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【小説】 穴があったら入りたい

俺は35歳の小さな商社に勤めるサラリーマンだ。

宮原勉という。

妻は3歳年下で名前は恵子だ。

夫婦仲は極めて良好、会社の人間関係も極めて良好、給料もそこそこもらい、最近都心から1時間ぐらいの田舎に庭付き一戸建てを買った。

比較的広い庭だったのでそこも気にいっていた。

要するに何の不満も悩みも目的もなかった。

毎日幸せ、ハッピーハッピーだった。

あの飲み会に出るまでは。

その飲み会はいつもの会社のメンバーで、いつものように金曜日の夜に開かれていた。

俺は酒が強いから、全然酔っておらず、会社の連中が話す話題についていっているつもりだった。

俺は言った。

「そうそう、最期は大変みたいだったね。ほらあの人、天才でわがままだから。看護婦さんも苦労したらしいよ。なんかテレビでやってた。」

隣に座っていた部下の金子が俺に言った。「すみません、宮原さん何の話してます?」

俺は答えた。

「え、アップルのスティーブ・ジョブズ」

「あ、はっはっはー」

一同大笑いである。

「俺たち、スティーブンスジョンソン症候群について話しているんですけど」

しまった!そっちだったか!

俺だって知っている。

嘘じゃない。

「宮原さんでも知らないことあるんですね。」

金子が、微笑んで、慰めてくれた。

俺は落ち込んだ。

スティーブンスジョンソン症候群を知っていたのに知らないことにされた。悔しい。

穴があったら入りたい気持ちだ。

これが、俺のこの先の運命の分かれ道だった。

帰りの通勤電車でつり革に掴まりながら俺はつくづく思った。

「穴があったら入りたい」

歩くウィキペディアとみんなに言われ、子供の頃から百科辞典が友達だった俺が、スティーブ間違いでこんな赤っ恥をかくとは。

「ふざけるな、俺のプライドはニューヨークのエンパイアステートビルより高いんだ。」

俺はそう思って、傷ついていた。

早く家に帰って、妻の恵子の顔が見たかった。

恵子は優しいから、俺を慰めてくれるだろう。

電車を降り、自転車を漕いで、やっと自宅に着いた。

家に入る前に俺はぐるりと回って庭に行った。

地面を見つめて俺は思った。

「穴を掘ろう。自分が入れるぐらいの穴を掘るんだ。俺はとにかく穴に入りたいんだ。」

玄関から居間に入り、居間でテレビを見ていた恵子に俺は言った。

「すまないが、俺は明日から庭に穴を掘る。」

恵子は答えた。

「そう、それはお疲れ様。」

せめて何で穴を掘るのか聞いてくれれば、少しは俺の今日のこの傷も癒えるのに、恵子は面倒くさい事は聞かない女だった。

「おやすみ。」

俺は彼女にそう言って寝室に行った。

明日は朝一番で、ホームセンターに行って、穴掘りに必要な道具、スコップや、バケツ一式を買ってこなくてはいけない。

「明日から俺の穴掘り人生が始まる。」

ベッドに入ってからも俺は自分の掘る穴の事ばかり考えていた。

次の日、ホームセンターで、1番立派なスコップを買い、バケツも買った。

泥で汚れるから、作業服も買った。

会計の値段が結構してびっくりしたが仕方ない、全ては庭に穴を掘るためだ。

自分の家の庭に立ち、スコップで土に穴を掘り始める。

思ったより土が硬くて、すぐに手のひらに血豆ができた。

痛いので、物置に行き、軍手を持ってきて手にはめた。

俺は思った。

「俺はただ穴に入って、落ち込みたいだけなのになんでこんなに苦労しているんだろう。」

しかし、人生には苦労がつきものだ。

恵子が作ってくれたお昼ご飯のカレーも食べず俺は夜真っ暗になるまで穴を掘り続けた。

俺は思った。

「これはサーチライトが必要だな。」

登山やキャンプで使う頭に巻くサーチライトさえあれば、手元を照らせるから、土日の休日には24時間ピッチで穴が掘れる。

平日も会社から帰ってきて、穴が掘れる。

明日は日曜だから、キャンプ用品の店に行って、サーチライトを買ってこよう。

「よし、今日はここまでだ。」

俺は、夕飯を食べに家に入った。

腕時計を見たら、夜の7時を過ぎていた。

空を見上げたら、満月が綺麗だった。

庭に穴を掘り始めてもう一ヶ月が経っていた。

頭につけるサーチライトも大活躍し、土日は24時間体制、平日も深夜まで穴掘りの突貫工事は続いていた。

穴は自分の背丈どころか、ハシゴで降りていかないとその1番下の部分まで到達出来ないまでになっていた。

もう会社の仕事なんてどうでもよかった。

会社の飲み会も全部断った。

俺は穴掘りに夢中だった。

土曜日の朝、いつものように庭に行こうとしている俺に妻の恵子が言った。

「どうしてそんなに穴を掘っているの?」

俺は一生懸命思い出そうとした。

「ええと、なんだっけ?当初の目的はなんだっけ?」

俺は思い出した。

「そうだ、落ち込んでいたんだ。」

恵子に俺は飲み会で落ち込んで、穴があったら入りたいと思った最初のいきさつを説明した。

恵子は言った。

「ふーん。で、穴があったら入りたいという気持ちは解消されたの?」

「解消されたと思う。」

俺は答えた。

恵子は言った。

「それは良かった、おめでとう。」

俺はそれから庭に出て、異様に深い穴を見つめた。

この穴の存在意義はこれからあるんだろうか?

俺はもう完全に立ち直っている。

気づくと恵子が隣に立っていた。

恵子は言った。

「私昨日会社でミスして、上司に怒られて、みんなのまえで赤っ恥かいたの。これからこの穴に入って、落ち込んでくるわ。しばらく出てこないからそのつもりで。」

俺は喜んで言った。

「行ってらっしゃい。お気をつけて。」

(全2189文字)

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