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「お客様」でも「神様」でもなく1対1の対等な関係で

営業をするうえでお客のニーズを察知し,できる限りのギブを与えていくことは「商品やサービスを売る」うえで大切な原則です。

お客の潜在的なニーズを察知してニーズに見合ったギブを提供できれば,モノやサービスはたちまち売れますし,良いサービスだと知られればSNSでも拡散されやすいと思います。

お客のニーズを満たす必要があるのは当然です。お客がいなければ商売は成り立ちません。

そのことを踏まえて,いまだに「お客様は神様だ」ということを明言する顧客もいますし明言しなくても「神様」として上から売り主に接する顧客もいます。経営者のなかにも「お客様は神様」という理念を持っている方もまだまだいるのではないでしょうか。

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ですが,お客は「神様」でもなければ「お客様」でもないと私は思います。確かに,お客のニーズを満たすことは大切ですが,そのことと「客をあがめたり敬ったりする必要があるか否か」は別問題ではないでしょうか。

そもそもお客が商品やサービスを買うのは「それがニーズを満たすから」であって,お店がお客を「様」「神様」としてあがめ奉るからではないはずです。

私は「お客様は神様」という表現にも「お客『様』」という表現にも違和感を覚えます。

まず,法律的には「買う側」と「売る側」は完全に対等です。ごく一部のサービス(例えば医療)をのぞいて,「買う側」がサービスを選べるのと同じく「売る側」もまた「買う者」を選べるのです(契約自由の原則)。

また,契約をするまでの間は「買う側」にも「売る側」にも何の義務も生じません。契約前に「買う側」が「売る側」に強く「これをこうしろ」と要求する権利はないのです。

さらに,契約成立後も「買う側」と「売る側」は対等です。確かに,モノやサービスを「買った側」は「売った側」に対して,契約どおりのモノやサービスを要求する権利があります。しかし,要求できるのは契約した内容に限ります。それ以上の無制限な要求を「買う側」が行う権利はありません。

一般にモノやサービスが流通する市場でなされている契約は「双務契約」と呼びます。お互い(双)が対等に「義務」(務)を負う関係なのです。

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買う側と売る側が完全に対等であるにも関わらず,「お客様は神様」という表現が浸透し「神様」ではないにしても顧客を「お客様」と呼ぶ文化が出来上がってしまいました。

しかし,そのような文化が悪質なクレーマーや売り手に対して過度な要求をする「お客様」の発生を助長している側面があるように思います。

平田はる香さんの「来ないでください。」というnoteをお読みになった方はいると思います。そこには,パンの販売に関する「お客様」の態度として,

パンは足りなくなるので、お盆やGWの時みたいに朝から個数制限して営業しております。そうすると、お客様の中に怒る人が出てきます。わざわざ来てやったのに買えないってどういうことか!って。

という事実が記載されていました。

「わざわざ来てやった」という上から目線の態度。売り手の事情に配慮しないで「どういうことか!」と怒る「お客様」たち。ここまでnoteに書くからには,おそらくこういう「お客様」はかなりの数いたのではないでしょうか。

そもそも,前述のとおり,契約前には,売り主と買い主には何の義務も発生していないのです。権利義務関係のないところで怒る「お客様」が増長すると「売り手」が疲弊し,よいサービスを提供するうえでの妨げになるような気がしてなりません。

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「お客様は神様」という言葉は昭和時代に生まれ,広まっていきました(もともとの意味は客をあがめ奉るという意味ではなかったようですが,広まる過程でそういうニュアンスが言葉に付与されていったのだと思われます。)。

ですが,昭和は終わり,平成も終わろうとしています。
平成最後の夏に,あらためて「お客」とは何なのか,「神様」なのか,そもそも「様」をつける必要があるのかを考えてみてもいいと思います。

私は,買い手も売り手も対等であり,どちらにも「様」がつかない関係性が,未来の健全な市場を作っていくように思っています。

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