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つけめんヒストリ エピソード 11


光男中野へ入店


光男は中野大勝軒での仕事を始めてから1年あまりで7キロ痩せた。

「あれ、えーっとお客さん何を召し上がりましたか」
「ああ肉入りつけそば」
「あっ、すみません、そうでしたね、肉入り400円です、毎度有り難うございます」

会計を済ませると直ぐに丼を片付け、次の客を案内した。
店長の横山は、手際よく竹柄そば揚げでラーメンを作り終えて光男に客席番号を指示して運ばせた。

「チャーシューメン1番、ラーメン3番お待ち!」
「お客さま、お待たせしました!」
「そば揚がった」
「はいー」

釜に残ったそばは竹ザルですくい揚げられて、シンクの桶に置かれた。
光男はこの茹で揚がったそばを水道水で洗うが、いきなり手をザルに突っ込むと火傷をするので、手に冷水を受けながら少しづつ攪拌する。
そばの表面に溶け出した澱粉、かん水の滑りを充分によく洗い流し、そばのコシを指で確認した。
しっかりと茹でられたそばは、芯の残るアルデンテでもちもちしている。
このそばを皿に盛り付けた。

「あれ、大盛りはいくつでした?」
「大盛り3、並2、一番2!」

横山は手を休めず、つけそば用の小鉢にスープを注ぎ入れていく。
そば皿とセットにして光男に席の番号を指示した。

「6番スペシャル大盛!2番肉入り並!」

光男は言われるまま待ち客に運んだ。

「はい、スペシャル大盛りお待たせしました!」

着席した客に一通りの品を出し終えてから、シンクの中に丼が溜まっているので洗浄することになる。
横山は立て続けにカウンター席を飛び越えてホール側で待つ客、10人ほどのオーダーを順番に聞いていった。
そしてオーダーされた分の生のそばを、沸騰した釜に投げ入れ、丼を調理台に並べた。
あらかじめ短冊に切っておいた焼豚、メンマを丼に入れ、さらに酢、一味唐辛子、砂糖、味の素、海苔を入れ、かえしの醤油タレを入れていく。
先ほどのカウンター席の客は食べ終えて勘定をすることになったが、後ろ向きで皿洗いをしている最中に光男は客のオーダーを忘れてしまっていた。
作業しやすいことで同じ丼と皿で数種のメニューを提供するため、客が何を注文したのか知る手立てがない。
客はひっきりなしに店内に入ってきて待ち客が並んでいる。

「いらっしゃい、毎度ぉ」
「いらっしゃいませっー少々お待ちください」
「ご馳走様ぁ」
「有り難うございましたぁ」

洗い物途中の濡れた手を拭きながら勘定をしようとしたら、他の客からそば湯の催促をされた。


そば湯、割りスープ


「すみませんそば湯ください」
「はいーただいまー」
「こっちもそば湯」
「はいー」

客から声を掛けられて、光男は大型の柄杓を手にすると寸胴から少量のスープを掬いカウンターにいる客の丼に注ぎ入れた。
浮いているラードをかき分けて、掬った清湯スープは澄んでいる。
濃いめに調整されたつけ汁にこの熱いスープを入れることで、冷めたスープがまた熱く蘇る。
柄杓は珍しいトタンでできていた。
持つ手がズシリと重く感じる。
その後時代を経て、柄杓素材はアルマイトやステンレスなどに変化していく事になる。

この店に来て初めて経験したのは、そば湯と称して客がつけそばの麺を食べ終わる頃にアツアツのスープを直接寸胴からスープを柄杓で掬い、食べかけの客の丼に注ぎ入れるというサービスだった。
店の側からすると、とても気を遣うし大変なサービスだった。
おそらく日本で最初の珍しいサービスではないだろうか。
スープは沸騰しているので、手元を間違えると客に怪我を負わせてしまう可能性もある。
余計にスープの仕込み量も相当量増えるので、あまりやりたくはないサービスなのだ。
カウンターだけの客席で、厨房の境に目隠しとなる置き台が無いが故の芸当だった。

山岸一雄が独立してから、山本功が店長を受け継いでこのサービスを始めたらしい。
職人気質で客と馴染みやすい山本の粋なサービスであった。
後に東池袋の山岸一雄から聞くと、中野でやっているカウンター越しのサービスを欲している客なんだろうか、そば湯をくれという客がいて困る旨の話をしていた。
東池袋大勝軒ではこのようなそば湯のサービスはしておらず、カウンターと厨房は仕切られていて柄杓でスープをサービスするようなことはできない。
テーブル席もあることだしサービスするとすれば、カンテラやポットに入れて丼に注ぎ入れることしかできない。
当時代々木上原大勝軒は全てテーブル席なので、熱いスープの入ったカンテラを用意して客が食べ終わる頃を見計らってサービスしていた。
かつての日本蕎麦屋の、そば湯中華版といったところだろう。
客の方はいつそば湯を頼むのがいいのかわからない。
常連は慣れたもので、欲しい時に言えば良いのが分かっている。
割りスープという言葉が使われるのは後になってからで、カウンターにポットを置いてセルフサービスにする方法はごく最近のことだ。


横山の神業


「そば湯ちょうだい」

光男の頭はパニックになっていた。
横山から声がかかった。

「そのお客さん竹の子並みね」
「はい、竹の子入りは380円ですね」

回転をよくするためのシステムは、十数人の待ち客のオーダーを全て頭に叩き込むことだった。
客が注文したメニューを顔と連動させて頭に叩き込み、着席した客に間違いなく品物を提供して、顔の残像を維持したまま食べ終わった客に勘定を告げる。
客が帰るまでの間調理しながら集中して、顔のイメージを頭に焼き付けておかねばならない。
券売機などは無く、食後に全て手渡しの現金でやりとりしていた。
客の顔がオーダーであり、伝票になっていた。
店長の横山はというと、その時すでにこの道12年のベテランで、釜に入れる生そばの量を判断しながら店を回して、この神業とも言える仕事を完璧にやってのけていた。


心技体とも充実した仕事ぶりで、来店した客を見るやいなや「どうもぉー、まいどー」と言って、その客が注文すると分かっているメニューを作り始めるのだった。
入店して光男を驚かせたのは、客がオーダーを言わないことだった。
「なににしますか」と声をかけても黙ったまま雑誌を広げていた。
「・・・・・・」
居心地悪そうに誰かを探すような素振りをする常連客が何人かいた。
席に着くとキョロキョロと店長の横山を探す。
常連客は席に着くと、黙っていても御品が出てくる約束事になっていたのである。
「なぜなんだろ」光男はそんな客の気持ちはわからなかった。
お前のような新米は注文も取れないということなのだろう。
10席あるカウンターの半数の客が黙って座ることもあった。
メニューも少ないので何回か通えば客も注文をあえて言う必要はなくなる。
客といえば近所に住んでいるか、近くの職場にいるかのどちらかで、商圏がそれほど大きくはない。
今でこそ食べ歩きは普通の行動だが、当時そのような店の情報の発信はない。
常連客が知り合いを連れてきたり、新規の客が噂を聞いて食べに来る営業だった。
そんな毎日が続いて、光男は街を歩く時は人の顔を避けるようになる。
見覚えのある人に出くわすと、その人がいつも食べるメニューを頭に呼び起こしてしまっていた。
気軽に挨拶などできるわけもない。
精神的にも肉体的にもきつい仕事で、光男は完全に自信を失って自律神経を崩したのだった。
夜はうなされて客の顔が夢に現れて、大声でオーダーを叫んで目が覚めることがあった。
入店してから煙草を吸う習慣がなくなった。


朝の仕込み




朝の仕込みは豚、鶏ガラスープの着火から始まった。このスープは寸胴に浮いたアクを丁寧に取りながら火力調節して、薬味の野菜類を投入した3時間後に出来上がる。
別の鍋では厚削りの鯖、鰹の魚介だしを抽出して、この和風だしを動物系スープに流し込んで基本のスープが完成する。
これと並行して、別のコンロで焼豚作りとメンマの味付けをする。
焼き豚は8キロほどある豚腿肉を捌いたブロックを多量の生醤油で煮る。
かえしはこの焼豚を生醤油で煮ただけのシンプルなもので、このタレでラーメンを作った。
つけそばのスープはこれに砂糖、酢、味の素を加えていたのである。
手間を短縮し、忙しさに対応するのと味の向上のために数年後、かえしのつくりかたを変える。
かえし醤油には砂糖、味醂等調味料と人参、玉葱の野菜類を入れ煮込んで改良させる方法をとるようになる。


昭和50年当時、焼豚は醤油でモモ肉を煮るだけだった


加熱した醤油とメンマ臭、魚介だし、それらの匂いが混然となって狭い店内に充満し、高温で汗をかいた身体に染み付いていく。
光男の母光枝は以前、仕事中に近所のスーパーに買い物に行った折に、店内にいた子供達とすれ違い「あれ、今ラーメンの匂いがした」と言われたという。
光枝はそんなエピソードを笑いながら語る気さくな母親だった。
一通りの朝の仕込みには慣れた光男だったが、客足の絶えない1日を思うと憂鬱な気持ちになった。
横山は勝手口にある一畳分の広さの製麺室でそばを打っていて、ラジオの身の上相談を熱心に聞いている。
中学卒業後1年ほど名古屋市で左官として働いていた後、昭和40年に入店した横山は代々木上原店の3階屋根裏に住み込みで修行していた。
同じ屋根の下の2階では光男家族が暮らしていたのである。
ある日横山は夜中トイレに行く際に、寝ぼけて屋根裏用の梯子を踏み外し、そのまま階下へ転落した。
しかし元来身体が頑丈であったため、2階の床が壊れる事態になっていた。彼が出前を担当していた時に、配達先の英語塾講師の客から生徒の紹介を頼まれ、当時中学生の光男を紹介したいきさつがあった。
製麺を終えた横山は作りたての賄い用そばを二人分麺釜に入れた。

「さてと、そばを頂くとしよう、スープはうまくできたかな?」

横山はレンゲで少量のスープをすくうと口に入れた。

「いいね、だしとれてる。昆布の風味は流石にちょっと弱いけど仕方ないね」
「ええ、スープはまあまあの出来です、でもちょっとメンマの味見てもらえます?」


味付け前のメンマ



同じ食材でも毎日微妙に変わるスープとそばの絡み具合、焼豚、メンマの味を毎朝の賄いで確認する。

修行の日々



賄いを食べながら横山は光男に話しかけた。

「ところで具合どうだい、少しは良くなった?あまり思い詰めないで気楽に考えて、それからこのラーメンばかりじゃ栄養は付かないから仕事終わった後にしっかり食べた方がいい」
「あ、そうですね、気を使うようにはしてるけど」
「もう少し体力つけなきゃダメだ。その身体じゃこの先もたない。んーそうだ五叉路にあるボディビルセンター行ってみたらいいんじゃないかな、コーチも常連客だし顔見知りも多い」
「えっ、ボディビル?」
「ああ、場所も近いし、休みの日にでも行ってきたらどうだ、何かやったほうがいい」

クタクタの毎日で、休みの日ぐらい何もしたくはないと思ってはみたものの、がっしりとした体躯で、ボクサーのような横山にそう言われると妙に納得せざるを得ない。
飲食店で二人だけで働くのは余程の信頼関係がないと営業はできない。
たとえ親と子、夫婦であっても一人がストレスを抱え体調が悪くなれば、その負担は全て相方にかかる。
普段からお互いがパートナーのために、全ての仕事を自分がやるような気構えでないと店は崩壊してしまう。
横山の負担は大きかった。
この先自分が独立することを視野に、光男のモチベーションが下がってしまうのを心配していた。
昭和27年中野橋場町の店が開店したての頃、過酷な仕事を克服するため一雄はどこからかバーベルを手に入れ、体力をつけようとしたらしい。
しかし光男の父正安は凝り性の一雄の性格をよく知っていて、そんな身体を鍛えて怪我でもされると困ると思ったのか、理由は定かでないがバーベルを近くの空き地に埋めてしまったという。
そんな当時の話を一雄は笑いながら語っていた。
一雄が18歳の時だった。

ある程度の腕力がなければラーメン屋は務まらない。
30kgはある重さの寸胴をコンロの火に掛け、18kgの醤油缶や25キロの小麦粉袋を常時持ち上げて作業する。
気を張って仕事しないと腰を痛め、怪我をすることになってしまう。
光男は自身の筋力を鍛えることが肝心であると痛感していた。
小学校低学年の頃、土曜の昼ともなると中華そばとオムライスを定番に食する肥満児だったが、中学校入学時には背が伸びて体型は普通になった。
しかし厳しいバスケットの部活を退部して以来、スポーツに関しては落ちこぼれ意識があり、どちらかというと体育会系ではなく趣味でスキーやスキンダイビングをするような学生時代だった。
特定のスポーツに打ち込み、鍛錬して身体を鍛えた経験はなかったのである。

体力に関してはさらに不安な外的要因が待ち受けていた。
それは夏だった。
労働量が倍になり、基礎体力がなければバテてしまうのである。
夏は狭い厨房がコンロ熱でサウナ状態になる。特に茹麺器は茹でるそばの量が多量であるため、25000kcal常時全開の状態で、体温上昇が甚だしい。多量の汗をかいてしまうため、脱水状態にならないよう水分補給を多くとるが、身体の動きは鈍くなり、意識は朦朧としてくるのだった。
熱は厨房からカウンターを越してホールのエアコンも効かずお客さんも発汗してしまい、シャツが肌にくっついているのがみてとれる。

光男は意識が朦朧とするなかで、落ち度のないよう次にやる動作を考えイメージしながら働いていると、自然に呼吸に意識がいくようになった。
大きく息を吸い、吐く息を長くすると脳に酸素が回っていくのか、少し頭が冴えてくるのだった。不思議に呼吸を意識しながら仕事をすると、集中できるようになる。客からはスキがなく感じるのだろうか、あまり声をかけられることもなくなっていた。
店の引き戸が開いて一歩中に入った時点でどんな客なのか瞬時に判断する。
手を休めず仕事の流れを止めないで目で確認し注文とその客のイメージを重ね心に留める。
顔を脳裏に焼き付けるが、個性のない客は覚えにくい。
ダークスーツを着て眼鏡をかけた会社員が3、4人で来店すると見分けができなくなる。
年配の客でもカジュアルで明るい服を着た客はすぐ頭で捉えることができる。
恰幅良くパワーがあり、声もでかいような客は一度で覚えられる。
線の細い目立たない年配の客と、後から来店した恰幅良い客が隣り合わせになると、無意識に体格のいい客に引き寄せられ先に品物を出してしまうことがあった。


つけ麺誕生の背景


つけそばが誕生した背景にも夏の暑さが大きく関わる。
お品書きとして登場した昭和30年の夏にエアコンなどあるわけもなく、厨房内は高温で、入り口戸、窓は開け放し、暑いままの作業をしなければならない環境だった。
従業員の休憩時間も決まり事としてあるわけでない。食事をゆっくりとる習慣など店員にはなく、お腹が空いたら食事し、また直ぐ仕事に取り掛かる。
そんな環境の中賄いで熱々の中華そばを食べていたのでは時間もかかり、何よりも余計に汗が噴出し、嫌気がさしてしまう。
冷やし中華は、タレを冷やすのにタライ桶の中に鍋を浸して水を流し続け、半日待たねばならない。
手早く、少しでも涼夏を感じて食べる方法はないものだろうか?そんな毎日が続いて、つけそばの賄いが誕生した。
食傷した中華そばを工夫してできたものなのである
熱い中華そばのスープを小鉢にとり、醤油味を濃くして酢と砂糖、唐辛子、刻み葱を加え、水道水で冷やしたそばを付けてかき込んだのだった。


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