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只者ではない王がいたらしい|松阪市文化財センターはにわ館

「見たことのない埴輪はにわがあった!」
今や大活躍な埴輪。片手を上げた決めポーズの姿や突っ立つ馬は、よく見かけるモーチーフでもありますね。
昨年末の三重旅で目にしたのは、たくさんの飾りがついた船の埴輪はにわでした。


そもそも埴輪はにわとは?

土偶どぐう埴輪はにわはどこが違うの?」
縄文時代の土偶を紹介している私がよく聞かれることの一つです。
共に同じ先史時代の「土で焼かれた人形ひとがた」ですが、似ているようでどこか違う「似て非なるもの」と言えるのかもしれません。
ここで土偶と比べながら埴輪の世界を見てみましょう。

▮作られた時代
「土偶」縄文時代の今から約12000年前~2400年前に作られました。

約12000年前の日本最古の2体の土偶
「ようこそ三重の土偶パラダイス」展から
斎宮歴史博物館

その後の弥生時代には、土の人形ひとがたは殆ど作られませんでした。

「埴輪」古墳時代 の3世紀後半~6世紀末、近畿地方を拠点としていたヤマト王権が各地へ進出した頃から、古墳と共に作られるようになりました。

▮発見される場所
「土偶」主に住居跡や貝塚が多く、稀に墓の跡から見つかることもあります。
「埴輪」古墳の上や周辺、その他に埴輪を作った工房と見られる場所から見つかることもあります。

廻りにある2重の茶色のものは全て埴輪
宝塚古墳の模型 / はにわ館

▮役割や持つ意味
「土偶」安産や豊穣祈願などの「祈りの道具」として、祭祀や儀式などで使われたと考えられています。
「埴輪」権力者の墓である古墳を守り死者に寄り添う道具であったとされ、同時に生前の功績を示す役目もあったようです。

兵隊が多いのは古墳を守るため / 東京国立博物館

▮形と大きさ
「土偶」人形ひとがただけが土偶と呼ばれ、その他の動物や植物などは「土製品」とされています。指先ほどの小さいものから、高さ45㎝の山形県の国宝「縄文の女神」までが確認されています。

右:国宝「縄文の女神」、中:国宝「合掌土偶」
左:国宝「中空土偶」 / 北海道博物館「特別展」

「埴輪」円筒形のものや、王や兵隊、動物、家や家具、楽器や船など、当時の生活にあった様々なものが見られます。数十㎝から、大きいものでは2mを超える円筒埴輪もあります。

椅子に座る王子と動物たち
橿原考古学研究所博物館

▮焼成方法
「土偶」薪の上やその周辺に置いて焼く方法「野焼き」で、焼成温度600℃~800℃。
「埴輪」初期は「野焼き」や、藁などで覆う「覆い焼き」。後半になると専用の道具を使い、斜面地を利用して作った「登り窯」で1000℃以上で焼かれるようになります。
高温で焼かれることで硬くや焼きしめられ、大量生産されるようになりました。それらは専用の埴輪工房で、分業制で作られていたと考えられています。

手前中央:蓋形きぬがさがた埴輪、左:円筒埴輪
橿原考古学研究所博物館

日本唯一の「船形ふねがた埴輪」

三重県松阪市で発見されたのは、全長140㎝、高さ90㎝の日本最大の船形埴輪です。
しかも船の上に豪華な装飾を載せています。これは全国で40数例ある「船形埴輪」の中で唯一この埴輪だけにある装飾です。

5世紀初頭 / 三重県 宝塚1号墳 / はにわ館

船に乗せているのは様々な「儀礼用の飾りもの」で、亡くなった死者の威厳を表すかのような豪華なものです。このことからも、死者は壮大な力を持っていた「王」であることが想像されています。

船は死後の世界へ行くためのものであった、または「王」が海運に携わっていたなどと、推測されています。

障壁:船の中の仕切り
威杖いじょう:儀礼に使用する杖
きぬがさ:日傘  / はにわ館パネル展示

表面には赤色の塗料(ベンガラ)が残っていることから、作られた当時は全体が赤色に塗られていたと考えられます。
赤色は神聖さや、邪悪を退けるなどの力があると考えられていました。
※ベンガラ︓鉱物由来の染料

宝塚たからづか古墳の謎

この埴輪が発見された「宝塚古墳」は約1600年前(5世紀初め)に作られました。
ここには2つの古墳がありそのうちの1号古墳は、まつりの場とされる*「つくし」を持つ前方後円墳ぜんぽうこうえんふんです。

※「つくし」は大型の前方後円墳ぜんぽうこうえんふんのごく一部に見られる、半円形や方形の平らな舞台のような場所です。

宝塚1号古墳 全長111m
手前の方形部分が「つくし」

一般的に「つくし」は古墳と直接繋がっていたとされますが、この「つくし」は、全国的にも例のない「土橋」によって古墳と繋がっていました。

つくし」周辺からは140点もの埴輪が当時のままの配置で見つかり、ここで「王をあの世に送る」儀式と考えられる大規模な「まつり」が行われていたことが推測されています。

つくし(再現)」に置かれた埴輪 / はにわ館

王の権力はどれほどのものだったのか

古墳は日本中(鹿児島県~岩手県)で16万基が確認されています。ヤマト王権の権力の象徴として作られ、大きい古墳の多くは王や各地の首長が葬られた「前方後円墳ぜんぽうこうえんふん」です。

日本最大の全長約486mの前方後円墳「大山古墳(仁徳陵にんとくりょう古墳)は、一日に最大2000人が働いても15年8か月もかかったとされています。

まさに権力の象徴と言える「古墳」ですが、同時に死者の生前の政治を正しいとし、次を受け継ぐ人物の正統性を示す儀式を行う重要な場所であったと推測されています。
さらに大きな土木工事は、集団で一つのことを成し遂げるという連帯意識を生んだと言われています。

6世紀後半に巨大な「前方後円墳ぜんぽうこうえんふん」が造られなくなり、それに伴って「埴輪」もその役目を終えました。

今尚多くの謎を秘めている「伊勢の王とその墓」。豪華な「埴輪」がその鍵を握っているのかもしれません。

参考資料
松阪市文化財センターはにわ館 リーフレット
愉しく学べる歴史図鑑はにわ ㈱スタジオ タック クリエイティブ

最後までお読みいただき有難うございました。


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