マンションの罹災時の備え(1)
2011(平成23)年 3月11日午後2時46分・・・三陸沖の太平洋を震源とするマグニチュード9.0で最大震度7の巨大地震が発生しました。
東日本各地での大きな揺れ・大津波・火災などにより、東北地方を中心に12都道府県で18,425人の死者・行方不明者が発生しました。
スマートフォンを使ったSNSが普及していたことから・・・街を津波が破壊し尽くす様子が配信され、または福島原子力発電所でメルトダウンが発生したことが世界中に大きな衝撃を与えました。
震災が発生してから11年経った今でも復興は続いています。この時の教訓は、忘れてはならないことだと思います。
ということで、今回のシリーズは・・・罹災に備えて、マンション住民(またはマンション管理組合)が準備しておくべきことをお話したいと思います。でも、その前に・・・
阪神淡路大震災の経験談
私は神戸出身の京都育ちで、今から27年前(「東日本大震災」の16年前)に発生した「阪神淡路大震災」の記憶が頭に残っています。
当時の私は、京都府でも比較的大阪府寄りの「向日市」という所に住んでいました。
「向日市」は、(律令政治の建て直しを託された桓武天皇が腐敗した)奈良の「平城京」を廃都(784年)して、最初に遷都して失敗した「長岡京」(794年に廃都)があった地域です。(その後に遷都されたのは・・・もちろん!鳴くよウグイス「平安京」です)
震災当日の記憶
「阪神淡路大震災」は、1995(平成7)年1月17日の午前5時46分に発生しました。(虫の知らせがあったのか?)何となく眠りから覚めていた私は・・・ゴゴゴという音と共に布団から飛び起き、タンスの下敷きにならないように寝室のタンスを立って支えていました。
気象庁のデータでは地震で揺れた時間は15秒らしいのですが、随分長く感じましたね。(最初の方より後半の方が揺れが激しかったな・・・)
地震発生直後のニュースでは地震の被害情報が乏しく・・・朝のテレビ番組では、神戸が震源地らしいが詳しいニュースが届いていないことと、神戸市付近の高台に住む放送局の社員が(電話回線を使って)「神戸の街の2~3カ所から火災のような光が見える」といったレポートがあった程度でした。(今みたいにSNSどころかインターネットも黎明期の時代だったし・・・)
その日の私は、大阪市に直行出張の予定だったので、朝7時過ぎから京阪電車のホームで電車を待っていたのですが・・・構内では「変電所でトラブルがあり一部運行停止中」とアナウンスがありました。
特急電車以外は、出町柳駅と樟葉(くずは)駅間でピストン運転して動いていたけれど・・・大阪へ直行する特急電車だけは止まっていました。
先方の会社の始業時間なったので、遅刻する旨の連絡を入れて電話は繋がらず・・・仕方ないので会社に出勤しました。
そして会社でテレビを観ると・・・橋げたが折れて倒れたりドミノ倒しのように破壊された阪神高速や、三ノ宮駅前のビルが傾いて隣のビルに当たっている映像が流れて衝撃を受けました。(地震で傾いたビルは、親戚のおじさん所有のビルだったので衝撃も倍増でしたね)
そして神戸の市街地は、消防車が到着できず・・・消火用水が確保できず・・・長田地区を中心に火の海に包まれていました。
バイクで罹災地往復
私は、こんな大規模な罹災を経験したことがなく・・・とても戸惑いました。地震が発生した週の土曜日にバイクにカセットコンロ等を積み込んで、神戸まで届けました。(カセットコンロやガスボンベは、暖かい食べ物が不足していた罹災地で・・・とても喜ばれました)
バイクは積載量こそ少ないのですが、機動性があり渋滞で動かない自動車を尻目に日帰りで京都と神戸間を何回か往復できました。
そんな感じで(ホントできる範囲でしたが・・・)私も自分なりに支援活動を行ってました。
ボランティア元年
日本全国から・・・阪神淡路大震災直後の1年間に138万人のボランティアが罹災地を訪れ、支援物資のデリバリー・安否確認・避難所運営・(仮設住宅等への)引っ越し・高齢者や障害者のケア等のサポートを行いました。
それまであった「ボランティア活動」は、「勤労奉仕的で、強制力があり自己犠牲を強いられる(やらないと仕方ない)活動」的なイメージが強かったのですが、この時は「自発的に(居ても経ってもいられず)活動に参加」言わば「共助」的な観点からの活動でした。
そして・・・このような「共助」的なボランティア活動が行われた1995年は「ボランティア元年」と言われるようになりました。
また、震災を契機に民間の非営利団体による社会貢献が活発になったことがきっかけとなり、法制化の動きが一気に進んで1998年に特定非営利活動促進法(NPO法)が生まれました。 (つづく)
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