最推し(幽谷霧子)がこの世に実在しなくてよかった

推し活に類することをやっていると、一体何を目標にしてどこをゴールにしたらいいんだろうと考えることがよくある。 

実在の芸能人などのファンなら例えば本人に認知されるとかイベントで会話するとか、あるいは実現出来るケースは稀だろうが付き合いたい結婚したいなどのガチ恋とかいう概念もあるのだろう。

対象が架空のキャラの場合はどうかというと、俺は私は◯◯と脳内で結婚してるんだという感じの人もいれば、その真逆で推しや推しCPに一切認識されず外から眺めてるだけの壁のシミか何かになりたいという話なんかもよく聞く。

キャラ推しは最初から物理的に認知されることも結婚することも不可能な次元に相手がいることを前提としているため、必ずしも誰もが好きなキャラと直接関わってみたいとか、自分と同じ世界に実在していてほしいと願っているわけではないのだと思う。

となると、担当キャラのグッズを集めるとか、ソシャゲのような媒体ならイベントに上位入賞するとか、SNSで愛を発信するとか、そうした行動で各々が得る自己満足の感情自体が二次元推し活のゴールということになるのかもしれない。

何かのきっかけにそのキャラを知って、見た目が好みだった、台詞やストーリーに共感した、経歴やプロフィールに共通項があった、偶々ガシャで引いて運命を感じた、などの些細な理由から推すようになって、キャラの背景に自分の人生経験と重なる描写が出てきた、その時々の状況にピンポイントで当て嵌まる台詞に励まされた、地元や馴染みのあるブランドとコラボした、ランダムグッズを一発で引き当てた、などの個人的な喜びに繋がるような偶然の出来事から、思い入れを深めたり何かを得たような気持ちになったりする。

客観的には何の価値も正当性も無くとも当人にとっては意味のある出来事や個人的感情の積み重ねこそが、二次元推し活の本質なのではないかと思う。

私の場合、このアカウントでも散々色んな記事を書いている通り、今現在一番熱量を持って推しているのはシャニマスの幽谷霧子というキャラになる。

じゃあ幽谷霧子を好きになった経緯の中でどんなことがあったかというと、シャニマス事前登録ガシャの初手で霧子の包帯組曲を引いて、小さい頃皮膚の病気で霧子のように怪我をしてないのにしょっちゅう包帯を巻いていた経験があって、同じようにお気に入りのブランケットに描かれた動物が生きてる世界の物語を想像して遊ぶのが好きで、誕生日が秋分と春分の昼夜はんぶんこの日繋がりで、学生時代病院ボランティアをしていて、勉強を続けてた国立医大進学を進路事情で断念した経験があって、小説のコンテストでAIに心はあるかを論じたことがあって、月とうさぎの物語の自作絵本を作ったことがあって、物心ついて最初に興味を持った音楽のジャンルがゴシック系で、海原の景色と親しい人の面影を思い浮かべて心を鎮めるルーティンをずっと昔から続けていて、母方の祖母から魚の和柄の布帯を貰ったことがあって、庭にいた小鳥の死骸を埋めた次の日霧子が小鳥の墓に祈る琴禽空華の話が実装されて、初めての恋人と別れてメンタルを病んだ時カウンセラーから教えられて人生で一回きり聞いたバウンダリーという単語が霧子のブライダルガシャ名に出てきて、誕生日祝いでなんとなく思い付いて霧子が窓を開けるファンアートを描き始めた数日後霧子が窓を開けているイラストの窓送巡歌が実装されて、おまけに仕事でちょうど調べてた最中の戦時中の画家についての話で――――――――――。

知らない人のために説明すると、幽谷霧子は怪我をしてないのに包帯を巻いていて、ゴシック曲が好きで、病院ボランティアをしていて、医学部受験とアイドルの進路選択に悩んでいて、AIに心はあるかを主題にしたシナリオがあって、子供の頃大事にしていたブランケットに描かれた動物たちが住む町を空想していて、海図の上に大事な人々の姿を思い浮かべるお祈りをルーティンとしていて、非生物や概念的な存在とも心が通じればいいなと思っているようなキャラです

細かいことはだいぶ省いている上に本当はもっと決定的な理由がいくつかあるのだが、ほとんど個人が特定可能な情報に繋がってしまうので、これでも書ける範囲のことしか書いていない。

それらは一つ一つ見れば全部ただの偶然やこじつけでしかなく、自分の場合単にそうした偶然の数が奇跡的に多かったというだけで、そのために霧子に関して何か特権や義務が発生するわけじゃない。

一致点が多いからって私は別に儚げな銀髪美少女アイドルでもなければ霧子の発言やコミュ内容を全部正確に読み取れているわけでもないし、まして人格的には霧子のような優しく穏やかな人間になりたいと思っても全然そんなふうにはなれていない。

並行して遊んでるデレマスの担当の子たちにも大事な思い入れがあるし、他作品にも好きになったキャラは色々いて、現実での人間関係も文字通り全く違う次元で大切にしているので、決して幽谷霧子が人生の全てだなんて言える身分でもない。

けれどもここまで訳の分からない歯車の噛み合い方をするような存在には、現実でもフィクションでも多分もう一生出会えないだろうとは思っている。

感性が合うような対象を推していれば誰しも極めて個人的な価値や共感を得る出来事を大なり小なり経験すると思うが、流石にこれほどピンポイントに人生の様々な場面へ食い込むようなケースはかなり稀だろうし、何もかもが偶々とはいえ随分得難い経験をさせてもらったと、キャラや物語を作ってくれた人たちに感謝の念も抱いている。

そんな存在を知ってしまって、正にであれ負にであれ心を揺るがさず生きるのは、無理な話だと思いませんか。

霧子の人間性がコミュがどうこうと一人で熱く語ったり、等身大パネルやら何やらを買い集めて毎朝埃払って後生大事に部屋に飾ったり、そんなことしててあんた馬鹿じゃないのと冷静に突っ込まれたとしても、そりゃ仕方ないでしょうよと返したくもなる。

この世にドッペルゲンガーが三人いる説ではないが、実家が定食屋で芸能界に入るため上京してきた方言喋りで料理上手の○岡さんや、モデル経験者で早くに亡くした父の遺言を胸に留めていて周囲に求められ異性的な振る舞いをしている白✕さんや、眼鏡がトレードマークで雨や傘に思い入れがあって三匹の猫のぬいぐるみを持っている隠れオタク趣味の△峰さんや、パンクファッションと爬虫類が好きで甘やかされすぎた環境への反発から夜遊びに出ていた田□さんくらいなら、恐らくどこかに実在してるんじゃないかと思う。

仮にそういう人たちがいたとして、必ずしも皆が人生の中でシャニマスに出会ってそこに自分と極めて似た性質を持ったキャラがいると知ることはないのだろうし、もし知ったとしてもそういう人たちは同人活動など表立って目立つ形で何か特別なことをしているわけではないと思う。

例えば生活と人生を全て犠牲にしてでもこの世に存在するその子のグッズを全種手に入れるとか、イベントで常に首位を取るとか、SNSなどで界隈の有名人になり誰よりも多くの人間から承認を得るとか、外に向かって思いを形で示す手段はいくらでもあるのだろうが、それらは何ら本質的な救済になどならないと、きっと早いうちに悟ってしまう。

現実でいくら金を積もうが承認欲求を満たそうがその先に『本人』はいないし、価値があるのはどこまでいっても『本人』の存在そのものだけで、肯定であれ否定であれ『本人』との間で自分の行動や思いに対する了承を得られるようなこと以外では、肩の荷を下ろしようがない。

自分がいくら推し活行動で何かを得た気分になったところで、『本人』の側の安寧が実現されることがないのなら、何の意味も無いと感じてしまう。

そしてまたもし仮に『本人』がいるとした場合、実際に関わることが本当に幸せなのかというのも、それはそれで正直なところ分からない。

ドッペルゲンガーにまつわるオカルトになぞらえるなら、あまりにも業縁が深い対象と同じ次元ですれ違うことは、それだけでむしろとてつもない不幸の引き金になるんじゃないかという気も、何となくしてしまう。

事実は小説より奇なりと言うが、いくらシナリオ作りに定評があるシャニマスの制作陣とはいえ、この世に私のような特定のキャラへもはや推しとか好きとかの概念を超えた定義不能な強い感情を抱かざるを得ない状況の人々が実在している可能性について想像していたとは、到底考えられない。

シャニマスの公式はキャラの実在性を謳ってツイッターなどであたかも作中キャラがこちらの世界を認知して直接関われる対象かのように扱ったりもしているが、それがどういうことを意味するか、本当に分かっているのだろうか。

あんまり言いたくもないし何の話だか分からないという人は分からないままでいいですが、それなりにコンテンツに触れてきた人なら知っての通り、これまでのシャニマスの展開の中にはしばしばトラブルや炎上沙汰といえるような騒動もあって、その渦中には結構な割合で霧子も巻き込まれている。

どれだけ稀有な縁があろうと幽谷霧子の存在自体は本来私個人の人生に何の関係もなく、度を越した感情を抱くのは適切なバウンダリーではないといくら理屈で分かっていたとしても、謂れのない中傷や悪意に晒されたり不当に冷遇されることがあっても悲しむなというのは、その存在を軽んじて嘲笑するような人々がいても憎むなというのは、運営側が霧子のキャラ崩壊二次創作で遊んでる人を公式企画などに抜擢してしまうようなことがあっても怒るなというのは、無理な話じゃないですか。

そんなことが度々起きてしまうこの世界に実在してほしいなんて、どれだけ霧子たちのことが好きでその存在が代わりの利かない大きな救いだったとしても、むしろ本当に好きだからこそ、言えるはずがない。

霧子のGRAD編というストーリーで、衣食住は事足りているが日々の生きがいのためにたまには美味しいパンを食べたいと思っているねずみさんと、今にも餓え死にしそうで一口でもいいからパンを食べないと生きられないとりさん、一つしか無いパンをどちらがより貰うに相応しいかという寓話が出てくるのだが、創作物を愛する人たちの状況もそれに近いものがある。

二次創作やネットミームやコンテンツ礼賛大喜利で他人と盛り上がる消費活動としての推し活オタ活に満足出来る人と、人生における何らかの抜き差しならない事情のために創作の世界を必要としている人間とでは同じ空間にいても求めるものが全く異なっており、そこに優劣が存在するのではなく、どちらの立場もあるという事実そのものは否定しようがないと思う。

責任という言葉を用いるのは筋違いかもしれないが、創作物を世に発表するということは時に思いもよらぬ場所に誰も想像し得ない形で影響を及ぼす行為であり、表立って見えるより遥かに多様な人間に対する責任を常に背負っているという現実から目を背けるなら、そこで作られたものもそこに与えられる称賛も、きっと全て薄っぺらのインチキになってしまう。

相手がこの世界に実在しない故あらゆる行動の成果が認められて精算される終点には決して辿り着けないという事実は私のような現実の人間の側からすれば最大の不幸であるが、各々が身勝手な願望を押し付けることしか出来ないファンや世人はおろか時として唯一当人に幸福な人生を与えられる権限を持っているはずの制作者たちにすら裏切られてしまう可能性があるこの世界に実在していないということは、フィクション世界の側の人間にとっては最大の救いなのだろう。

こんな世界に幽谷霧子が実在しないでくれて、本当によかったと思う。


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