研修中のバイトの人がたまらなく好き

先日、山口県に行ってきた。
湯田温泉にある梅乃屋という旅館に泊まったのだけども、さすが味の宿と名乗ってるだけあって飯がめちゃくちゃうまかった。
あと研修中の札を付けてる仲居さんが良かった。次に何を言うべきか用意が間に合ってなくてその都度一旦停止する感じとか、逆に次にやることがいっぱいいっぱいでめっちゃ急いでしまう感じとか。

そういえばこないだもチェーン店の焼き肉屋に行ったときに注文がぎくしゃくしたり、慣れない気合の入り方だったり、網の交換で見事に1枚地面に落っことしてしまったりしていた店員さんもすごい良かった。

こういう書き方をするとすごい意地悪な人間だと思われそうではあるが、いや実際そういう面があるのかもしれないけれど、まあこの際自分を取り繕うのはやめて、私がいかに研修中の店員さんが好きかを語ろう。

人間の自動処理できない域の部分が好き

人間は慣れる生き物であるので、日常のそれなりの、いやかなりの部分をオートメーション化して過ごしているように私は思う。
慣れてきた店員がだいたい同じような接客になる様に、動作や行動を自動化できることは人間の優れた機能の一つだと思っている。
ただそこにはあまり個性は現れない。もちろん細かい視点で慎重に見ていけばそれはそれで細かい差異があって面白いと思うのだけど、それは長い付き合いの上で分かってくることであって、ポンポンと見つけられるものではない。
ここまで書けばだいたい分かると思うのだけども、研修の人っていうのはまだ自動化が済んでいないのであらゆることがぎくしゃくしがちで、向かってくる色々に対して、何とか対応するためにかなり自分の個性が出てくる。
その個性がたまらなく好きで、別にテンパってる様子だけじゃなくて、こんなのは腰掛けなんでというような舐めた態度だったり、そういう意味ではトラブルが発生したときなんかも楽しい。
明かなクレーマーとかに対応するちょっと店員としての立場を超えた怒りがこみあげている様子なども非常に趣がある。

住んでいる町は治安がまま悪いので、ドンキなんかに深夜に行くと動物園だったりする。泣いてしまう店員さんを一度見かけたときはさすがに面白くなくてクレーマーのおっさんに辟易したことを今思い出した。

自動化に抗いたい複雑な心

とまあ、性悪に人間観察してたりするんですが、私自身も観察される側でありまして、いちエンターテイナーとしては、観察者さんにも楽しんでいただきたいというサービス精神もあります。
ですが自動化というのは無意識にやってしまうくらいに高精度な機能であって、しかも体力、精神ともに省エネにもなるというすごい便利機能なわけです。
これなくしては、もう明日は一日ずっと家で寝ていたいくらいの消耗をしていくことになろうので、やっぱり自動化に頼らざるを得ない部分もあって、そのバランスが難しいなあと日々苦心しています。嘘です。そこまで考えてません。

けどまあ、もし相手が自動的な感じじゃなくて、ああいまこの人はこの人として喋ってるなあというのが分かる時は無理ない範囲でこちらも人として生きていたいなあとそうは思うわけで、何が言いたいかというと疲れることもあるけど、人と人の会話っていいよねって話なのかもしれません。
いささか論理の飛躍がありますが、今日はこの辺で。

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