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僕は、『夏物語』を本当に読むべき人間だった

「自分が登場させた子どもも自分とおなじかそれ以上には恵まれて、幸せを感じて、そして生まれてきてよかったって思える人間になるだろうってことに、賭けているようにみえる。人生には苦しいこともあるって言いながら、本当はみんな、幸せの方が多いと思ってるの。」(『夏物語』文春文庫P.525)

人が生まれること/人を生むことについて、これまでこんなに考えたことはなかった。子どもを身籠らないからだとして生を受けたからかもしれない。そうであるからこそ、本当に読んで良かったと思えた。


■『乳と卵』という作品との出会い

2008年に芥川賞を受賞した川上未映子『乳と卵』の8年後を描いた本作は、「10年以上前の当時は時間的にも技術的にも書ききれなかった部分があって」と本人が語る「生殖倫理」をテーマに書かれた、文庫にして652ページの長編小説。
 
僕は元々『乳と卵』が大好きで、何度も読み返す作品の一つ。この作品が僕にとって革命的だったのは、関西弁で書かれてある、ということ。この読書体験が僕にとっては真の口語体の発見とも言えるもので、明治の人にとっての二葉亭四迷、僕にとっての川上未映子、と言っても良いくらい、とにかくもう、はじめてのものに際してめちゃくちゃ感動した。
 
この作品を機に僕は、作品の文体やリズムを意識するようになった。書かれている内容に加えて書かれ方、あるいは声に出した時にどんな印象になるかという新たな視点が生まれた。読書が豊かになったのは明らかに『乳と卵』の読書体験によってである。例えばこの体験がなければ、芥川の『杜子春』を読んで、研ぎ澄まされた無駄のない文章だ、と感動することはなかったろうと思う。

■『乳と卵』のもう一つの魅力

「卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、」で始まる作品の、内容の方もとても新しかった。主人公・夏子、夏子の姉・巻子、巻子の娘・緑子の三人が、女性のからだに起こる肉体的な変化や精神的変化をそれぞれの視点から描いている。豊胸手術をしたい巻子、自分の体について関心を失っている夏子、思春期の体の変化や生殖行為について今まさに嫌悪感を募らせる緑子。特に緑子は、思春期の葛藤や親への不信感から、言葉を口で発さない。その代わりに彼女の言葉は「小さめのノート」に筆談のかたちで書かれるか、「大きなノート」に、人には見せない日記として書かれる。小説で人の二面性を書くのはとても難しいと思う。表情が見えないのはもちろん、読者が脳内に思い浮かべたキャラクターから逸脱した発言や行動があると、読者が混乱するからである。『乳と卵』では、緑子の葛藤が彼女の書いた日記を通して感じられるのがなんとも愛おしい。それはもしかすると小学生の女児という、自分を絶対に脅かさない存在、自分が既に乗り越えた悩みを持つ(と勝手に感じる)若年者に対しての優越から感じる愛おしさがあるかもしれない。そのことに注意を払いながら、もう一度この愛おしさの意味を考えた時、人が変化を恐れながらも受け入れようとする/拒絶しようとする物語に人は共感したり感動したりするのではないか、という仮説に行き着く。変化に対する生き方にこそ、人間らしさが現れるのではないか。それは『夏物語』での夏子の姿勢ともリンクする。

■『夏物語』における「女性」の「強さ」

『夏物語』は二部構成になっている。第一部では2008年夏(『乳と卵』の舞台)を、第二部では2016年の夏から2019年の夏を描いている。第一部は『乳と卵』と同じ主題でありながら、筆者が10数年の間に新たに蓄えたであろう(その間に出産も経ている)女性のからだへの意識に対してのより丁寧なまなざしが感じられる。他方では、血縁関係にある女性の結びつきを幾度となく描き、どうしても「女性」と「強さ」とを結びつけずにはいられない作品になっている。第一部にはいわゆる一家を担う稼ぎ頭としての男性が現れない。巻子と夏子は母に連れられ夜逃げをし、中学生の頃から大阪・笑橋のスナックで働き始める。祖母のコミばあと母は2人を育てるために日夜を問わずに働き、2人とも早くして亡くなってしまう。その後若くして子を身籠った巻子も女手一人で緑子を育てる。そうした女性同士の結びつきの強い環境というのがこの作品の下地にある。
 
本作を貫く女性間の結びつきの強さは、出産という行為に関わるのは女性だけなのだ、という男性への排他的な姿勢とも読める。産むという行為に直接かつ主体的に関わる性としての「女性」の「強さ」は、本作に現れるさまざまな育児の様子にも現れている。(ここでは「女性は強い生き物だ」という言説とは距離を取るため、あくまでの作中の女性という意味で括弧をつける)
 
例えば第二部において夏子の親友として機能する作家の遊佐も、出産後に夫と離婚し一人で娘を育てている。その遊佐は、自身の母親が父親に対して持っている愛情をあまりにも痛烈な言葉で否定する。それは封建的な夫婦関係の中で、個を埋没させた母への批判であると同時に、男性の庇護下にある女性全体への拒絶反応である。この反応は「主体性」を放棄することへの蔑みや、明らかな上下関係にある夫婦は契約上の愛を担保にした搾取であることの暴露である。『夏物語』では遊佐や巻子といった登場人物によって、男女間における女性の尊厳がシームレスに繰り返し語られる。

■『夏物語』を本当に読むべき人

しかし本作に描かれた妊娠への不安、葛藤、悩み、苛立ち、憔悴、絶望、そして希望を読めば、妊娠・出産はどこまでも女性の行為である(だから男性側に責任がない、という意味ではない)という姿勢にも徐々に納得ができてくる。夏子が本作においてどうしても男性と交わることができないのは、この「男性を必要としない」本作のスタンス上、必然的なことだったと思う。妊娠方法を選ぶこと、育て方を選ぶこと、どこまでも主体的な「選ぶ」という行為によって、夏子が母親になっていく姿が描かれている。
 
「生命の誕生」というのは人間にはなから備わっている感性に、直接結びついて感動させる因子を持っていると感じた。妊娠や出産を味わうことはできないが、筆者の鬼気迫る筆致にはその体験の凄まじさが、理解と言うよりは生々しい感じで伝わってきた。母体と幻想的な世界とがリンクして、意識は朦朧としながらも「死ぬ」に最も近い「生む」を行う夏子の姿は、一生身籠ることのない僕も読んでいてなぜだか無性に勇気が湧いてきた。生命の誕生が大げさではなく本当に起こる奇跡なんだという実感が、紙の上に並んだ文字を読んでいるだけの僕を包み、今までの人生で一番「神秘」に近づいた心地がしました。
 
今、何事に関しても発言や行動が難しくなっている。意識的になろうとも、発したそばから誰かを傷つけてる可能性は常にあるという、とてもあやふやな現状。自分がそこに存在しているだけで誰かを傷つけている可能性だってある。例えば誰かが二重であること、痩せ型であること、筋肉質であること、やりたいことが見つかっていること、美味しそうに何かを食べること。そうした各人にとってあたりまえの一つ一つが、誰かを傷つけている可能性があることを考えなければならない、と僕は思う。社会が与えた画一の豊かさが機能していた時代は、人との違いについて考える必要はおそらく今より希薄だった。主体的であることを意識しなければならない今の世の中だからこそ、人と違う自分だけの豊かさを追い求められる反面、誰かの豊かさを搾取したり虐げている可能性もある。よりよく生きるとはなんなのか、考えることをやめてはならないなあと思いました。
 
ここまで語ったことは『夏物語』のほんの一部の魅力や視点に過ぎません、もちろん。読み手によって感じることはさまざまであるし、読み手によってもどのタイミングで読むかによって感じ方はさまざまである。それを踏まえた上で、子どもを一生かかっても身籠ったり産み落としたりすることのない方のからだを持っている僕みたいな人こそ読むべきではないか、と思いました。

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