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100年後の東京人も感動する作品は?

ぼくが目指している作品は、人に忘れられない、何十年も心のなかに残るもの。100年後を生きるぼくの孫が20歳になったときに、そっと手にとって、いまの悩みがどうでもよくなるような喜びを秘めているもの。

本や映像をうみだす価値とはなにか。コンテンツは一種のコミュニケーションである。作り手が日常生活や過去の経験において感じた大切なメッセージが、意識的にも、無意識的にも、作品には込められている。それは登場人物のセリフや街の映し方、1シーンの時間、映像のエフェクトにもあらわれる。受け手はそれらを敏感に感じることが求められるんだ。受け手は受け手ではいけない。地面にベッタリ座ってボーッと情報を受け取っていては、作り手の汗も覚悟も血も体液も想いも感じとることなんてできないんだ。

受け手は作品にぶつかるべきだ。作り手とおなじ土俵に立って、彼らになりきり、彼らの立場にたってものを考え、彼らの幼少期を想像して、物語をかっくらうべきなんだ。

そのような体当たりのコミュニケーションが作品の醍醐味である。しかし、それはリアルのコミュニケーションで十分ではないのか? もちろん、同じ場所で同じ時間をすごす友と議論を繰り広げることはとても有意義なことだ。カフェであったりバーであったり、みんなグラスを空にしても店に居座り続けるのは、人との血の通ったコミュニケーションができるからだ。それらを終えたとき、新しい自分になることに喜びを覚えるからだ。

しかし、対面のコミュニケーションには大きな問題点がひとつある。けっして時空を超えられないということ。昨日の友達と会話はできないし、2週間後の恋人に愛のメッセージを伝えられない。これはコミュニケーションにおける当然のことではあるけれど、大きな損失である。ぼくらはそれを当たり前のように受け入れたきたし、なんの疑問も抱かずに、損失を抱きしめてきた。

けれども、作品はその壁を超えられるんだ。1000年後の東京人にいまの思想を伝えらえる。彼らが「こんなに素晴らしい思想が1000年前の日本で生まれていたなんて! 一刻も早く伝えなければ!!」なんて思ってくれたら、本望である。彼らの価値観がかわって、まわりの両親や友人や仕事仲間につたえて、それが時代を動かすひとつのきっかけになってくれたら、ぼくと1000年後の彼とで、すばらしいコミュニケーションが成立したという一つの証になるんだ。その可能性を作品は秘めているのだ。

しかし悲しいことかな、作品は時代の波に飲まれてしまう。あなたは10年前に読んだ記事をなにか思いだせるだろうか? 3年前に買ったあの本はいまだに本屋に平積みされているだろうか? そう、時代が変わって、人々の価値観も最先端のデジタルツールもSNSも変われば、求められるコンテンツも変化する。3年前に人気だった一発ギャグをいま披露すれば「まだやってんの?」と白い目でみられることになる。なんて悲しい世の中なんだろうか、作り手が何年もかけてつくりあげた「子ども」とも呼ぶべき作品はが1週間ともたないこともあるんだ。

でも、忘れられない作品は存在する。何百年という時代の荒波も、人の変化も乗り越えて、いまのぼくらが手にできる作品というのは幾つか存在するんだ。では、忘れる作品と、忘れられない作品の違いはなんなのか?

それは、「無視できない情動」を秘めているかどうかだ。ただうまい作品、きれいな作品、丁寧につくりこまれた作品は、時代の波に容易に流されてしまう。それらには人々を脅かす怖さや気持ち悪さ、美しさがないからだ。作り手の気迫や切実さ、生き血が感じられないからだ。強い息を吐けば吹き飛んでしまいそうな存在感しかない作品を、だれが覚えていようか? 作品を残そうという強い意志がなければ、忘れ去られてしまうことなんて、当然ではないか? そんな大切なこともわからないのか?

作品をつくるときは、うまくつくろうなんてしてはいけない。情報を伝えるだけではいけない。きれいじゃなくてもいい。あなたの感情を、気迫を、切実さを伝えるべきなんだ。


#エッセイ #コラム #作品

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