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短編小説 終宵の音

鬼が、人の屍肉を喰らいにくるという。

男は荒々しく障子を開けて、室に入った。
着物を着流した壮年の男である。無精髭を生やし、酒を飲んでいるのか足取りがどこか覚束無い。そんな男の腕には年代物の「琴」が抱えられている。

月のないとっぷりとした夜である。
室は、冷えきっていた。
燭台の蝋燭がぼんやりと室内を照らす。
六畳の部屋には布団が敷かれており、その上に先客がいた。
白装束、顔には白の打ち覆い。
黒髪が豊かな女である。──いや、女だったものである。
既に、息はない。
男は布団に横たえられた女を睥睨し、その脇に胡座をかいた。抱えていた琴を膝の上に置く。弦をつるりと指の腹で撫で、人差し指で一本弾いた。余韻を残しながら低い音が響く。

一晩、遺体の脇で葬送の曲を弾いてほしい。
常であったならそんな薄気味の悪い依頼は受けなかったであろう。だが、積まれた銭の山に、気づけば承諾していた。
提示された条件は二つ。
一つ、決して曲を止めてはならぬ。
一つ、決して声を出してはならぬ。
然もなくば鬼が来るぞ、と。
鬼と聞き、男は一笑に付した。そんなものいるわけがないと思ったが話を合わせて是と答えた。

男は顎を一撫でし、唇を舐めると左手で弦を抑え、右手で弾く。遠慮がちに始まった曲は酔いの後押しもあって、段々と滑らかになっていった。
実にいい気分である。
適当に爪弾いているだけで法外な金が手に入るのだ。
どうせ俺とこの女だけで聞いている者など誰もいない。あんな約束をしたものの、疲れたら途中で止めて寝ればいい。
男は女に目を向けた。
ふと、この顔も歳も知らぬ女はなぜ死んだのだろうと思った。
蝋燭の明かりに照らされ、障子に男の影が映る。
どれくらい弾いていただろうか。久しぶりに弾くが指は曲を忘れていないようであった。
そろそろ少し休憩するかと手を止めかけた時、不意に男は寒気を感じた。
ただでさえ冷えていた室の気温が更に下がった気がしたのだ。
蝋燭の火が揺れる。
何者かが廊下を歩く音がする。

ギッ、ギッ、ギッ。

思わず男は手を止めた。息を潜めていると、足音は部屋の前で止まった。
障子が細く開き、そこから見えたのは──血のごとき赤い、腕。
高い弦の音が鳴った。男が驚いた拍子に動かした手が弦に触れたのだ。
弾かれたように障子が締まる。まるで音を忌避するかのように。
男は悲鳴を既のところで噛み殺した。
障子に、影が。
ゆらゆらと揺れる影。人ではない異形のモノ。

それからは、無我夢中だった。夢中で曲を弾き続けた。
恐怖からか集中からか、男の額に幾粒もの汗が浮かび、流れる。
曲を止めてはならぬ。声を出してはならぬ。
自分に言い聞かす。
自らのためにも弾き続けよ、あれはそういう意味だったのだ。
観衆がいれば、稀代の名演奏だと言ったかもしれない。
だが、誰も聞く者はいない。
弾いて、弾いて、弾いて、弾き続け……。

夜が、明けた。
変わらず女は死んでいて、男は生きていた。

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201904 ツカノマレーベル「こんな夢を見た。」に投稿した作品を改稿。




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