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オブシディアン・ロードがもたらしたもの(3)  -中部高地の縄文時代-

約5000年前の縄文時代のお話。

中部高地から黒曜石と共に運ばれたもの、
土器や土偶…そして「物語」

土器で伝えられた物語

縄文時代の中期頃、その文化は次第に華やかになり、日本各地で豊か造形や様々な文様のある土器が多く作られるようになりました。

簡素な面を美しく飾るためにつけられた文様は「装飾性文様そうしょくせいもんよう」と呼ばれ、草の縄や木の棒、貝、鳥の羽の骨などを道具にして、押し付ける・転がす・傷付ける・さすなどの工夫で様々な文様が生まれました。
縄でつけられた文様・縄文じょうもん〟は縄文土器の名称にもなっていますね。

オブシディアン・ロードの往来が盛んであった中部高地、ここではそういった装飾を大きく飛び越え、単なる器面を飾るということとは異なった、特徴的な土器が盛んに作られました。
それを物語性文様ものがたりせいもんようと言います。
その1つが「顔」を表した造形です。


土器の面に「顔」が描かれた

土器につけられたその「顔」は、度々登場しているこの地域独特の表情。かわいらしい女性を表しているように思えます。

「顔」のついた土器は、一つの遺跡から一つだけ見つかることが多いことから、そのムラでたった一つだけ作られた〝特別な土器〟であったと考えられるようです。


初期の「顔」は土器の胴部に描かれ、
やがて把手の様に張り出し、
立体的に顔面が表されるようになったと言われています。


この「顔」はいったい?

「顔」が付いた土器を見ると、〝胴の膨らんだ〟器形の土器が多いことに気がつきます。
この膨らんだ形は〝妊娠した女性〟を表しているのでしょうか。
土器そのものを女神像として捉えていたとも考えられる造形です。

そして土器から張り出し顔の約8割は土器の内側を向いています。
〝妊娠している女性〟と考えると、膨らんだ形はお腹にいる生命、そのお腹を大切に見守っている様にも見えてきます。


他方で、土器が作物の擬人的な造形物であるという考え方もあります。
これは世界各地、また日本書紀や古事記にも見られる〝食物の女神が殺され、その死体の各所から作物が発生する〟という神話から連想されることです。

このような神話と土器が器であるということを考えると、作物を貯蔵したり煮炊きをするための材料が豊かであること、すなわち豊穣などの願いをこめたと考えられるのかもしれません。


この土器は上部にぐるりと穴が開いている有孔鍔付ゆうこうつばつき土器」と呼ばれるもので、酒造りの樽であったと考えられています。(他に上部に動物の皮を貼って〝太鼓〟にしたという説もあります)
縄文時代には山ぶどうなどを発酵させた酒があり、祭祀の時などに利用されたと考えられています。

不思議な「顔」は酒づくりや祭祀を見守っていたのでしょうか?


これは、祭祀の際に火を灯したと考えられている「釣手土器」に施された「顔」。
表は〝無の表情〟、鏡に映っている背面は〝ちょっと怒り顔〟と、表情の違う二つの「顔」が描かれています。


こういった様々な造形から色々な想像ができますが、いずれにしても土器の「顔」は、

彼らの願いや祈り、
それに付随する生活や祭祀のあり方を伝えるツール
の一つであったと考えられるようです。

文字を持たなかったといわれている縄文人たちが、彼らの信じる神話や物語などの登場人物の「顔」を土器に描くことで、他の地域へと、また次の世代へと物語を伝えていったのかもしれません。



〝伝えたいこと〟が描かれていた「顔」のついた土器は、オブシディアン・ロードを通して静岡県や神奈川県、東京都をはじめとする関東周辺にも伝わりました。

神奈川県厚木市から見つかった有孔鍔付ゆうこうつばつき土器」は、まるで森の精霊が貼りついているかのようです!
「物語」と共に酒造りも伝授され、楽しい宴が行われていたのかもしれませんね。


東京多摩ニュータウン「釣手土器」は、各所に施されたデザインにも何らかの意味がありそうです。
ここに火が灯された時…縄文人たちは目に見えない何者かに、畏怖の念を抱いたのかもしれません。

東京埋蔵文化財センター



「身体」の表現

土器の胴体に描かれた「物語」には、こんなユニークなバージョンも存在します。
まるで〝棒人形〟!

〝踊る縄文人〟とも言われる人体装飾付じんたいそうしょくつき土器」。
しなやかで躍動的な表現には、現在進行形の「物語」を感じます。

トップ画像はこの土器の展開写真、土器の廻りをぐるりと〝棒人間〟が踊っている様子です。


伝えたいことを「体の動き」で土器に託す。
あまりにもシンプルにデフォルメされたデザインに、縄文時代の芸術性の高さを感じずにはいられません。


ぐるりと土器を一周する、
彼らの物語が時系列に表されているのでしょうか?

大きくデフォルメされた縄文人?
それとも擬人化された何か…?
あの〝鳥獣戯画〟のように、漫画かアニメのルーツが見えてくるような…。


中部高地の中でもかなり斬新であったと思われるこの2つの土器は、山梨県の隣り合わせた地域の遺跡から出土しています。
ところが周辺地域では今のところ見つかってはいません。

なぜ、これらはオブシディアン・ロードを渡って行かなかったのか?
ここで生み出されたモノやコトは、分け隔てなく運ばれた訳ではなかったのかもしれません。
門外不出…縄文時代にもこの言葉はあったのでしょうか?


ところで、「物語」はなぜ土器に表されたのでしょうか?
もちろん紙がなかった時代ですが、土器でなくても木や土の板でもよかったのでは?

それはこの「物語」を伝える時が、〝土器を作る時、土器を使って煮炊きをする時、土器を使う祭祀の時〟であったからだと考えられています。
縄文時代のコミュニケーションアイテムとして、土器は欠かせないものであったのかもしれませんね。


次回へ続きます。


*参考資料
星降る中部高地の縄文世界 企画展冊子
*写真は表記のないものは山梨県立考古博物館にて


最後までお読みくださり有難うございました☆彡

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