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【小説】くすのき ー第4話ー

 武井はその日、職員室の東側の窓から、益田の姿を見ていた。

 武井が母校であるこの学校の教員として赴任して4年目になる。大学では駅伝部に入り箱根を目指した。残念ながら名門校でレギュラーを取るほどにはなれず、4年間,給水係を務めた。それでも、箱根の高揚感、駅伝が自分の血を沸き立たせている感覚から目を背けることはできなかった。
 駅伝部のコーチや監督をしたい、そう思い高校の教員を志し、1度は採用試験に落ちてしまったものの、2回目に地元の県の高校の体育教員として採用された。
 それから3校目に、自らの出身高校に転任になり、彼は母校の駅伝部の監督を買って出た。買って出るまでもなく、学校側でもそのつもりで、赴任と同時に彼は駅伝部を任された。
 元々彼の学校の駅伝部は、県下でもベスト8くらいには入れる強豪校の部類で、大学に行ってから箱根を走ったランナーもここ10年で2名出ている。そのため、この7年くらいは、「文化スポーツ特別推薦枠」という枠を県から設けられ、ある程度の成績を条件にして、学区内の有望な中学生のランナーを青田買いできるようになっていた。2名だけとはいえ、そういう強い、有望な選手が毎年入ってくるため、部活としてのレベルは常に高いものを維持できるようになり、毎年冬の京都での全国大会の予選では、必ず注目校としてあげられるようになっていた。
 武井は、そんな母校の駅伝部の監督に赴任し、大いに意気に感じ、心血を注いで部活を運営し、選手たちを育て上げていった。

 赴任して2年目の秋に、彼は高校の入試相談の会場で、近くの中学校のある生徒の親を紹介される。紹介してきたのは、昨年特別推薦で1人生徒をとらせてもらった中学校の校長先生で、今年はぜひこちらの親御さんの子をお願いしたい、ということだった。聞けば、成績は正直かなり厳しくて、基準よりはだいぶ下回っていたが、ランナーとして中学校であげてきた実績は頭抜けていた。今の高校のメンバーの1500mの最高タイムよりも中3の段階ですでに5秒以上速く、中学校の全国大会でも入賞をしていた。
 ただ、成績については、9教科の内申点の平均が4.0が基準のところ、オール3にも満たない状況で、県下トップクラスの進学校として、旧制中学からの伝統校としては、どうみてもふさわしくない成績状況だった。
 彼は困惑した表情で、紹介元の中学校の校長先生を見る。もちろん、駅伝部としては嬉しいけれど、さすがにこの成績では難しいです、という表情で。加えて、そんなことは校長先生だってわかっているでしょう?という疑問も込める。
「武井先生。とにかく一度、走るところを見にきてもらえませんか。とりあえず、こちらを・・・」
彼は小さいデパートの紙袋を武田に渡す。中には地元の煎餅屋さんの小さな箱が入っている。
「校長先生。こういうのは困ります。知っていますよね?」
「武井先生、勘違いしないでください、これは、去年、彼を推してくれたことのお礼ですので」
彼はそう言ってその袋を武井の手に握らせて、お子さんの親御さんと思しき女性と共に頭を下げて去っていく。
 こういう手の売り込み、押し込みのようなことは去年、今年とちょこちょこあった。しかし、基本的には彼は相手にしてこなかった。彼は彼なりに、貴重な2枠をどういう選手に当てていくかには、こだわりを持っていた。
 
 職員室に戻り、その紙袋をもう一度のぞいて見ると、中に白い封筒が入っているのが見えた。彼は何かの犯罪現場を見てしまったかのような恐怖を感じる。
 これは、お金が入っているのではないか。
 封筒の大きさ、その厚みからして、容易に想像がついた。しかも、その厚みは、数万円というものではなく、明らかに3桁はいくだろうというような厚みであることも見て取れる。
 慌てて彼は机の下に紙袋を押し込む。
 日曜日の午後の職員室には、学校説明会を終えた後の先生方が数名いる。大体が、休日出勤させられたことについての文句を言いながら、資料の整理を続けている。彼は会場運営の応援に駆り出されていた。
「武井先生」
誰かが彼を呼ぶ。その声に彼は飛び上がりそうになる。
「今日はありがとうございました。本当に。お休みのところすいません。もうあとは大丈夫ですよ」
広報の担当の先生はそう言って彼に頭を下げる。
 武井はすっと小さく息を吐く。心拍数はどのくらいだろうか。駅伝のゴール後よりも激しく脈打つ。

 紙袋を持って家に帰る。家に帰ってきたところで、どうして持って帰ってきてしまったのか、と思う。すぐに中学校の校長先生に電話をして、怒鳴りつけて紙袋とお金をつき返すべきではなかったのか。
 封筒の中には、200万円の現金と、手書きの手紙が2つ入っていた。1つはその筆跡は明らかに女性のものだった。手紙には、ぜひ高校の駅伝部で使ってほしいこと、勉強についてはきっとしっかり親が面倒を見ること、先生にご迷惑はお掛けしません、というようなことと名前が書いてあった。武井はその名前をすぐにGoogleで検索をしてみると、その子の父親が、ある新興IT企業(いわゆるスタートアップ)の創業者であることがすぐにわかった。端正な顔立ち、細身で早稲田大学出身の彼の記事はネットに溢れていた。彼も学生時代は駅伝部で、箱根を目指していて、自分には叶わなかった夢を、是非とも子供に、というような記事も見つけた。
 もう1つの手紙には、中学校の校長先生からのもので、高校へ提出する資料についてはお任せください、という短い言葉が記載されていた。
 武井の頭の中が回転する。
 こんなことが許されるわけがない。有名人が、学校の校長とぐるになって裏口入学をしようとしている。それに彼が巻き込まれそうになっている。校長にもIT企業の社長から金がしっかり回っているのだろう。義憤めいたものが彼の心の中に充満する。
 しかし。
 彼の目の前には200万円があった。
 高校の体育教室の給与は、30歳に満たない状況では満足なものではない。独身ではあるけれど、彼は、今の高校の駅伝部のために自腹をはたくだけではなく、決して少なくない借金もしていた。遠征費や、トレーニングの機器、選手に向けた食事など、公立高校の部費では到底賄えない部分については、情熱だけではなく、お金も惜しみなく投下してきた。
 郊外の2DK。築30年を超えたアパートの畳の部屋に敷かれた万年布団に、大の字になり目を瞑る。
 お金について、楽になりたい。
 その思いは彼の心に張り付いたカビのように蔓延っていた。そして、この200万円があれば、そのカビは一掃できる。楽になれる。容易にそのことがわかる。
 
 10年前の夏。彼は親友を裏切った。
 武井が益岡に見せた未払いの領収書のうち、30万程度は、彼が自分のために使ったものだった。ゲーム、ゲーム機、服、そしてPCやそれに付属するものなど。彼は、学校の名前が書かれ、明細のない領収書をたくさん受け取り、自分の欲望を満たしていた。
 予算がオーバーしていたのは本当だ。しかし、その予算オーバーに、自分が欲しかったものを上乗せしていた。予算オーバーが明確になった時、彼はこの計画を思いついた。少しならば大丈夫だろうと思い、初めはPCのソフトを購入した。2万円程度だった。一度やってみるいとも簡単なことで、彼は4日間で一気に30万程度の買い物をした。全ては、文化祭実行員用のクレジットカードで購入をした。
 どうせ予算オーバーしているわけで、それについては学校に報告して、そしてなんとかしてもらうしかない。大体毎年多少は予算オーバーになっているということも聞いていた。だから、領収書が揃っていて、しっかりと使い道を説明すれば自分の使い込みが露見する可能性は、極めて小さいだろうと打算していた。そして、おそらくはそれは相当に高い確率でうまくいくように見えた。
 しかし、この事実(自分が使い込んだことは伏せて、全体での予算オーバーであること)を益田に伝えずに、直接先生方に相談するのは憚られた。なんと言ってもこの文化祭は、彼と二人で引っ張ってきた。お金や事務処理などの面倒くさい類のものは益田はノータッチだけれど、それは役割分担というところで、二人がこの文化祭のリーダーであることは誰もが認めている。それに、同じ部活の親友でもある。彼にこの事実を告げずに、勝手に先生に報告すれば、彼は必ず憤慨するだろう。しかも、相当に強く憤慨するだろう。それくらい彼は、まっすぐで、バカで、最高にいいやつだ。
 でも、その言い方は気をつけなければならないと思った。予算オーバーしていることを告げれば彼は当然に、どうして事前に相談してくれないんだよ、というだろう。その通りだ、本来は予算オーバーが分かった時に彼に相談しようと思った。しかし、彼の心の中には、益田には知る由もないもう一人の自分がいた。今思えば、その彼は、きっとずっと前からいて、そして、今の自分にもいる、そう思う。
 その、もう一人の自分については、100%の確率で隠さなければならない。そのためには、少し演技をする必要がある。
 
 益田に話し、二人で涙をし拳を交わし、みんなに伝え、校長先生に話に行き、話はそれで終わった。
 校長先生に話をし、大ごとにならないことがわかり、益田にそのことを伝え、彼が小躍りをしている姿を見て、一緒に喜びながら、彼の心の中にいる彼はほくそ笑んでいた。武井自身がそのことを感じていた。そして、そう感じていることに対して、武井は自分自身を憎悪をした。憎悪しながら、彼はある種の快感を感じていた。感じないでいられなかった。どうして、どうして、こいつらはこんなに単純なんだ。大人はいつまで子供が素直だと思っているのだ。世界は彼が思うよりもずっと簡単で価値のないものに見えた。
 こんな世の中、まともに生きている価値などない。少し賢くなり、少し得をして何が悪い。
 武井は、そんな思いが湧いてくる自分に恐怖した。

 それから10年後、彼の前には200万円がある。武井はこれを受け取るような人間ではない。世界は彼をそう認知しているはずだ。しかし、彼はそうではない。彼は200万円を手にする。そして、帯をちぎる。

 それ以降、どう話が伝わったのかはわからないけれど、彼の元には毎年実に多くの先生方が訪れるようになった。包んでくる金額も次第に大きくなっていた。そして、駅伝部は地域のトップランナーが入ってくることで、一般で入ってくる生徒のレベルも上がっていき、ついに去年は都大路まであと200m、県大会でもう一息で優勝というところまでやってきた。新聞やスポーツ系のライターなどが頻繁に学校に来て、彼や選手を取材するようにもなった。今年の予選会は、念願の優勝を十分に狙える戦力だと評される、そんな状況になっている。
 周りの人にはわからないが、同時に彼の暮らしぶりも充実をしていった。格好こそジャージ姿のままだけれども、車は中古のホンダから、最新型のレクサスに変わり、家も新築のマンションを購入した。元々部員に対しては、羽振りがいいというか、面倒見がいいというか、どんどんとお金を注ぎ込んでいるところがあったけれども、それが少し豪華になり、周囲からはそれによりより一層「自分のことを顧みずに、生徒のことを大事にしてくれる先生」という評判にもなっていった。

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