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世界遺産になった縄文遺跡群を廻る旅 - 800年続いたムラ 御所野遺跡

昨秋から始めた北海道・北東北の縄文遺跡群を廻る旅、梅雨空の6月の半ば過ぎに、岩手県 御所野ごしょの遺跡を訪れました。

2021年7月に世界文化遺産に登録された北海道・北東北の縄文遺跡群は、北海道、青森県、岩手県、秋田県の17の縄文遺跡からなります。

御所野ごしょの遺跡は縄文時代中期(今から約5000年前)に、岩手県の北端、あと少しで青森県という一戸いちのへ町の台地にあった東西500m、南北150mの細長いムラで、その営みは約800年続きました。
現在は博物館も備える御所野ごしょの縄文公園として、「北の縄文遺跡群」の南の玄関口となっています。

東京から東北新幹線で2時間40分、二戸にのへ駅へ降り立ちます。そこから路線バスで遺跡の最寄り駅である一戸いちのへ駅を経由して、25分ほどで到着です。

丘の上にある御所野ごしょの縄文公園の入口はこんなにユニーク!

この建物は、縄文の世界へと導く〝タイムトンネル〟「きききのつりはし」。谷を渡る屋根付きの木の橋は、きれいなカーブを描きながらの80m以上続きます。

「きききのつりはし」の名前の由来は、木材としての「」、奇抜の「」、渡る喜びとしての「」など、橋を渡る見学者が自由にそれぞれの「き」をイメージできるように名付けられたそうです。

終点の向うには、縄文の世界が広がっています。
そしてこんな看板が。

ここでは再現された竪穴住居を本来の縄文時代の姿に保つように、定期的に竪穴住居の炉で「火燃やし」をしています。
炉に火を入れることで、竪穴住居の湿度は下がり、虫がついたりクモやカビの発生を食い止める「くんじょう」効果も得られます。

それでは縄文の世界へと参りましょう。

遺跡に足を踏み入れると‥
まるで草原のような光景が広がっています。

ここは縄文時代からこのような草原でした。
よくある縄文集落のイメージにある森の中のムラではなく、短い草が生い茂る「草原にあるムラ」であったことが、土壌の調査から分かっています。

東西に長い遺跡の東にある、再現された「東ムラ」の竪穴住居が見えています。
この御所野ごしょの遺跡全体では、800棟を超える竪穴住居跡が見つかっています。

近づいて見ると、竪穴住居の屋根には土が乗り、その上には草が生い茂っています。
縄文時代の竪穴住居の屋根は「茅葺」と考えられきましたが、この遺跡の調査・研究では、ここの竪穴住居の屋根が「土葺き」であったことが分かりました。竪穴を掘った時に出る土を屋根に乗せていたのです。

中へ入ると、先ほどの看板にあったように火が炊かれた後で、煙りの匂いが充満しています。

ここは大型の竪穴住居で、入口を入るとすぐ炉があり、奥の左側には祭祀に使われたと思われる石棒や土器類が置かれていました。さらに日常で使う土器や道具、焼かれたクリやクルミ、トチノミなどが多数見つかっています。

これらが竪穴住居に備えられた後‥火が放たれました。
竪穴住居を丸ごと燃やすのは「何らかの儀礼」で、住居に供えられていたものは「あの世で必要なもの」であったと考えられるようです。

遺跡の中心には環状列石かんじょうれっせきがあります。

環状列石かんじょうれっせきはストーンサークルとも呼ばれ、石を一定の形に並べ、それを大きな環状にいくつも配置したものです。その下や周辺には〝墓〟であると思われる沢山の穴があります。
様々な種類や形の石を並べたことには、「墓石のような役割」もあったようです。

そのすぐ脇には掘立柱ほったてばしら建物があり、「亡くなった人をしばらく安置するための場所」であったと考えられています。

この環状列石かんじょうれっせきの景色は、800年間続いたこのムラの一番新しい姿。
御所野ごしょのムラは時と共に、その形と役割が変化していきました。

ムラの始まりは、台地にできた「いくつかの集落」、
やがて中心に墓や広場、その周りに竪穴住居が配置され、「墓と祭祀を中心としたムラ」へと変化します。
その後、「住居が徐々に周囲に分散」され、
最終的には、ここは「祭祀の場」となり、
マツリの時だけ周辺の集落から人々が集まって来た、と考えられています。

このような移り変りは、南から北からと流入した文化の影響によると考えられるようです。
縄文時代にもその時々の生活のトレンドがあったのですね。

次は遺跡から出土した遺物を見るために博物館へ。

遺物の展示はもちろん、大きな吹き抜けの空間には竪穴住居のシアターが!迫力ある映像と音響で、暫し神秘的な世界へ。
この空間をぐるりと螺旋状の坂を上りながら2階の展示室へ向かいます。

膨大な展示品の中で、異彩をはなっていたのは
「羽付き縄文人」
土器の表面に、粘土で丸い顔を貼り付け、そこに小さな穴で表された目鼻口。頭には2本の羽飾りの様なものを付けているようです。
祭祀などで「羽を付けて舞った縄文人」を描いたのでしょうか?

この遺跡から出土した土偶は僅か15体.。
その中でこの土偶は、土器や土偶を作るための「粘土を採掘した」場所から土器と共に出土しました。粘土の採掘に関係する「何かしらの儀礼」のための土偶であったと考えられています。
それにしても見たことのない形に、土偶の造形の奥深さを感じます。

今から約5000年前から約800年間続いたムラは、その形を変えながら存続していました。
一番新しい「環状列石」の景色は、同時にムラの最後の姿でもあり、その後「今から約4200年前にムラは消滅」しました。その理由はわかっていません。

御所野ごしょの遺跡では、縄文社会の新しい風景が見えてきます。
それを証明したのは、想定復元した縄文時代の道具で家を作り、それを燃やす実験をするなど、数々の地道な実験や調査がここで行われていることにあります。

再び「きききのつりはし」を渡って現実世界へと戻ります。
行きには気がつかなかったこの子たち、お見送りをしてくれているようですね。

次に訪れる時には、
どんな新しい縄文の世界を見せてくれるのでしょうか。

◆参考資料
縄文ムラの原風景 御所野縄文博物館(編)
世界遺産になった縄文遺跡 岡田康博(編) 

最後までお読みいただき有難うございました。

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