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ママの腕

平日の昼下がり、各駅電車の中でのこと、
まだ生後半年ほどの赤ちゃんを抱っこしたママと、2歳ぐらいの男の子が向かいのシートに座っていました。
男の子は手に電車のおもちゃを持って、「ママ、これね・・」と時々話しかけています。
日差しが差し込む車内はぽかぽかと温かく、
程なく男の子はお母さんにもたれかかって眠ってしまいました。

降りる駅が来たようです。
ママが男の子に優しく何回も声をかけますが、ぐっすりと寝たままです。
大変、早く起きないと!と、ヤキモキしながら見ていました。

するとママは、赤ちゃんを胸に抱いたまま、ひょいと片手で男の子を抱き上げ、電車のドアへと向かいそのまま降りていきました。
ホームの親子へ目をやると、男の子は片腕で抱きかかえられながらも、起きることなく眠っていました。

まだまだ、ママに甘えたい年頃の男の子、
お兄ちゃんになって、甘えるのをぐっとこらえていたのかもしれません。
もしかしたら頭の隅で、抱きかかえられているなあと思いながらも、その心地よさに身をまかせていたのかもしれません。

ママの力強さと愛情を感じるのはもちろん、安心して眠り続けている男の子を見て、なんとも幸せな気分になりました。

この幸せな光景でふと思いだしたのが、この縄文時代の「抱きかかえる姿の土偶」です。
実は展示室でこの土偶を初めて見たときから、「抱きかかえる」という作品名に少し違和感を感じていました。
土偶のポーズでよくある〝バンザイをしているように手を広げている〟だけなのでは?と思っていたのです。

じょーもぴあ宮畑蔵

ところが今日の親子の姿を見て、ママが男の子を抱きかかえる姿を映しだしているように思えてきたのです。
土偶は、何のために、何を想像して作ったのかはわかりませんが、その分見る人の心を映し出すものなのかもしれません。

この土偶も腕で子ども抱きかかえたのでしょうか。
電車のママのように、腕をめいいっぱい伸ばして、どこからか湧き上がってくる力で、子どもを抱きかかえる。
この姿が太古の昔からずっと繰り返されてきたのかもしれません。

縄文時代は平等で争いがなかったと言われていますが、今の私たちと同じ人間です。日常生活には、意見が合わなかったり、小さないざこざがあったりとした中で、どうにか折り合いをつけて、大きな争いに発展しなかったと思われます。

土偶ママにも、他のママの腕があって、お互い助け合って、理解しあって生きていたと思います。
だからこそ、一万年以上続いたと言われる縄文時代を、大きな変化もなく生き延びることができたのかもしれません。

この土偶はそうやって生きてきたことを、伝えてくれているような気がします。

私のママの腕は、亡き母が、私が疲れて椅子に座りこんでいる時、不自由な体で私の背中をそっと抱いてくれた腕です。
きっと私の母は、私の前ではずっとママの腕を持ち続けてくれていたのだと思います。

だれにでも必ず、一人ひとりに、ママの腕があると思います。
それは母親に限らず、父や祖父母であったり、友人や先生であったり、お医者さんや役所の人や近所の人であったり、看護師さんやヘルパーさんやお店の店員さんであったり、まったく初めて会うだれかであったり、会ったことのない遠くの人だったりするのかもしれません。
そして、それは力強かったり、か弱かったり、遠くからそっと差し伸ばされたり、歌であったり、アートであったりすることもあるかもしれません。

そんなママの腕が差し伸べられた時は、男の子のように安心して身を任せれば、日々の色んなことを乗り切っていける、とそう思えてきます。

そして私たち一人ひとりが、だれかのママの腕になれたら、もっとやさしい穏やかな社会になるのかもしれません。

きっと、あの男の子もまた、そんな誰かのママの腕になるような気がします。


最後まで読んでいただき有難うございました☆彡



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