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43歳。初めての入院で、心、涙、家族。(後半)

18時半ごろ奥さんと娘は僕の夕食を見て、なんとも質素で可哀想、と言い残して帰っていきました。人生で何番目かに寂しい別れ、に感じましたが、娘は娘で何しろまだ幼稚園の服のままだし、明日は大事なお遊戯会だし、いつまでもここにいさせるわけには行きません。

奥さんと娘のいなくなった病室は、急に現実の色を帯びてきました。狭苦し硬いベッド。カーテンレールでぐるり覆われた部屋。音楽もなくテレビの音もなく、ただ入院している人のひっそりとした呻き声や、頭がいかれたよう人の呟きと、忙しく動き回る看護師さんの声。さっきまであまり気にならなかった病室らしさ、病院らしさが急に重たくのしかかってきて、痛めた上腹部を締め付けるように感じました。
夕食は、そんなに美味しくないわけではないけれど、白米は無理でした。。しょうがないのでしょうが、ビッチョリと濡れたやわやわのお米で、家で食べるのとはまるで違い、食べきれませんでした。ふりかけ置いていってもらったのに、食べきれませんでした。

まだこの時は歩くことには不安があったので、そのあとは、何度かトイレに行く以外はその日は基本的には病室で過ごしました。19時から就寝する24時ごろまで。スマホはあるけれど、仕事の連絡は気を遣ってほとんど来ないし、ニュースはコロナばかりだし、ゲームをガンガンやる、という気分でもなく。なので、普段は見ないテレビをぼーっと見ていました。テレビを見ながら、姿勢を同じにしていると不安なので、たったり座ったり、ソワソワしながら過ごしていました。
しかし、テレビというのは、どうしようもなくつまらないですね。。
ドラマは連続ものなのでスポットで見れるものではないし、バラエティって、なんなんでしょう?よく知らない芸人みたいなのが出てきて下品なことして笑ったり、後、クイズ番組って何が面白いのですか?人がクイズに答えるの見ていて。ダメですね。。全然気持ちが和みませんでした。
ということで、スマホで漫画をダウンロードして見ている時間も多かったのですが、これも、まだ体を横にするのが怖くてできないので、なんか、ベッドに座ってスマホの漫画を読む、のもしっくりきませんでした。

寝てしまえばいい、のです。だから、病院ではみんないっぱい寝ています。どの人も、ご飯食べている時以外は、ほとんど横になっています。面白いくらいみんな寝てます。こんなに寝てどうするんだろう、というくらい。でもまあ、病人というのはどこか体が悪いわけですから、体をたくさん休ませるのは当たり前、かもしれません。
しかし僕は、「体を横にすると痙攣が来る」という意識が頭にあり、横になろうとするだけで、体が強張り、硬直し、動けなくなっていました。ですので、何もすることないから寝よー、というような感じになれず、することもないし、気も休まらないし、体も横たわれない、そんな時間が続いていきました。
こんなんじゃ、体良くならないよな、と思いました。これだけ痙攣して、体は負担がかかっているわけで、本当はしっかり休まないといけない。それはそう思います。でも、心と体がいうことを聞かない。どうしても、体を横たえることができない、怖くて。
そんな状態のまま23時が過ぎて、ニュースも繰り返しで飽きてきて、寝なければいけない、いつまでも怖いではいけない、僕は、明日娘のお遊戯会に行くんだ、必ず行くんだ、そう思い、作戦を考えました。いきなり横になるからいけないわけで、横になる、という行為を10分割くらいして、徐々に徐々に横になっていこう。そこに30分でも1時間でもかけよう。寝る、という行為は、明日お遊戯会に行く、という行為とつながっている、いきたいならばどんな苦労や工夫をしてでもやるべきだ、そう強く思いました。
ということで僕は、まずベッドの上にあぐらをかき呼吸を整えます。そして、左手をベッドにつき、その姿勢でしばらく深呼吸をします。数分してから、今度は腕を降り、肘をベッドにつきます。そーっと、そーっと。この姿勢は結構ドキドキして、ここで10分くらい過ごしました。でも、同じように呼吸を整えて、今度は足を前に伸ばします。これはすんなりいったので、そのまま今度は、できる限りしらっと、隠し球をしている一塁手のような気持ちでしらっと、肩をベッドにつけます。ベッドは20度くらい傾けており、本当にちょっとだけで肩はベッドについたのですが、これで、体は左向きの状態でベッドに横たわりました。
僕は小さく深呼吸をしました。大きく深呼吸をするとバランスを崩しそうで。でも、この状態の僕に、スーッと眠りがやってきました。
しかし、僕は思います。これで終わりじゃない。ちゃんと仰向けになるところまでいかなければ。この硬いベッドの上で、横向きで寝続けることはきっとできない。最後の1工程が残っている、と言い聞かせます。
仰向けの状態になる時には、昼間、何度となく痙攣をしました。その経験がどうしてもフラッシュバックし、なかなか気持ちが定まりません。理屈では、もうここまで横になっているので、ほんの90度、たった数十センチ体をよじればいいだけです。それが原因で痙攣が起こるとは思いにくいです。
でも、なかなか硬直した体と心を動かせませんでした。僕は、気持ちの良い春に、電柱の上に何げなく止まって、何かを見ているカラスよろしく、ただただじっとしています。何かが来ることを期待して。左の壁は薄いベージュ色に見えました。よく見れば壁は白だったかもしれませんが、まだ部屋の灯りを落としていないのでそう見えたのかもしれません。とにかく僕はそのベージュの壁を見ること10分くらい、24時に近くなった時、ふっと光は揺れ、僕は仰向けになりました。物音一つ立てていないような気持ちで。
たったこの動作に、僕の心はバフらめいていました。。でも、仰向けになった今、僕がすべきことは、心を落ち着かせて、深呼吸をし、痙攣を引き起こさないこと、これだけです。今度は少し白っぽい天井を見て、静かに深呼吸をします。お腹を刺激しないように、何も動かさないよう。心一つ動かないように。
娘と奥さんもきっと寝ているだろうな。僕も寝よう。カラスは次の止まり木を求めてどこかに飛んで行きました。

2月15日の朝は、僕は思いの外快適に目覚めました。寝るというのは、人間にとって最も大事な営みに感じます。硬いベッドで横たわった僕は自然と眠り、起きた時に、明らかに自分自身の回復を感じました。
これならば、お遊戯会に行ける。自信を持っていける、そう確信しました。
トイレにもしっかり行き、歩くことに明らかに余裕が出てきたので、少し病室のある4Fを歩き回ってみました。A病棟とB病棟があって、少し入院の原因別に分けられているようでした。概ね40部屋ぐらいで、多くの部屋が2−4人部屋。大体どこも満杯で、そう思うとここのフロアには実に100人以上の病人が寝ているわけですね。
朝ごはんはロールパンが温めて出されて、スクランブルエッグみたいなものがついていました。思いのほかパンは美味しくて、しっかり2つ食べました。牛乳は遠慮しました。
静かな朝でした。淡々と食事が運ばれ、特に大きな声が出たり、どこかで騒いだり、ということはなくて、静かな森のコテージの朝、みたいな感じでした。
朝食を食べからは、特にやることもないので、フロアの中央にあるカフェスペースのようなところに行き、そこでテレビを見たり、スマホをいじったりしていました。同じテレビを見るにしても、イヤホンで病室で聞くより、開放的なスペースで見た方がずっと健康的に思えました。

午前中9時過ぎに僕の父と母が見舞いに来ました。生まれて初めての入院という物珍しさもあったようですが、現実的には、奥さんと娘は幼稚園に行くので、僕が外出するには誰か親族の付き添いが必要、ということでお願いをしました。
なかなか40過ぎてる息子の見舞いにどんな気持ちで来ているのか、察せられない鈍さが僕にはあって、しかも、見た目は普通に元気で、少し歩き方がゆっくりなくらいで、ちょっと拍子抜け、みたいな感があったのかもしれません。
特にどうという話をしたわけでもないですが、とにかく原因がわからない、ということなのですが、彼らからすると「飲み過ぎ食べ過ぎに違いない」ということでした。肝臓の数値だけが酷かった、と言ったら、それはある意味正常だ、あんなに飲んでいたら肝臓の数値が悪くなるに決まっている、と理屈くさいことを言っていました。

病院の前からタクシーに乗り娘の幼稚園へ向かいました。道中は30分くらい。道は空いていましたが、なんだか信号一つ止まるだけでもちょっとドキドキしました。幼稚園に行くと、奥さんがズボンを持って待っていて、すぐ横の公衆トイレのようなところで、ズボンだけ履き替えました。何しろ、寝巻きのままでしたので。

幼稚園では奥さんが事情を話していて、席をあらかじめ用意してくれていて、つつがなく娘の演技を見ることができました。本来は僕の両親は見に来る予定でもありませんでしたが、こんな経緯なので、一緒に見ていきました。それも娘には嬉しかったようです。

お遊戯会の後はタクシーで一旦家に戻り、そこでシャワーに入りました。まだ体がふらつくので、着替えるところなどは怖さがありましたが、なんと言っても、いろんな検査臭や病院臭を一度洗いたかったです。家では、お昼ご飯に、ラーメンを作ってもらい力をつけて、さあ、病院へ帰還、です。


体は普通と同じとはとても言えないですが、それでも、歩けるし、話せるし、動けるし。もう、気持ちとしては十分退院できるのではないか、と思っていました。少なくとも、今日が土曜日で、明日の日曜日には退院できるのかな、と。
しかしながら、担当の先生は、「無理言って外出してもらってます。しっかり経過を見ないといけないので、月曜日までは絶対にいてもらいます」と言われてしまい、僕の希望の光は、それはかなり現実的につかめていると思って希望の光は、一気に萎んでしまいました。
2日もこの病室にいるのか。
特に、日曜日は検査もないし、何にもやることがない。
お遊戯会の午後も、娘と奥さんは僕に少し遅れて病院に来てくれました。昨日今日と娘はなかなかなスケジュールを元気になしています。病院ではそうは言っても彼女はさすがにやることがありませんで、持ち前の社交性をいかんなく発揮し、カフェスペースの一角で何やら色々と手作業をしていた若い女の子に声をかけて、遊んでもらっていました。
夕方になり、明日の日曜日も病院にいないといけないことがわかり、娘は少し落胆していました。しかし、その落胆は、昨日のそれとは違っていました。僕も、まあ後2晩くらいなら、なんてことないだろう、とその時は思っていました。

昨日より少し早めに娘と奥さんは帰っていき、18時過ぎに僕は一人になりました。
夕食は昨日同様で、ご飯だけ少し残しました。その後は、とにかく病室にあまりいたくなくて、隙あらばカフェスペースに行きそこでテレビを見たり、スマホをいじったりしていました。土曜日は仕事も動いていて、そのやりとりもそこそこあり、それはそれで僕にはいい刺激になっていました。

この辺りまでは良かったんです。少しずつよくなっているんだろうな、ということを感じられました。
しかし、夜9時を過ぎ、消灯となり、病室に戻され、そこでこの日はスマホで漫画をずっと読んでいたのですが、そうしていると、だんだんと、お腹の痙攣のことが気になってきました。この後、寝ないといけないのです。しかし、昨日感じた、横たわることへの恐怖感は変わらず存在していました。その恐怖感は少し減ってはいて、だからこそ日中はほとんど何も感じませんでしたが、夜こうして一人になると、次に寝ないといけない、と思うと、急に体と心が強張ってきました。
体と心が強張るにつれて、お腹周りに急に意識が行き始め、何だかまた痙攣のたねが動き始めたように感じました。
夜遅い時間は、奥さんにずっとメールでチャットしてもらいました。いつもより断然饒舌にメールしました。寂しさや怖さを紛らわすために。そして、昨日よりもスッとベッドに横渡り、眠ろうとしました。ずいぶんシンプルに動けたのです。
が、その時、仰向けになってほんのちょっとしてから、胃の上の方がビクン、ときました。冷静に思えば、しゃっくりに近いようなもので、でも本当にビクン、と小さく1回来ただけですので、気にすることもないのですが、僕にはこの時、この1ビクンが大いに心に突き刺さりました。
やっぱりくるんだ。
僕の頭の中では、来そうな気持ちがするだけで、もうこないんだろう、と言い聞かせていました。しかし、現実は違いました。このビクンは、小さいし痛くもないけれど、確実に痙攣の延長にあるものだということがわかりました。そう思うと、僕の小さな心は、その思い一色にとらわれ始めました。緊張して体が強張り、眠れなくなり、背中が痛くとも、寝返りを打つことができなくなり、また、この日は昨日と違い、周りがうるさいのなんの、サイレンみたいなのはよくなるわ、いびきはすごいは、なんかずっとぶつぶつ言っている人はいるわ。そこからは、ほぼ一睡もできず、早く朝になって体を起こしたい、そればかりを考えて一晩を過ごしました。
一晩というのはものすごく長いです。とても長いです。暇なバイトと、眠れない夜、はしんどいです。

2月16日の朝が白んで来た時、少しずつそれに合わせて看護師さんたちが慌しくなってきたことを感じた時、僕の心はどれだけほっとしたことか。これで、起き上がってカフェスペースでボーッとしていればいい、そう感じました。フラフラと院内を歩き回れる。ベッドの上で横になっていなくていい。
この日は天気が悪く、外はどんより曇り、7時過ぎからは弱い雨も降り始めました。
病室から見る雨降りの街は鉛色で、この世には面白いことなんて一つもないのではないかのように見えました。そして、そのどんよりとした空模様は、どんよりと僕にものしかかってきました。

病院の朝は昨日と代わり映えがなく、僕は起き上がってしまえば痙攣の不安もないので、手持ち無沙汰になりました。しょうがないので、明日から仕事に行くのだ、と思って、そのためには、1時間程度たって歩き回る、そういう練習をしておこう、と思いました。
朝食後、トイレに行ってから、入院している4Fを歩き回り、1Fに行きロビーを歩き回り、ちょっと外にも出てみました。ただ、外は今日は昨日と違いとても寒く断念して、またロビーをうろうろ。立ってみたり、座ってみたり。
日曜日の総合受付のロビーはとても閑散としていました。お見舞いなどが多いのかな、と思いましたが、そういう様子はなく、普段このロビーに人が多いのは、外来の受付なのだ、ということがわかりました。ロビーには有名チェーンのコーヒー屋さんが、大手コンビニも入っていて、そのメニューなどを丹念に見回したりしながら1時間を過ごしました。
幸いに変な疲れとか、息切れとか、痙攣に関わる何かがあるとい事はなくて、これならば仕事に出るくらいならば大丈夫かな、という確信を持ちました。

それでもまだ10時前でした。今日、娘と奥さんがお見舞いに来るのは、習い事に行ってからの夕方で、それまでは何もすることがありません。
しょうがないから、僕はふとベッドに横になってみました。眠いことは眠いのです。それで、そーっと左向きのまま、ベッドに横たわってみました。
横たわることはすっとできたのですが、その時に、僕の上腹部にある何かが動き、つつつつっとその何かから、液体のような物が動くのを感じました。その液体へ、冷たく、鋭く僕の体のどこかに流れ行き、その後に、僕の心には何かの化学変化が起こったのか、これまでの人生で経験したことのない強烈な憂鬱さが襲ってきました。
まず、お腹のその感触は僕に痙攣の時の映像をフラッシュバックさせました。ERの小さいベッドに入れられて、動くたびに痙攣したことが頭に浮かんでは消えていきます。それが浮かぶたびに僕は恐怖で体が硬直します。
どうしようもなくなり僕はベッドから身をお越し、ついさっきまでフラフラしていたカフェスペースにいきます。誰かが僕に話しかけてくれたらいいのに、そして人生の苦しさにについて一緒に話すことができたらいいのに、と思いフラフラしてみますが、みんなそれぞれの人生の入れ物に入っていて出てきてくれません。
僕の周りからどんどん世界が潮を引いていき、僕の周りには何もない荒野だけになります。娘も奥さんも仕事もみんななくなり、ただただ不安で怖がっている僕だけがいる。窓の外の雨は少し激しくなり、風も吹き横殴りになっていて、僕なその雨の線を辿ることに必死になります。
何をしていいかわからない。どうしていいかわからない。病院のカフェスペースで僕は、人生で一度も感じたことのない、圧倒的な孤独と疎外感に襲われました。僕はもう完全に一人で、もうこの先何もなすことができなくて、僕なんてもう生きている価値も何もない、そんな風にネガティブになるのはよくない、と頭の右側で思うものの、圧倒的なスピードでその黒い雲は僕の心を占領します。
座っているのが辛くなる。吐き気がする。きっと何もでないだろう吐き気がする。飲み過ぎて吐いてしまった後に、まだ吐き気がするけど、もう何も出ない、というのと同じ。僕は立ち上がり、何かを求めて、誰かを求めて病室を徘徊する。右の端から左の端に歩く。カフェスペースで右往左往する。意味もなく掲示板を見る。
誰かと話をした。誰かに打ち明けたい。僕がいかに孤独で疎外感に襲われているのかを。
でも誰一人僕をみない。外に降る雨ですら僕のことを気にしない。

僕は、こんなに誰かを求めたことはないのに、こんなに誰も僕をみてくれない。

これが心の問題だろう、ということは冷静には思えて、だから、深呼吸してじっと我慢しよう、きっと時間と共にこの黒い雲は偏西風に乗り去っていく。ゆっくりかもしれないけれど去っていく。僕は自分に言い聞かせる。

カフェスペースの廊下側の真ん中あたりに座り、スマホの画面を意味もなくみる。ニュースサイトを開いてみる。新型コロナウイルスにニュースは、世界の向こう側にあり、僕には関係ない。オープン戦の予定が出ているけれど、それが一体何の予定なのかがわからない。
みょうに静かだ。雨のせいかもしれない。(それは、本当は日曜日なので、リハビリとか検査とかのプログラムがない体のだけど)僕は、この胸の吐き気と、心の憂鬱さにだけ集中する。夏の夕方、夕立に襲われた路地裏で雨宿りしながら、雨雲が去るのを待つように、雨と雲のことだけに集中する。

どうして、僕はこんな憂鬱感に襲われているのだろう。これは明らかに心が鬱だ。それも強烈に鬱だ。僕は初めて、「衝動的、発作的に自殺する」ということの意味を理解する。刑事ドラマとかでよくそういうのを聞くと、「そんなことあるわけがない」と思っていたけれど、そうではない。今こうして、そういう気持ちになっている自分がいる。だって、もしもこんな気持ちと吐き気がずっと続くならば、この世に価値は何もない。生きていることは、死ぬことの数億倍辛いはずだ。

しかし、僕はまだそこまでのトラブルではなくて、ちゃんと、時間と共にこの雨雲が去ることを知っている。ただ、長かった。
11時過ぎになって、雨は突然止む。雲は不思議なくらいさっととれていく。
そして僕は大きく深呼吸をする。僕の心にも、分厚かった黒い雲が薄くなっていくことを感じる。

僕はスマホを取り出し奥さんにメールをする。1時間半ぶりに現実に復帰する。

午後には娘と奥さんが見舞いに来る。さすがに娘は3日続けての病院で、会えたことは嬉しそうだけど、それ以外はつまらなそうだった。奥さんは僕の好きなシュークリームを買ってきてくれた。外の雨は上がり、明日からは暖かくなる、ということだった。奥さんと娘に会ったことで、僕の心にかかっていた黒い雲は完全に晴れた。

しかし、彼女たちの帰った後は、その前の日と特に変わったことはなく、夜はいたずらに長かった。スポーツニュースばかり、4チャンネルぐらいにわたりみ続けて、もうあきた、というころに昨日と同じようにベッドに入る。今日はもう、全部横たわることは断念して、22度にベッドを傾けて、そのまま寝る。怖さはあったし、体は全然寛げないけれど、痙攣するかもという恐怖と一緒に寝るくらいならば、このほうがマシだった。

この日の夜のことはとても不思議だった。順調に寝ていたのだけど、明け方の4時ごろ、僕は本当に久々に軽い痙攣をする。明らかに今回の一連の痙攣だ。場所が。ただ、ビクつきは軽いし、痛さもほとんどないし、時間も5秒もあったかどうかだったけれど、確実にそれはあった。
僕はその時、ロックンロールの夢を見ていた。とても強烈に覚えている。ロックバンドに僕が参加していて、「ロックロックロック」と叫びながら、リズムをとり、体を揺すらせ、くねらせる。その「ロックロックロック」の言葉に合わせて、僕は痙攣した。
体が痙攣したのだけど、僕の心は思いの外冷静でした。その代わり、これが「夢が原因で痙攣が起こったのか」それとも「痙攣する、という体の反応が夢になったのか」ということについて、思いを巡らせました。もちろん、そんなものに僕が科学的根拠を持っているわけがありません。しかし僕は、これは「前者だろう」と思いました。そうすることで、この痙攣は、今回の一連の発作的な痙攣とは関係ないものだ、と結論付けて寝ることにしました。

2月17日の朝もその前3日と同じでした。体は明らかに寝不足ですが、それ以外はどうということもありません。夜中の発作のことは先生にも看護師さんにも言いませんでした。

9時半すぎに先生と面談あがり、退院の許可をもらい、奥さんに連絡し退院の準備をしました。
出るのも大変で、諸々手続きが終わったのが12時前。タクシーで家に帰り、そのまま家でのんびりもせずに、会社に行きました。なんと言ってもこの日の午後は仕事に行かねばならなかったので。


以上が僕の人生で初めての入院の一部始終です。教訓は特にないです。でも、家族に対して、本当にありがとう、と思ったのは初めてかもしれません。僕なんて、偉そうにしているけど、家族がいなければ、入院生活一つし続けられません。そして、僕の心は、こんなにもか細く繊細でした。こちらもいつも、偉そうにしているけれど。


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