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そろそろ退却。戦略的キャリアダウンしたい(前編)


何歳まで仕事する?

こんな話題が出始めたのが、四十代半ばくらい。
年上の友人の夫さんたち、定年が視野に入ってきて、いろいろと将来のことを考え出すみたい。遠隔地の実家に帰るとか言い出し、「え、あたしも行くの?」みたいになってる人もいる。それはちょっと、妻的にはノーサンキューかも。

わたし自身は、全く仕事をしないのもなんか不安…
金銭的にもそうだし、仕事、大変は大変だけどやりがいも感じているし。ただ、勉強が追いつかなくなったり、仕事の正確さやスピードが低下したら、辞めるべきかなあ。

多くの人間がこう語るのを耳にするであろう、「五十歳になったあとは閑居し、六十歳になったら公の務めに別れを告げるつもりだ」と。だが、いったい、その年齢より長生きすることを請け合ってくれるいかなる保証を得たというのであろう。 事が自分の割り振りどおりに運ぶことを、そもそも誰が許してくれるというのか。生の残り物を自分のためにとっておき、もはや何の仕事にも活用できない時間を善き精神の涵養のための時間として予約しておくことを恥ずかしいとは思わないのであろうか。生を終えねばならないときに至って生を始めようとは、何と遅蒔きなこと。 わずかな人間しか達しない五十歳や六十歳などという年齢になるまで健全な計画を先延ばしにし、その歳になってやっと生を始めようと思うとは、死すべき身であることを失念した、何と愚かな忘れやすさであろう。

ルキウス・アンナエウス・セネカ『生の短さについて』

セネカ師匠、おっしゃる通りです… 
ちなみに、紀元後一世紀ごろのローマ帝国の法律では、五十歳以上になると兵役の選抜対象からはずされ、六十歳以上になると元老院には召集されないことになっていたそう。

いや、わたしだってできれば「閑居」して、晴耕雨読といきたいが…。

キャリアダウンしたいけど、

そう、まずはいきなり仕事を辞めるのではなく、少しずつ退却していくのがいいのではないだろうか。

しかし、退却するにしても、(背を向けて逃げるのではなく) あとずさりで徐々に退却すべきであり、軍旗も無事でなければならず、戦場での威厳も損なわれてはならないのだ。たとえ敵の手に落ちるにしても、武器を保持したままでいる者のほうが、敵に敬意をもたれもするし、安全でもある。徳をすでに獲得している者はそうすべきであり、徳を志す者もまたそうすべきだと私は思う。運命が優勢となり、行動の機会を断ち切ったからといって、即座に武器を投げ捨て、あたかも運命が追跡できない場所があるかのごとく、潜伏場所を求めて背走するようなことはすべきではない。義務的な仕事に精力を注ぐのを控えめにして、なすべき仕事を選択したあと、国家に役立てる何かを見つけ出すべきなのである。兵役に就くことが許されないのか。 公職を求めればよい。私人の立場で生活しなければならないのか。弁論家になればよい。 沈黙が命じられているのか。 物言わぬ支援で同胞を助ければよい。中央広場(フォルム)に足を踏み入れることさえ危険なのか。家で、見世物で、宴会で、善き仲間、忠実な友人、慎み深い宴客の役割を演じればよい。市民としての義務を(果たす)市民権を喪失したのか。人間としての義務を実践すればよい。われわれ(ストア派)が大いなる精神をもって自分たちを一つの都市に閉じ込めず、みずからを解放して全世界と交わりをもたせ、宇宙がわが祖国と公言しているのは、はるかに広い活躍の場が徳に与えられるようにという意図からであった。

ルキウス・アンナエウス・セネカ『心の平静について』

仕事している=世の中の役に立っている、という、単純な思考は、そもそも危ういですね。
しかし、人はなんだかんだと、仕事を頼りにして仕事や役職にしがみついてしまう。たとえば、自己紹介を、職業を言わずにすることって可能だろうか?

後編は、セネカ師匠の晩年の書簡集から、リタイアの難しさについて紹介し、考えます。ではお元気で。

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