『ナイトメア・アリー』


☆スタン煙草吸いすぎじゃない?
  作中で喋ってる時間よりも喫煙してる時間の方が長いんじゃないかという主人公スタン。彼は幼い頃に母と疎遠になり、酒浸りの暴力父と二人で暮らしていたようです。スタンが煙草を吸いまくるのは母性に飢えてるからです(つまり乳首です)。
  ピアノ弾きの男に妻をNTRされた弱い父。自分よりもさらに弱い息子のスタンにしか強さを示せない、しかも暴力で。そんな父を憎み、殺し、力関係をはっきりさせたその証として、スタンは父親の腕時計を身につけるのです。それでも煙草はやめられない。全部ニコチンが悪いです。

☆お酒ぜったい飲まない!!
  お酒を絶対飲まないと断言するスタン。健康診断が明日に控えてるからではありません。リリスにも指摘されてましたが、お酒を飲む、という行為は弱い父親を想起させるからです。自分はあんな弱い人間にはならない、という強い意志を持って断酒しているのです。結局、中盤でウイスキーを飲んでしまうのですが、彼の中で弱さを超えた自覚があったのかもしれません(この辺少しウトウトしました)。うさぎ(=復活?)を拾い上げて、かつてのサーカス仲間に御馳走を振る舞うのもこの辺だったか。

☆おとぎ話なのに時代は戦時中?
  全編通してどこかお伽話風で時代設定がわからないようなこの作品ですが、1941年ごろ(大戦時)が舞台だと明確に示されています。この作品には、戦争という"強きが弱きを挫く構図"が根差しています。強い者、力を持つ者が欲しいものを手に入れることができる。スタンがお金稼ぎに躍起になるのは、強い力を欲している、また、それを証明する必要があるからです。「俺はお金持ちだぞ!強いぞ!」ってことですね。モリーと駆け落ちするために、ブルーノ(=屈強な男)にぶん殴られ、少佐(軍の"階級"が呼称)を振り切り、"すべてを手に入れるため"の道を夢見て車を走らせます。
  しかし、案の定というか、こういう夢語る男ほど女性を蔑ろにする。モリーを道具として扱い、ろくに抱きもしない。「私と仕事どっちが大事なの!」論です。お伽話のような世界観で、時代設定は戦時中。そんな作品を資本主義の現代に投げかけてくるのが悪魔的発想ですよね。反戦映画には到底思えませんが、戦争孤児たちの愛の置き場みたいなモチーフを勝手に想像してしまいました。すみません。

☆戦時中におけるクソ男たち
  この作品クソ男が三人登場します。
  一人目は判事。彼は、実の息子を戦争に行かせ死なせてしまいます(ジャニーズ事務所に勝手に履歴書送る姉かよ!)。おそらく判事は息子や奥さんのことなど顧みず、盲目的なマインドセットに従って息子を戦地に送ったのでしょう(『シェイプ・オブ・ウォーター』のストリックランドにも通ずる価値観かも)。奥さんはそのことを嘆き、悲しみ、スタンに話を聞いてもらいますが、その結果、夫を撃ち殺して自分も死ぬ道を選びます(このシーン急に音でかくてめちゃ驚きました)。
  二人目はグリンドル。奥さんに会いたい……奥さんに会いたい……ってしきりに言ってはいますが、どこか金持ち特有の鼻につく感じが隠せていないおっさん。若い女に乱暴したことを懺悔してましたね。亡き妻に扮するモリーが現れた時、ドレスの下腹部あたりから血糊が滴るように付着していた様子から、テメェコラおい!!ってことです。

☆人か獣か?いやいや普通の男です……
  スタンは先述のクソ男たちを滅茶苦茶にやって大金を得ます。グリンドルと付き人に関しては、もう多分殺人なので警察に追われる羽目になりましたが、富豪(=強い男)を足蹴にして力を誇示できたスタン、逃亡する前にリリスの元に立ち寄ります。その際、背中に投げかけられた「愛してるわ、スタン」というリリスの言葉。「え?今なんて?」と言わんばかり(たぶん言ってた)に驚くスタン。お金とか腕力とかそんなものよりも何よりも彼が一番欲しかったもの、それは"愛"です。母と生き別れ、誰にも愛情を注がれなかった彼は、愛を渇望していた。そのための手段として力を欲していたのです(でも、手段が目的になってますね)。
  しかし、リリスの言葉は偽りで、「嘘よねん、あんた患者やで」と突き放してくるじゃないですか。おまけに、必死こいて、それこそ人を殺めてまで手に入れた大金は全部1ドル札だった(これは皮肉の演出だから事実や真偽はどうでもよい)。怒りに狂ったスタンは、リリスを絞殺しようとするが、失敗。獣(壁についた血の手痕がまさしく)になった彼は"悪夢小路"に走っていきます。列車の中に隠れ込んで檻を手前に引っ張る演出もまさに獣を表現してますね。
  髭面でションベン臭くなって身も心も獣となったスタン。それでも酒を飲むために父親の腕時計(=強さの証)すら手放してしまいます。そして、おそらくアヘンが一滴垂らされているであろう酒を飲み、"一時的な仕事"を紹介される。ラストの泣き笑いには、ある種の解放や自業自得などの解釈があるかもしれませんが、そこは然程重要でないように思います。このブラッドリー・クーパーの表情を見て、『セブン』のブラピの表情をアップに長回しするシーンを思い出しました。あれ、大好きなんです。

☆勝利至上主義の否定はLove(女)
  物語には三人の女性が登場します。実は電気ショックに忍耐だけで臨んでたモリー。いきなりちんぽを握ってくるジーナ。そして、スタンをクランケ(病的とまで言えるスタンの勝利至上主義)として扱っていたリリス(「Small, Small man…」のところでキンタマがキュッとなりました) 。
  結局のところ、スタンという母性知らずの男が欲しがったのは愛(この作品では=女)でしたが、彼は本質を見失っていたので、肉体的な性欲を満たすことはできるものの、精神的な安らぎを得ることはできませんでした(結局全員を金儲けの道具にしちゃったからね……)。愛を求め、愛を殺し、獣になって小路に迷い込んでいく。外連味や皮肉たっぷりな感もしますが、どこかにそういう醜さを私たち人間は持っている、そんな気がします。
ただ、首を絞められる前のリリスの表情や言葉には、期待と失望が伺えたので、ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかというクソどうでもいいことは置いといて、力の優劣を刺し抜く愛の可能性に思いを巡らせるのが良いんじゃないでしょうか。それは物語の余白の部分でもあり、フィクションの醍醐味だと思います。なんにせよAlleymanはつらいよ。


※エノク、リリス、聖書関連の知識が皆無です。あと、バカです。長々しく書きましたが、戯言だと思って明日には忘れていただければ幸いです

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