十字架の愛

以前、ブログを通して知りあった人に神が信じられないという人がいて、僕が神を信じていたから、神とは何なのかということを、色々、やり取りしていたんですが、彼が言うには、なんで神がいるなら、世の中の色々な不幸や悲劇はなくならないのかという。

テレビに出てくる知識人みたいな人たちも、同じようなことを、よく言う。
神がいるなら、世の中の苦しんでいる人や悲しんでいる人を、何故、救わないのか、戦争や殺人やそういうことが世の中からなくならないのか、というようなことを言う。

つまり、世の中はニヒリズムに満ちているのを、神はそのままにするのかということをいう。

全く同じことを僕も思う。
神を信じていても、そう思う。

つまり、神を信じていても、そういうことを思うし、そういう神との葛藤は、なくならない。

ネットで知りあったクリスチャンの人は、娘さんが若くしてがんで亡くなった時に、神に祈れなくなって、神との葛藤があったとブログに書いておられた。
その方は、キリスト教書の翻訳もされていて、僕なんかより、非常に信仰の深い人だ。

そんな風に、神を信じているからといって、神への不信が無くなるわけでない。
むしろ、神にどうしてと問うことが、深くなるんではないかと思う。

マザーテレサも、死後、神に対する不信を書いたメモが残されていたと聞いた覚えがある。

キリスト教作家、遠藤周作、三浦綾子、島尾敏雄、椎名麟三なども、神を信じながら、一方で、神への不信を書いている。

中でも、一番神を信じながら、その不信を書いた作家がドストエフスキーだと僕は思う。

「カラマーゾフの兄弟」は、その最たる作品だ。
この小説はタイトルのとおり兄弟の話なのだが、次男イワンは無神論者で三男アリョーシャは信仰篤く、この二人の間で、論争が交わされる。
小説の解説から、その論争を引用する

猟犬に石をぶつけて足を折ったというだけの理由で、領主に何十頭もの凶暴なボルゾイをけしかけられ、母親の目の前で八つ裂きに食いちぎられる少年。この少年の苦しみは何のためにあるのか。この領主を誰が赦すのか。母親にも、そんな権利はない。母親としてのはかりしれぬ苦しみの分だけ迫害者を許すことはできるだろうが、食い殺された子供の苦しみを赦してやる権利などない。もし、未来の永遠の調和のためにこの子供の苦しみが必要であるとするならば、自分はそんなに高い入場料を払わねばならぬ未来の調和の社会への入場券は突き返すだろう。幼い受難者のいわれなき血の上に築かれた幸福など自分は絶対に受け入れることができない。自分は喜んで神を認めるし、神が世界を創ったことも認めるが、罪なき者がいわれなく苦しむ不合理にみちた、神の創ったこの世界だけは絶対に容認することができない。イワンはこのように説く。(中略)
この無神論に対して、アリョーシャは、すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことのできる人がたった一人だけ存在すると答える。それは、あらゆる人、あらゆるもののために、罪なき自己の血を捧げた人、つまり、キリストであり、未来の調和の建物はその人を土台にして築かれると、彼は説くのである。

ドストエフスキーが神を信じたのは、キリストが十字架にかかった、その一点に、深く関わっていたのではないかと思う。
イエスキリストの十字架というのが、ドストエフスキーの一つの答えだったのではないかと思う。

神というと、なんだか、遠い存在に思えるが、その神を人間のところまで、下ろしてきたのが、イエスの十字架なのではないかと思う。

無様で無残に、憐れに十字架で死んだ人間イエスが、キリストとして、神の愛を十字架にかかって、示した。

ドストエフスキーは、そのキリストを信じたのではないか。

僕もイエスキリストが十字架で示した、無様で無残で憐れな人間らしい十字架に神の愛を感じるのである。

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