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アイドリッシュセブンと生きる、鮮やかな日々 ――ムビナナ感想文

月末のルーティンとしてクレカの明細を確認したところ、軽く眩暈がした。最近迷惑メールでクレカ会社を名乗る迷惑メールは大量に届くがそりゃこんな使い方してたら本当にクレカ会社だって送りたくなるだろう。
アプリって本当に怖い。ワンタップで映画のチケットが買えてしまう現代の進歩に感謝しつつ、こんなに見たんだなぁとしみじみしてしまう。

2023年5月20日・21日
劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD  <DAY1><DAY2>

公開から早9週間が経とうとしている。
長年オタクをしていると、金銭感覚はおかしくなるというものだ。
7週間。長いようであっという間の2ヶ月が経過した。日々映画館通い詰めた方も多いことだろう。
微細ながら、自分の中では最高記録のリピートをしている。

noteを書きたいなと思いながら、なかなか自分の中で言葉が固まらなかったり、話したいことがたくさんありすぎて話題が散乱してしまったりしていたが、ようやくまとまった時間が出来たので、いつも通りのアイドリッシュセブンに対するクソデカ感情noteをしたためていこう。

毎度言っていることではあるが、このnoteは個人の見解であり、感想であり、何かと比較してものを言いたいというものではないことをご理解いただきたい。
また、ムビナナそのものの感想というよりも、それを通して感じた個人の感情の備忘録ということも併せてご承知おきいただきたい。

もう本当に感情のやり場がなくなって初日は困った。
新曲だとNiGHTFALLがめちゃくちゃ好き。BGMはNiGHTFALLでお送りします。

劇場版アイドリッシュセブンは誰のためのものなのか

2015年のアプリゲームリリース、2017年のアニメ化、2018年のキャストライブ。
そして今年2023年には5月に劇場版ライブ、8月からはCGライブの全国ツアーが始まる。

羅列すると、アイドリッシュセブンのコンテンツ展開は、非常に全うかつ、想像の範疇であった。8年間コンテンツの展開を見ると、アイドリッシュセブンはアプリゲームから派生するリアルイベントには非常に手堅い印象を覚える。新しいことをやろうとはせず、既存で行われた媒体を着実にステップを踏んでいるような印象だ。
これは、運営母体の大きさによるものも大きいだろう。
捻くれた言い方をすれば、企画そのものにチャレンジングなことにせず(アニメ化だとか映画化、これまでもメディアの展開としてどのコンテンツもやってきたようなこと)、当たり前に売れる・集金ができる、確実にユーザーが増えるような企画をしていくというふうにも取れる。
下地となる企画そのものは、おそらく目新しいものはない。どこどこのコンテンツもやってたね、それと比べてどうだろうね、という比較の話は割と目にする。
さて、それはその『保守的な』企画が、どうしてここまで輝かしいものになっているのかを考えてみる。
大人になって、社会の歯車となった今だからこそいえるけれど、企画の一か所を変える、というだけでもそれは非常に大きなことなのだ。
ユーザーの声を汲む、リクエストに応える。仕様の一か所の変更の為に複数の調整を行う。例年通りのことの一か所を変えるだけでもオリジナリティにも繋がってくるし、それが顧客のリクエストに沿ったものであれば特別感にもなる。
テンプレート通りの企画のたった一か所、ユーザーに寄り添う姿勢が一つあるだけで、それは特別なものに見えてしまう。アイドリッシュセブンは「それ」がある。ユーザーに対して、創られたアイドルに対して、敬意を十二分に払っていることがその根底にあるように感じる。

劇場版アイドリッシュセブン(以下ムビナナ)に話を戻す。ムビナナのなかでその「寄り添う姿勢」という最たるものは徹頭徹尾のライブ映像だった、ということだろう。

ムビナナのコンセプトは、本当にどこまでも既存ユーザーへ向けたものだった。
アイナナ本編でも語られている通り、アイドルにとって、大きな会場で行うライブは一つの到達点だ。
ライブのことをデートに例えているように、日常と地続きの特別な日。その日に向けてアイドルや制作陣はもちろんのこと、ファンも自身にできる最大限の努力をする。
そうして迎えるライブが「二つとして同じものがない景色」となるのだ。
ムビナナも同様である。アイドル達が輝ける場所はどこか、ユーザーの求める映像は何か。それらを考えに考えた末に到達されたのが、全編ライブ映像のムビナナだ。

ファンじゃなければライブというのは、何の前触れもなく突然そこに現れるお祭りのように見えてしまう。ファンとしていなければ、ライブというものは大きな点でしかなく、日々の積み重ねから連綿と繋がっている点繋ぎの線ということに気付けないだろう。
だからこそ、初見の人の「キャストはよくわかんないけど楽しかった!」という言葉はアイドルとしての本質をついているし、ずっと追っていた人間の「この景色が見れてよかった」という言葉には重みがあるのだろう。

劇場版アイドリッシュセブンはこれまでアプリゲームをやってきたユーザーのための映像だった。初見時の感想も、今もそれは変わっていない。
そもそも、アイドルのライブに行くときに、そのアイドル達のことを知らずに行く人間の割合がどの程度いるのか、という話である。

だけど、初見であっても、チケットを取るという時点で、何かしらの興味関心がある。少なくとも、アイドルのライブなのだという認識をしていく。ムビナナで初見の人間がアイドルのキャラクター性や過程なんてそんなものは知らなくていいのだ。

大事なのは彼らがアイドルである、というその一点だけなのだから

そのために普段よりも大盤振る舞いでライブ映像を流したり、セトリを公開したりしている。見に来てもらう人たちに、ムビナナはアイドルのライブ映像です、という認識をまず持ってもらうために。

ライブというのは、何のために行うのか。何を目的とするのか。
ムビナナでは、それをアイドルとファンが織りなす二つとして同じ日のない非日常と定義づけている。楽しさもエモさも全部が内包された空間にいること。何かを受動的に楽しむためではなく、これまで好きだったアイドル達と会うために、アイドルという刺激を受けるために、LIVE4bit BEYOND THE PRiOD は存在している。

絵コンテのない映像

話を少し変えて、今回はシステム面からアイドリッシュセブンを捉えたい。
あまりこういう面には疎くて3Dモデルやらなんやらの動きについてはガバガバなのだが、今回のムビナナではちょっと気になることがあった。

バーチャルカメラシステム「ジャンヌ・ダルク」

ものすごく噛み砕いていうと、「バーチャル世界でカメラを回している」ということらしい(ものすごく噛み砕いています ニュアンスで…)

7月13日に行われた舞台挨拶(演出スタッフ登壇)で、このシステムについて触れられていたようだが(レポの知識ですみません)、最初からこれを使おうというわけではなく、ライブ映像を突き詰めていった末にこのシステムに辿り着いたという。

そうしてこれは絵コンテがないという。
それってめちゃくちゃライブじゃん…?!
演出から作り上げていくのはアニメの作り方というよりもやはり実際のライブとして作り上げようという現場の意志の強さを感じる。
(実際のライブでも実現可能の演出であるらしい。お金めちゃかかるけど)(ライブのコンセプト・演出については賛否あるところではある。いろんな感情が絡むので割愛)

この「ジャンヌ・ダルク」というバーチャルカメラを用いることの意味は何だったのか。
最新技術を用いて「こんなことをができるよ」を披露したかったわけじゃない。
モーションキャプチャを使ってライブをして、出来上がった映像を撮影する。
本当に中継みたいに、ライブモニタに映る画面を作る。
その道筋に絵コンテはなくて、実際に撮影してその中で選別された映像が流れる。
カメラを回す人間のさじ加減一つで、撮れる映像も、抜かれるシーンも変わってくるということでもある。
映像に対するリアリティとかではなく、この映像は生き物なんだな、という言葉がしっくりきた
撮影する人間の思考が出るところとか、変な話だけどどういう撮影の仕方をするのか技術も求められる。アニメなのに、カメラマンの撮影スキルが求められる。

モーションアクターの方もそうだけれど、これからの映像ではコンピューターができることが多くなってくるからこそ、より制作側の解釈や精度が求められるのだ。

それっぽいもの、それらしきものを作ることは簡単にできる。
だけど、AIイラストがこんなに発達したって、それで作って終わりというわけにはいかない。
切り取る場面は人間が決めなければいけないし、どんな意図をもってカメラを回すのか、その絵を作るのか。そういう解釈や意見の綿密なすり合わせがより必要になってくるのだろう。

何より、こんな高度の技術の利用が、アイドリッシュセブンのライブ映像を作るために何が最適だろうか、という基準で考えられているのだ。
ただすごい映像を作ろう、ではなくはっきりとしたコンセプトのもと、ライブ映像を作ろうという意識でバーチャルカメラを回している。
これは、あまりにもすごいことだなと思う。

チームマネジメントと熱量の伝播

いつもこの話に戻ってきてしまうけれど、これだけの熱量のある作品を、きちんとマネジメントできるアイドリッシュセブンの運営が好きだよという話を今回もさせてもらいたい。

上記に述べたようなユーザーに向けた映像や作品作りを掲げるのは簡単だけれど、様々な事情でそれが達成できないことも多い。
社会にでてプロジェクトを進行していても、10人いれば10人が違う考えがある。それを全て同じ方向へと向けるというのは生半可な取り組みではいけないのだ。
まして、それが今回のムビナナの規模となればそれはもうあまりにも果てのない話だろう。
昔からそうだけれど、アイドリッシュセブンはやりたいことが常に一貫している。
アイドリッシュセブンはアイドルだ。
アイドルの創造をゲームの指針としてやっていることだけは、この8年弱ブレたことはない。
なにがすごいかというと、これが制作側だけの指針ではなく、ユーザーや関係者がすべて同じ方向を向いているということ。
今回のムビナナでも、きちんとアイドルとして彼らを捉えるユーザーがいてくれて、最高のライブを作るために尽力するスタッフの方々がいて、衣装スタッフやアクターさん、振付師の皆さん、果てはコラボ企業などなど、アイドリッシュセブンに関わった人たちが率先して「私も関わりました!」と声をあげてくれる。
この熱の伝播が、わたしがアイドリッシュセブンの好きな部分の一つだ。
ユーザーがただのお客様じゃなく、一緒にコンテンツを盛り上げてくれるチームメンバーだと言ってくれている。ほんの一端でも、その盛り上がりに自分も寄与している。
そんな気分にさせてくれるのだ。

アイドリッシュセブンから元気をもらえるのはアイドルだけではない。
誰かに何かを届けるために仕事をしているスタッフ陣にも元気がもらえる。
いやなことも理不尽なことも山ほどあるだろうに、それでも必死に生きて仕事をしている。
変な話、アイドルは創作物でしかなくて、本当に地続きにいるものではないけれど、アイドリッシュセブンを作るスタッフたちは、この世界のどこかにいて、いろんな環境で、いろんな生活がありながらも、おなじ世界に、この地上に生きている。
制作陣の息遣いが感じられたのは、ムビナナの中のセリフも大きかっただろう。
龍之介がDAY1で言っていた、「会場に来ている皆のこと、皆って言っちゃうけど~」の一言が大きかった。そうなのだ。作り上げる人々たちはこの世界に生きている。それぞれにいろんな人生があって、旅があって、そのなかの僅かな一部がアイドリッシュセブンなのだ。
そういう世界に、自分も生きていると実感する。
誰かの為に、自分の為に、一生懸命になれる人がいるんだとムビナナは教えてくれる。

こんなにも愛すべきコンテンツを、熱量のこもったコンテンツに関わる人々がこの世界に大勢いること。そういう人たちを認識できたことが何よりも私は嬉しい。ままならない世界だけど、同じようにままならない世界で必死に生きる人たちがいる事実に、朝が来るたび勇気づけられている。

僕らが向かって行く先はどこだろう

過日、8周年に向けた広告が発表された。

メインストーリーがピリオドを打ったソシャゲが、さてそれ以降に何を描くのだろう。
ムビナナはその一つの答えである。
続くことだけがいいことではない。物語には必ず終わりがあるし、到達点がある。
物語はピリオドとハッキリ言ってくれたアイドリッシュセブンの運営の判断は理解できるものである。一年前は情緒不安定なnoteを書いた私だけど、今ならはっきりと、それは必要なものだったのだといえる。
コンテンツを続けるということと、物語が続くことは必ずしも同義ではない。

アイドリッシュセブンを通じて、現在主流となってしまったソーシャルゲームの在り方に思いを馳せる。
永遠を描き続けることは難しい。一人の人間が永遠を作れるわけじゃないし、スタッフ陣も変わっていく。ファンも新陳代謝というものが存在する。ファンでさえも、ずっとそこにいられるわけではないのだ。
だけど、そこに触れているときには永遠を信じて、願ってしまう。歪で、とても傲慢で、人間らしい美しい感情だ。
ムビナナのラストでは16人の大合唱による「Pieces Of The World」がある。
そこでは、アイドルたち(=僕ら)を、世界で一番永遠に近い、ひとときに過ぎない存在と描いている。解釈は人それぞれだろうから、勝手に解釈をつけさせてもらうけれど、アイドリッシュセブンのコンテンツそのものが、きっとそういう儚いものなのだ。
アイドルは一瞬のきらめき。ライブという日常の中で僅かな非日常。
もっとメタな話をすれば、ソシャゲというそもそもが儚い媒体であるコンテンツ。
だけど、そこに触れた瞬間永遠を感じてしまう。この時間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。

終わりを迎えて、その先に何があるのか。
僕らが向かって行く先はどこだろう。
本当にわからないし、ムビナナは決して永遠を歌わない。上映ごとに客の違うライブは、毎回違った色を見せてくれるから、一つとして同じムビナナも存在しない。

僕らはひとときを駆け抜けるだろう
この歌詞がずっと胸に刺さって抜けない。
ただ前をむいて、次の朝へと向かうだけだ。その繰り返しで未来は出来上がる。
終わることは怖いのかも知れない。時間が経って自分の望んだ形じゃなくなることは恐怖かもしれない。
だけど、終わりを迎えること、結末ができることは、変化の過程の一部に過ぎない。
終わりだと思っていた世界は、案外そのあとも続いて、「そんなことあったね」って笑えるのが人生だ。

時間の経過は物事を変えていく。
それは、人間の関係性や成長というだけではない。技術の進歩や求められるスキルだって同じだし、それらに適応しながらこのままならない世界を生きていく。
ピリオドの先に、もしかしたらまた結末があるかもしれないけれど、それはきっと、長い歴史の通過点に過ぎない。
そう思えることができたから、また今年も、この先も、アイドリッシュセブンと日々を駆けていけるのだ。


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