞いたのか、この男は望月に一世一代の大チャンスが巡ってきたことを風の噂で聞きつけたらしい。
そして私の隣にちょこんと立つ氷尾さんの全身を舐め回すように見て、また眼鏡を直した。


「そんなことはいい。望月と猫目の女はどこに行った」


その私の発言に惣田は、待ってました、の顔をした。そして何かのチケットを二枚ほどペラと見せ、私に握らせてきた。
本当は君と僕とで男臭く潜入したかったんだけどね、と言って、惣田は木製テラスから降りてゆき、浅草方面の人混みに揉まれて消えていった。


「すみだ水族館  入場券 大人」


私は思わず目を疑った。惣田という男はなんていい奴なのだ。
氷尾さんが、なんですかソレ、と言うより先に彼女の手を引いて、目と鼻の先にある水族館に二人で飛び込んだ。
惣田は、望月たちがここに居る、とは言っていなかったが、そんなことはこの際どうでもいい。私は氷尾さんと合法的に水族館を巡る機会を得たのだ。これにはどれだけ惣田という男が歯学部に裏金入学をしていようと、少女癖を持っていようと、親の財布からお金を盗っていようと許してやろうと思えた。


「いらっしゃいませ」


その入り口はとても暗かった。それでいて階段が部分ごとに蛍光色に光っているので、私はまるで宇宙船にでも連れ込まれたのかという感覚を覚えた。
熱帯魚や淡水魚に、氷尾さんは微塵も興味を抱かなかった。
私も特別水生生物の知識があるわけでもないので、何もひけらかすもできずに館内を廻ることしかできなかった。
ナポレオンフィッシュの水槽の前で、氷尾さんは意気揚々とナポレオンにまつわる知識を話し始めた。私がそばにいたチンアナゴに気を取られていると、ちゃんと聞いてますか先生、なんて言って頬を膨らませる姿は、とてもいとおしい。
ペンギンが嫌というほど居る一画があった。少女はどのペンギンがどういう名前を持っているかを知っているらしく、あの黄色い腕輪をしているのがジュンです、とか、あの右腕に白いハートマークがあるのがトーコです、なんて言う。私は、全部一緒に見える、と言ってしまったので、彼女は目をうるませてしょんぼりとした。
金魚が飼われている通りがあった、そこには出目金だとか蘭鋳だとかが見境も無く泳ぎ回っていて、これには感受性の乏しい私も思わず、いいね、と言わざるを得なかった。氷尾さんは出目金の真似をしようとして頑張って目玉を飛び出させようとしていた。
クラゲがたくさん泳いでいる大きな水槽の前で、氷尾さんは足を止めた。それは池のように上から覗き込んで観るタイプの浅い水槽で、マイナスイオンや潮の香りが直接的に感じられるモノだった。
クラゲの水槽の辺りでは一体が真っ暗になっていて、水槽の床に置かれた照明が彼らの半透明な体を貫通して僅かな明かりをもたらしてくれていた。
ライトが色とりどりに変わると、様々な色のクラゲが暗闇を漂っているように見えて美しかった。
氷尾さんはそのまま数十分経ってもそこから離れようとしないので、私は彼女がクラゲの生まれ変わりであることを悟ったのだ。


「飛び込んでみますか、先生」


氷尾さんという娘は、突拍子もないことを言うことには自信があるらしい。
何を馬鹿な、と私が鼻で笑おうとしたそのとき、暗がりの中で何かが動いた。


「ここに居ますよ、望月さんたち」


そう言って動いたのは氷尾さんであり、彼女は右足を水槽のガラスの縁に掛けて宙を舞うところだった。
ざばんと水音がするかと思いきや、何の音もしなければ何の気配も感じられない。ただカラフルなクラゲたちが私の目の前の足元を泳いでいるだけであり、黒髪の少女はどこかへと消えてしまったのだ。
その場に残されたのは薄暗い水族館に一人で佇む男であり、その寂しさは言葉では言い表せられないほど甚だしいモノだった。


「え、氷尾さん」


私はクラゲの水槽を覗き込んだ。この闇の中に彼女が潜伏しているとは思えない。私は意を決してガラスに足をかけた、そして勢いよくそれを蹴り飛ばすと、まばゆく煌めくクラゲの大群の中に飛び込んでみたのだ。
鼓膜をつんざくような、水音がした。


それはまるで母の胎内にいた頃の記憶のようであった。
温い水に包まれて、私はどこまでもどこまでも漂ってゆけるような気がした。
明るいような、仄暗いようなよく分からない水中を、私は流れに身を任せて浮かんでは沈み続けた。
どれだけ時間が経っただろうか。遠くで私に何かを呟いている気がする。
それは氷尾さんの声によく似ていた。彼女は私を呼び起こそうとしている。


「先生」


瞬間、私は勢いよく水中から引きずり上げられた。とても眩しい、水族館に入ったのはまだ昼下がりだったからだろうか。
数人のガタイの良い男たちが水をたくさん吸った私の体を持ち上げている。


「星屑が逃げてしまいました」


確かに彼女はそう言った気がした。体を撫で回す風がやけに涼しい、あれ、屋外だ。
松の木が、紅葉が、整えられた砂利道が見受けられる。そうだ、ここは。
それは、六義園の池の淵での出来事だった。


鼻から口から水という水が溢れ出てくる。庭園中から集まった野次馬が私を心配そうに見ている。全身を濡らした上裸の男たちが、にいちゃん大丈夫か、と息も絶え絶え、心配してくれる。
その群衆の中に、周りと大きく間隔を取って立っているのは氷尾さんであった。


「信じられません、池に落ちるなんて」


すみだ水族館の水槽に飛び込んだ私は、何故だか空間を翔び超えて六義園の池で溺れてしまっていたらしい。私の無事を確認した野次馬が去ってゆくと、氷尾さんは私に例の如く冷たい視線を送ってきた。彼女の黒髪は僅かに水気を帯びていて、毛先が跳ねてはカールしていた。黒髪水気帯び毛先跳ねガールである。


「私くらい上手くなると、これくらいで済むのですよ、先生」


詳しい道理は分からないが、私は命からがら浅草から駒込まで飛び越えることに成功したようだ。氷尾さんいわく、望月と猫目の女もこのルートを辿って既に六義園に忍び込んでいるらしい。はっと気がついてぐしゃぐしゃになった財布をまさぐると、その中から300円が無くなっていた。


「私も取られました。そんなに優しくないんですよ、このシステム」


といって少女は、桃色のがま口を逆さにしてみせた。
そのとき、サクサクと音がして誰かが砂利道を近づいてくる。落ち着ききっていない我々が驚いた顔を向けると、そこには抜け殻のようになった望月を引きずる惣田の姿があった。


「遅かったね」


そう言って惣田はドサリと望月を地面に寝かせた。
いつの間に駒込までやってきていた惣田にも驚きを隠せなかったが、それ以上に私はそこで横になっている男に目がいった。
右半身を下にして倒れ込んだ彼は顔を黄土色にして、髪の毛はその一部が抜け落ちていた。そして何より驚くべきは、その黒目で埋め尽くされた両目から黒い涙を流していたのだ。
その異様すぎる光景に流石の氷尾さんも言葉を失ってしまい、私はあまりの惨たらしい彼の有り様に顔を背けて吐瀉をしてしまった。


「振られてしまったらしいのだよ、触れられもせずに」


そう言って惣田は萎びたタバコを咥えて火を点けた。
望月の目からは黒い涙が出なくなっていて、代わりに口元からだらしなく黒い涎を垂らしていた。
あの女、あの女がやったのだろうか。純真無垢で環境の変化に弱い望月を、ここまで傷つけたのはあの東北美人の女だったのだろうか。じゃじゃ麺とわんこ蕎麦のどちらが美味いかなんて可愛らしく教えてくれた、あの女だったのだろうか。
おい望月大丈夫か、と何とか私が近づくと、惣田が制してこう言った。


「こいつは俺に任せてくれ」


普段おちゃらけている男が眼鏡の奥で真剣な目つきをしてそう言うので、私は何も言えずにその場に立ち尽くしてしまった。まったく立ち尽くしてばかりの人生である。
氷尾さんは既にその場に居なかった。惣田曰く、たった今そこの池に飛び込んでいった、とのことだった。
私も後を追いかけようと池に飛び込んだ、このまま彼女を帰してしまっては、浅草しっぽりデートの予定が無茶苦茶になってしまうではないか。
気がつくと再び温い水の中を漂っていた。気持ち良い、そして、そして、おかしい。ばかに熱くなってきたじゃないか。どうしてだ、熱いぞ。さっきまでの温かさとはひと味もふた味も異なる。
これでは、のぼせてしまうじゃないか。


ラーメン屋の大きな鍋の中で目を覚ましたのはそれからどれくらいの時間が経ってからであろう。まるで張りたての湯船に浸かっているような気持ちだったが、テメェどこから入ってきやがった、と店主の親父にぶん殴られ、夜風が身を突き刺す山手通りの路上に全裸で捨てられた。
私の大学一年次の氷尾さんとの思い出はそれにて幕を閉じ、彼女はそれから数ヶ月間、大学にはやってこなかった。なんでも浅草近辺で目撃情報が幾つかあったらしいが、私は演劇サークルの春公演の準備で忙しく、文字通り身を粉にして働いていたのでめぼしい記憶が無い。
猫目の女をサークル活動で見かけることも少なくなった。たまにすれ違ったかと思えば、私の顔を見るとアッと驚いたような素振りを見せて居なくなってしまう。これは望月に酷い対応をしたことを悔やんで、その友人である私に触れられないのか、もしくは望月がよほど彼女の気持ちを遠ざける言動を振る舞ったに違いない。そして、恐らく後者であろうな、と思っていることは誰にも話してはならない。




二年生になってから再会した氷尾さんは一見、六義園事件の前と全く変わった様子は見られなかった。どうして大学に来なくなったのかと訊くと、浅草の魅力に取り憑かれてしまったのです、と言う。
あの後すみだ水族館に帰ることのできた彼女は、私がやってくるのを待っていたがいつになってもやってこない。諦めて仲見世通りを歩いていたら小雨がぱらついてきて、浅草寺の境内で雨宿りをしていたら、突然浅草移住がしたいと思ったらしい。その足で不動産屋に押し入り、数ヶ月で浅草をしゃぶり尽くそうとして大学が二の次三の次となってしまったらしいのだ。


全くお騒がせな人だと思いながらも、私はそんな氷尾さんにどんどん惹かれていってしまった。
ここで気になるのが廃人同然となった望月と、彼を引き取っていった歯学生・惣田のことである。惣田が、俺に任せてくれ、と言っていたということは、関西にある奴の根城にでも望月を連れ込んだのだろうか。それとも奴の父親にでも頼んで無茶苦茶な健康体人間にでも改造してもらったのであろうか。いや、いくら奴の父親がその息子を裏金入学させるドグサレ歯科医であっても、他人の体を無茶苦茶に変えさせることなんてできない。いや、人間の天賦の良心がそうさせはしないだろう。
私は二年生の前期の間、幾度か授業の無い日に水道橋の某大学に忍び込んでみた。そこには無個性を具現化したような学生がキャンパス内を闊歩していたが、どこを探しても望月の姿はない。
おい、望月!なんて張り紙を、そのキャンパス構内や、水道橋駅のホームや、東京ドームの二、三塁間に貼ってみたりしたりしたが、坂本勇人からの返信以外に特に目立った収穫は得られなかった。


それから数ヶ月は、氷尾さんの集めた浅草タウンの魅力なる情報を、二人で夜通し証明しようと深夜徘徊を重ねたりした。
梅雨も真っ只中ということもあり、私と氷尾さんが会うたびにお天道様は生温い雨を降らせたりした。
浅草寺の境内で雨宿りを兼ねて休んでいると、警備員らしき男性に、そこに座らないでくれますか〜、と言われてしまったので、恥ずかし恥ずかしで我々は花やしきの方角へと消えていった。
こうも会うたびに雨が続くのは、どちらかが雨に見初められているに違いない。どちらが雨男で、どちらが雨女であろう、と氷尾さんと私は思考を重ねては、どちらもそうであろう、という結論に至って並んでパフェを食べたりした。
花やしきでは、氷尾さんが繰り返しジェットコースターに乗りたいと言った。私は、ああいうものは日常に刺激の無いつまらない人が仕方なしに乗るものなのだよ、と説教じみたことを言おうとして、無理矢理彼女にコースターに乗せられたりした。
お返しに、お化け屋敷に入ろう、と私が言うと、氷尾さんは顔面の筋肉を強張らせて、その出口までの間ずっと私の手を握りしめて離さなかった。お化けが出てくるたびに氷尾さんは叫んで手を握り、爪が食い込んできて私は少し痛みを覚えてしまうくらいだった。
捕鯨船、という名前の居酒屋にも入ったことがある。鯨の唐揚げを食べると、彼女は「いやぁ、うめぇなぁ」といった顔でウンウンと頷いた。私は、はしご酒だ、さぁ行こう、と少女の手を取って夜の街を歩いた。路上にテーブルを出している飲み屋が沢山ある、キャッチのおねえさんは金髪で、どう見ても我々と同世代か歳下にさえも見えた。
ビールは苦手なんです、と言っていた少女が、その日の終わりにはジョッキを勢いよく空けるようになっていて、その姿に周りの席に居た背広姿のおじさんや、カラフルな髪色のおねえさんたちが、やんや、と拍手をしていた。
彼女が勢い余って契約をした、仲見世通りの裏手の自宅にも上がらせてもらったこともある。
そこはとても大学生の女が住んでいるような物件には思えず、現世との隔たりを心理的にも物理的にも色濃く感じさせられる所在となっていた。
仲見世通りから数本ほど内側に入り、隘路をうねりながら進んでゆくと、確かにそのアパートはある。軋む階段を登って、今にも抜け落ちそうな廊下の突き当たりに、可愛らしく「ひお」と書かれた札のかけられた部屋があった。


「探しています、猫を」


そう言いながら、少女はせんべい座布団をこちらに投げよこす。ほこりが舞う。私はソレをしかと受け取って、両のお尻で踏み踏みした。畳の上に、彼女の白いトートバックが落ちている。壁に染み付いたピンク色のシミは、昔住んでいた住民がピンクワインをこぼしてしまった際に付いたらしい。
えっと、猫を、、、?と聞き返す私に、彼女は悲しいような嬉しいような顔を向けてきた。不気味である。


「交差点に怪我をしていた猫がいて、うちで幾晩か預かっていたのです」


それが今朝、置き手紙を残して何処かへと消えてしまったらしい。書き置きを残すくらいだから、面倒を見てもらったことを感謝しているに違いない。それならべつに別れてしまってもいいじゃないか、と思ったが、彼女はその猫に何か思うところがあるようだ。
これを、、、と言って彼女が見せてきた大学ノートの切れ端には、拙い文字で確かに書かれていた。


「ありがとう」


泣かせる。全く泣かせてきやがる。
ひとしきり泣いたあと、私はその紙切れの裏に書かれている文字列に気が付いた。
なるほど、氷尾さんのあの表情はそういうことだったのか。その猫は氷尾さんが普段使っているノートを切ってメモ書きを残していったのだろう。全く、私や氷尾さんのような貧乏学生からしたら、ノート一枚だって貴重な財産だっていうのに。これだから猫畜生は人間の辛さを分かっていない。


「ようと池に飛び込んだ、このまま彼女を帰して」


ん?
刹那、氷尾さんは勢いよく私の持っていたメモ切れを奪い取った。そして、猫を見つけたら私に教えてください、と言って退けた。
その後の一室での男女二人の行く末については、特に語ることもない。私は紳士の名を欲しいがままにするほどの特大紳士である。氷尾さんは、浅草生活で生まれ変わった氷尾さんなので、ストロングゼロを何本も開けてゆく。そして、次は何を飲もう、と言う私に対して、チャミスルの瓶を両手に持って、次は何にする?チャミスル〜!なんて陽気に騒ぐ。
朝、どちらの夢にも踏み込めないまま目が覚めると、氷尾さんの姿は一室には既になく、風呂場にあるカビにまみれた浴槽に、クラゲが一匹だけ泳いでいた。




鶯谷のラブホ街を抜けると、顎の曲がった黒目がちな男に声をかけられた。
男は望月と名乗った、望月は片手を頭上にあげて、こちらに来るように、と私に手招きをした。
線路の上を掛けられた鉄橋を渡る、それは私の高校時代の友人の名前と同じであった。昼下がりということもあり、辺りは欄干に手を触れただけで皮膚がくっついてしまいそうな暑さを保っている。
山手線の改札をくぐると、男は胸ポケットをまさぐりだし、そこから黄ばんだマウスピースを取り出した。


「これ、これ」


前をゆく男はサイズの合わないチェック柄のシャツを着ている、滲んだ脇汗が色を変えていて些か香ばしそうだ。
そう言いながら望月は、右手に持ったそのマウスピースを左手で指さした。
確かに高くは感じるかもしれないが、いずれにせよ歴史と価値がある庭園だ。百聞は一見にしかず、と男の左肩を叩いたところ、こんなところで300円を惜しんでいたら我々スノッブとしての評判が下がるぞ、バフバフと泡を吹いて望月は卒倒した。


「六義園 入場料300円也」


そう書かれた門前の立て看板を見て、どうやら望月は驚いてしまったらしい。


「値段に驚いたわけじゃないんだ」


半刻ほどの時間が過ぎたか、我々は誰もいない六義園の砂利道を歩んでいた。
まんまるの月はいつの間にか上弦の月になっており、ソレは、とても人間の口に入れていい光を放ってはいなかった。高校時代の我々であれば、それではどうして気を失ったりした、と私が訊くと、男はマウスピースを口から出して私の手に乗せた。私の手のひらの上で無数の涎をまとったそれは時の流れの速さの証左であるように思えた。夜はいつまでも男は、顎関節症が再発した原因がこの六義園にあると言いたいようだった夜なのである。


「恋ですね」


ここでそんな大人のようなことが言えるようになった望月に、高校時代の我々であれば、私は感動と尊敬の念を送った。自身が傷つけられたくないが故に周りに毒を吐いて撒き散らし、


「もしかして、例の女か」


そう私が問うと、男は砂利を近くの池に投げ飛ばした。
図星じゃないか、と言って私もマウスピースを、私も釣られて止まってしまったので、の音が途絶えるサクサクと鳴っていた砂利。男は砂利を近くの池に投げ飛ばした。
無音が、この明らかになった瞬間に、我々以外に誰もいないことが広い庭園内であった、二人を包み込む。あ。うん。




蝉時雨が居木神社の境内に降っている。
サークル棟を数秒前に抜け出た私は、都会の熱で暖められたビル街を早足で歩いていた。
一限の課題提出を終えてから、サークル棟の部室で少し昼休憩をしようと思って、休憩をしすぎてしまった。四限に迫ったテストの勉強をしなければならないのに、全く時間の管理ができていないろくでなしだ。
峰原通りから正門前を通過して、そのまま山手通りの図書館入り口へと向かおうとしたその時のことである。


「先生」


そこには私と同じ学科に所属する黒髪の少女が居た。正門の階段を降りてきているようであったので、恐らく既に何らかの用事を捌いてきたのであろう。
そのまま大崎駅に向かうのかと思いきや、私と足並みを揃えて山手通りを西へゆく。
着いてきても何も面白いことは無いぞ、と言って図書館に入ろうとすると、彼女は私のシャツを握って、一緒にご飯を食べましょう、と言う。
いや、この後、四限にテストがあってね、と言うと、それって現代詩歌批評4ですか、と訊く。


「いかにも」


目をぱちくりとさせてそう答えると、彼女は微笑んで言った。


「それ、持ち込みありですよ」


15回行なわれる授業に、15回出席したことは未だかつて無い。この四限の授業だって、そんな大事な情報を聞き逃すほどには真面目に出席をしてはいない。
それからはずっと、ずっと氷尾さんのペースだった。早足の少女に手を引かれ、私は広場を抜けて学食のある7号館に入った。


「したいです、夏らしいこと」


階段を登っていると、氷尾さんはそう言った。
今年くらいは、と添えて。私は、そうだね、と返してから長いこと、何も答えることができなかった。
すれ違った明るい茶髪の女学生が、ファイルを落としたので氷尾さんと二人で拾うのを手伝った。
すみません、と茶髪の女学生は言って、すぐに訂正するように、ありがとうございます、と言った。ありがとうより先にすみませんが出てしまうのは、私も同じだな、と思ったりした。


「鎌倉なんてどうだろう」


先ほどまで走ってきたということもあり、特に頭は働いていなかった。テスト期間ということもあって学食は閑散としている。腰を掛けて一息つけたことに安心をした私は、目の前の席に座った氷尾さんにそんなことを言っていた。


「良いところだよ、鎌倉は」


鎌倉ですか、と怪訝そうな顔つきをする少女に私は、そうだよ、と強く押してみる。そうだ、鎌倉だ。クリームソーダ、惣田。惣田も言うだろう、鎌倉だ。
他にもいいところはある、と言いたげな彼女の瞳を見つめてみると、その僅かに焦げた色をした目の玉の奥に、さざなみが見える。
それはまるで人と人との付き合いのように、打ち寄せられては離れてゆく。先端の白んだ波が彼女のまなこに押し寄せるたびに、私は胸騒ぎを覚えてやまなかった。


「聞いてますか、先生」


鎌倉以外の、いいところの話だろう。そう例えば、宮島とかね。分かる、聞いているさ。もちろん、君の話を私が逃すわけがない。
氷尾さんの瞳に潜む砂浜に、誰かが立っているのが見える。それは、男だ。一人の男が、少女の目の中にいる。
氷尾さんは私を見ている、私は氷尾さんを見てはいなかった。砂浜、波打ち際、鎌倉…?それは鎌倉の由比ヶ浜であろうか。
彼女の眼の中に立ち尽くした男が振り返る、風になびいてその髪の毛がかきあげられる。それは、それは人の喜びを決して喜ばしいと思えない、社会を嫉んで時代を恨んでいるような鋭い眼光をした男であり、それは、今ここに座っている私の容貌に瓜二つであった。


「今日の日替わり、チキン南蛮じゃないですか」


少女が机を叩くようにして立ち上がった。彼女の中にある一坪の海岸線は、瞬きの刹那に揉まれて散っていった。
氷尾さんは目の中に、記憶に残った由比ヶ浜を飼っている。
待てよ、そんな単純なことであっていいのか。
そういえば、本日の彼女の様子はどこかおかしい。図ったかのように私と正門前で出会い、私を呼び止めて昼食を食べようとしている。四限が持ち込みありという情報も、彼女のでっち上げた嘘なのではないか?信じないわけではない。信じられないわけでもない。でもまさか、そんなことはしていないだろうな。
いや、更に異なる、そんな範疇に収まりやしないほど、これは口に出すのもはばかれるくらい恐ろしいことなのかもしれない。
チキン南蛮を持ってきた少女は割り箸を口で噛みながら割った。上手く割れなくて悔しい、といった顔をしている。
その目を見る。確かにそこに、砂浜があり波が打ち寄せている。紺青色の大海を背に、一人の男がこちらを見て叫んでいる。こちらに向かって、体全体を激しく動かして何かを訴えている。あぁ。そういうことか。そうだ、そうに違いない。


氷尾さんは、由比ヶ浜を盗んでしまった。


氷尾さんはチキン南蛮を食べ終わると、行かなければいけないところがある、と行って学食を出ようとした。
私もついてゆく、と言うと、四限があるじゃないですか、と目をぱちくりさせて言う。ここで怪しまれて、ケムに巻かれても仕方ない。
四限のテストが終わると、私は急いで浅草に向かう列車に飛び乗った。彼女のことだ、浅草の裏通りをのしのしと歩いているに違いない。品川で大勢が降りた際に危うく私もホームに運び出されてしまうところだったが、ジムに通って鍛えた腕力でなんとか車内に留まることができた。
仲見世通りを走る、黒ずんだ空から雨が一粒、二粒と降り始めたようだ。裏通りに入って辺りを見回す、どこにもいない。少女はいない。隘路の先にある、彼女の借りている部屋を探す、傾いた階段を駆け上がる、抜けそうな廊下を走り抜けた先に、丸い「ひお」の文字が見えた。


「氷尾さん!」


扉を開けると、そこには私と氷尾さんがあらゆる酒を呑み尽くしたあの一室は既に無かった。
そこには、くるぶしまで植わってしまいそうなほどの塩気を孕んだ砂々と、どこまでも広がる大海原があった。これは由比ヶ浜だ。曇天のせいで、とても綺麗とは言えない黒ずんだ波が打ち寄せてきている。振り返ると、さっきまで触れていたドアが無くなって、そこに鎌倉の街が広がっている。
まるで浅草の一室から、鎌倉の波打ち際に飛ばされたようである。すみだ水族館から六義園に跳んだあの方法を知っている氷尾さんなら、そんなことだってできるかもしれない。だがしかし、今回はソレとは一味も二味も違うということがわかった。
違和感を覚えたのは、そこに私以外の人間が誰一人いないという点である。
分かっている。この由比ヶ浜は、現実世界に存在している由比ヶ浜とは違う世界だ。


「ほら見ろ!」

叫んでしまった、大海原の遥か彼方、水平線が折れ曲がり始める姿を見たのだ。カクンカクンと折れる、折れる。そしてそのまま水平線は六角形を作りあげ、浮かび上がった。境界線を失った曇り空と紺青の海は、どろりと溶けたように境目を行き来して曖昧に滲み始めた。
六角形は膨張しては伸縮して、大きな鯨ほどの大きさになった。それは、私くらいのちっぽけな人間なら一捻りで殺せる大きさであった。
水平線の六角形は、私を見つけて飛んできた。そして私に向かって体当たりをしてきた。いや、私の手元に向かって、だ。
いつからだろう、私の手に唐揚げ弁当が握られ始めたのは。それは1695年の…馬鹿を言ってはいけない。私は知らぬ間に唐揚げ弁当を手に持っていた。
そして水平線の六角形は、その唐揚げを執拗に狙って体当たりをしてくる。唐揚げを奪えなければ、もう一度空高く浮かび上がってこちらに狙いを定めてくる。何度も、何度も唐揚げに体当たりをする。とても大きな体から放たれるエネルギーとは思えないほど、その力は弱かった。まるでトンビの一匹が私の唐揚げ弁当を頂こうとしているようであった。


「よく分からないけど、これは恐らく私の唐揚げ弁当だ!」


そう叫ぶと、六角形は怒ったような笑ったような、歪んだ音をキシキシとさせて空高く飛び上がった。そしてゆっくりと私の頭上を旋回して、和を描いた。
ふと見ると、手元に持った弁当に、小さなソースの袋が貼られていることに気づいた。それはタルタルであり、私が持っていた弁当が唐揚げ弁当ではなくチキン南蛮弁当であることに気づいたのは、既に六角形が空の彼方に飛んでいった後であった。


「よくぞ守ってくれました、先生」


はっと振り返ると、砂浜に少女がいる。
氷尾さん、と声をかけると、彼女は悲しそうに嬉しそうに笑った、笑った、笑ったのだ。


「はい、これ」


そう言って唐揚げ弁当改め、チキン南蛮弁当を少女に渡すと、彼女は大粒の涙を溢し始めた。
なにを、と言って私はハンケチを彼女に差し出す。彼女はそれを口に詰め込んで、うーうー、と泣き続けている。
どうしたの、と申せども、氷尾さんは目を真っ赤に腫らしてチキン南蛮を持って立ち尽くしている。ひとしきり泣いたあと、その弁当を開けて食べ始めた。ハンケチはもう口の中には無かった、決して吐き出してもいない。


「えこが、えこがあーしのおとおったんえす」


鼻の詰まった声でそう言う。タルタルが口元に付いている、もぐもぐと咀嚼をする頬の丸さの愛おしさよ。何を言ったのかは正直分からなかったが、彼女が悲しい気持ちになっているのは伝わってきた。


「猫が私のノートを取ったんです」


私の耳元、真後ろから新しい声がして叫んでしまった。
振り返ると、クリームソーダの異名を誇る惣田がそこにいた。


「案外、簡単だね。入り込むの」


そう言って私を馬鹿にしたような目つきで睨んだりした。何を愚弄しようか、惣田のメガネを割ろうと思ったところ、ここは氷尾さんの心の中だ、と言って男はメガネを取ってレンズを拭いた。


「こころのなか」


そうだ、と言って惣田は携帯の液晶を見せてきた。そこには、かの氷尾さんの浅草要塞が映っており、そこで氷尾さんが身体に幾つも傷を負った猫の手当てをしている映像が流れていた。
惣田が彼女の部屋の盗撮をしていたことはこの際目を瞑るとしてだ、その猫が幾日かかけて回復してゆく様がそのなかには収められていたのだ。


「これは氷尾さんが話していた猫か」


惣田は無言で次々と動画を見せてくる。私は、見たくない、とでも言うように自分の周りをクルクルと見る、この世界でも時間は経っているようだ。先ほどは数メートルほど先まで届いていた波が、足元の砂をさらってゆくほどには近づいてきていた。
惣田は、ここでもない、ここでもない、と呟きながら動画を早送りし始めた。彼の履いている靴にも波が押し寄せてくるが、染み込んだ様子も見せないでお目当ての場面を探している。
海と混ざった空が黒ずんできて、本当にどこからが空でどこからが海であるか判断できなくなっていた。


「ここだ」


惣田はとあるシーンで早送りを止めた。そこに氷尾さんは映っていない。それは元気になった猫が一室のなかで、彼女の白いトートバックを弄っている場面であった。おのれ猫畜生、氷尾さんの私物に触れやがって、と呟いたのも束の間、猫はその中にあったノートを取り出し、ページを破ったりぐしゃぐしゃにしたりした。


「あぁ!!」


思わず叫んでしまった。惣田はため息をついた。
どうしてため息をつくのだ、と私が聞くと、惣田の姿は消えていた。


「あーれ?」


一体全体、私は誰と話していたのだろう。手元には見慣れないスマートフォンがある。私はAndroid派なので、必然的にコレは私のものではないと断言できる。
そうだ氷尾さんは、と辺りを見渡しても砂浜には誰もいない。星空が、大きくなって近づいてくる。黒い海が逆立って山になった、手に持ったチキン南蛮弁当が熱い、熱い。温められてすぐなのか、それはどろりと溶けて茶色い液体になった。


「テメェ、どこから入ってきやがった」


また殴られる。
私の衣類は剥ぎ取られ、世界はぐるりと回って砂利道に放り出された。
いや、一面に広げられているものは砂利ではなく、どれも黄ばんだマウスピースである。サクサクと音がして誰かが私の元に近づいてきた。振り返ると目の前に望月が現れる、そしてにこやかにえんじ色の大学の学生証を見せてきた。
おかしい、奴はそこに落ちてしまって….はっと息をつく間もなく場面が目まぐるしく変わる。
鶯谷のラブホ街を抜けると、姫カットの猫目の女が桃色の建物に入っていく姿が見えた。そこは、私も訪れたことがある。安い時間でオプションも豊富、極めて可愛い子が揃っているのだ、断じてそこに入るな!猫目の女!
その建物の外壁が剥がれ落ちて、一つの桃色のがま口へと成り果てた。
その中に私は300円をねじ込んで願う、願う、願う!!!
六義園に連れて行ってください、ください!くださいよ!
嫌です、とがま口が答えたので、それを六義園の池に投げ捨てた。


「星屑が逃げてしまいました」


いた!
氷尾さん、氷尾さんが確かにそこにいた。様々な人物が現れては消える。
景色が移ろってゆく、移ろっては消えてゆく。消えないでくれ!
浅草寺の境内で、ああああああああああああああああ。そこに座らないで、座らないで、座らないで、うんこ雲ですね、座らないで、座らないでくれますか。
猫、カクンカクンと折れる、折れる。東京スカイツリーは逆さまになって地面に突き刺さって石橋湛山像の目の前の広場に刺さっていた。これは、東京スカイツリーではなくて、いりついかすうょきうと、ですね!なんて答えると、蝉時雨がより一段と激しくなった。鼓膜を破り散らかして、脳内に蝉が入り込んできたかのようだ。


「望月なんて、知らないです。 by坂本勇人」


そんな手紙を破り捨てるビートルズのマッシュルームヘアは駒込駅前でベースを鳴らす、プラットホームに由比ヶ浜が到着して観光客が乗り込んだ昼下がり。
ファンタジーってことかい、ファンタジーってことです。ファンタジーってことなのかい、全然違う、全然違う、全然違う、全然違う、の盛られた、パフェ。
「指定校?」「まさか笑」「そうだよね笑」「指定校とか笑」「笑うな」
それでも彼女と私は一年しか生まれたときが変わらない、それはつまり、彼女と私が同じ誕生日であることをも意味していた。


「ペンギンがいる」


私はそう呟いていた。どれくらいの時間が経ったのか分からない。
落ち着いた波が打ち寄せている砂浜に、一匹のペンギンがいる。
一見すると世界は歪むのを辞めたようであったが、それはただ歪むのに飽きただけであった。
頭上では水平線の六角形と「指定校です」と書かれた札が輪を描きながらこちらを鳥瞰して飛んでいる。文字通り、鳥瞰である。断じて浣腸などではない。


「ペンギンです」


そうペンギンは言った、怒り狂った私はそいつを掴んで大きな鍋にぶち込んだ。
短い悲鳴が聞こえて蓋を開けてみると、茶色いスープは紺青色に変わっていた。
疲れ果てた私がその場に座り込むと、峰原通りをゆく茶色髪の女学生が見えた。
私は小さく頷いて、足元の砂を握ったり解いたりした。
立ち上がって、深呼吸をする。潮の香りがする、かほりもする。
氷尾さんは、由比ヶ浜を盗んでなんかいなかったのだ。
由比ヶ浜を作り出したのは、氷尾さんだ。私は、氷尾さんの脳内に生きる存在でしかなかったのだ。私は、現実世界にいないのだ。誰からも生きていることを認められていないのだ。弊学にも在学していないのだ、五反田に居ないのだ。
今日も、私は誰もいない波打ち際で佇んでいる。自分に生きる術はない。


「死のうか」


キイと背後で音がして、私は興味も無さげに振り返った。
すると、そこには古びたドアが立っているではないか。忘れもしない、浅草の彼女の部屋のドアだ。繋がった、再び由比ヶ浜と氷尾さんの部屋が繋がったのだ。ここを開ければ、彼女に出会える。酒を飲み明かした一室に繋がっている。そこに行けば、あの髪を撫でられる。あの薄い唇を吸い、私の唾液を流し込むことができるのだ。できるのか、できるのだ。いや、したいのだ。
ドアノブを握る、それはとても熱くて、私は手を離してしまった。皮膚が溶け落ちても、私は彼女に会いたいと思った。例にも漏れず皮膚が溶け落ちる、手では無くなった肉塊で、私はなんとか扉をこじ開けた。


「氷尾さん!」


せんべい座布団が見える、白いトートバックが畳の上に落ちている。壁に桃色のシミが付いていて、その一部が足元に剥がれ落ちていた。
あの部屋だ、あの部屋に帰ってこれたのだ。キスをする、フリをする。
少女の気配を探る、居ない。猫もいない。タンスの上を調べると、Androidではないスマートフォンが隠されているのを見つけ出した。それをへし折っても、少女は姿を現さない。もう何も怖いものはない、誰もが幸せになれる理想郷を二人で手を取り合って創ろう。愛とは、与えられるものではない。恋をしよう、愛をしよう。愛とは求めることではない、お互いを慈しむ心である。その顔に、苦しげな表情が灯らなければいいのだ、彼女が今日も、美味しくご飯を食べられればそれでいいのだ。それでいいのだ。




風呂場にあるカビにまみれた浴槽に、氷尾さんは手首をつけて息絶えていた。
その足元の湯溜まりに、クラゲが一匹だけ泳いでいた。







小林優希




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