死について考察する5/n(リンゴの木、植えます?) : わんだろうより、親愛なるセネカ師匠へ
桃の季節はあっという間に終わり、もう梨の時期。「幸水」の名前を見ると、えっ、無政府主義者の?と思うわたしはおかしいかもしれん。(それは幸徳秋水)
今回は、梨ではなく、りんごの話。有名な「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、今日私はりんごの木を植える」。
ルターの名言と言われていますが、実際は誰の言葉か分からないらしい。名言あるあるだな…
サラッと聞くと、なんか格好よさげ…
何があっても動じず、淡々とやるべきことをやるのよ、みたいな感じですが、ちょい待ち。【明日わたしが死ぬとしても】じゃなくて、【明日世界が終わっても】なのが、引っかかるところ。
『死と後世』、いわゆる生まれ変わりとかの話ではない。自分の死後、世界が存在するか否かが、生きているわたしの認識・行動に影響するか?という、興味深い論考。
明日、地球が滅亡して生き物全部いなくなるのであれば、そりゃあ、抗がん剤の研究、とか、地球温暖化防止の研究、とかはしないかもね…
逆に、自分がいなくなるとしても、世界はそのまま存在し、後世の人々の役に立つかもと思えば、りんごも植えるし書物も残すかも。
ローマの哲学者、セネカ師匠の『倫理書簡集』にも、後世の人々というワードが登場します。
哲学者として功成り名を遂げたセネカ師匠、ただ言行不一致をつつかれて、辛い晩年ではあったと思う。
そこを、いやいや、べつにいま分かってくれとか思ってないし!後世のためですわ!正論を言って何が悪い!と、ガンガン文章を書いていくスタイル、大好き。
数千年の歳月。スケールでかくて素敵すぎる。
でも、ストア派の宇宙観では、定期的に宇宙(世界)って、ガラガラポンするのでは?
エクピロシスEkpyrosis(世界燃焼)といい、世界存在は周期的に創造と破滅を繰り返しており、それは大火によって起こる、という論。
周期的に、の周期がどれくらいと考えられていたのか、新しい世界でも同じ意識を持った人間が生じるのか…知りたい事だらけ。これってもしかして、ニーチェの永劫回帰的な??
風呂敷が広がりすぎて畳めませんな。
後世&後生(漫才コンビのなまえみたい)については、またあらためて。
ではお元気で。
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