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キーウ(キエフ)・ヨーロッパ広場に見る弾圧の歴史

【令和4年4月1日追記】
3月31日付で、外務省がウクライナ首都の呼称をロシア語読みの「キエフ」からウクライナ語読み「キーウ」に変更すると発表しました。
( 外務省HP )
これに基づき、当記事の「キエフ」表記も「キーウ」に改めました。

プロローグ

1911年8月末、ロシア帝国最後の皇帝・ニコライ2世がキーウを訪問しました。

当時のキーウはロシア帝国の一部であり、「小さなロシア=小ロシア」と呼ばれていました

小ロシアの範囲(黄色)
Alex Tora • CC BY-SA 3.0


主な目的は、彼の祖父にあたる アレクサンドル2世の像がツァルスカヤ広場(現在のヨーロッパ広場)に作られ、それの除幕式に参加するためでした。

除幕式の一コマ。
中央よりやや左下で白い服の人と
何かやり取りしているのがニコライ2世


参列者は、皇帝一家のほか 首相ピョートル・ストイピン、ブルガリア王の息子はじめ欧州各国の代表たちでした。

ストルイピン

ストルイピン
ロシア帝国の首相。反対派を徹底的に粛清しながら改革を推し進めた人物であり、プーチンは彼を高く評価していると言われる。


除幕式の様子の動画が残っています。

馬車に乗り込む皇帝家族、
銃剣を持った何百人もの兵士のパレード、
建物の中からも式典を見ようと溢れる人々
などが写っています。


こうして華々しくデビューしたアレクサンドル2世の像。

しかしこの2日後に首相ストルイピンが暗殺
6年後にロシア革命が起こり、帝政は倒れます

1917年2月の抗議デモ


その後この場所で何が起こったかを見てみましょう。

モニュメントたちの変遷

先述の革命により、1917年ロシア帝国は消滅。

そしてこの後のヨーロッパ広場における モニュメントの変遷を見ると、この場所が辿った複雑な歴史が浮かび上がってきます。

⚫︎1919年4月
ボリシェヴィキ(ソ連共産党の前身)により、アレクサンドル2世像が幕で覆われる

⚫︎1920年11月
☭ 革命記念日の前日に台座から取り外される

☭ 代わりに赤軍の像が置かれる
(赤軍 = ボリシェヴィキのもと創設された軍隊)

赤軍の像


⚫︎1930年代後半
スターリンの像が建てられる
(スターリン = 当時のソ連の最高指導者)

⚫︎1941年
🇩🇪 スターリン像、ナチスにより破壊

⚫︎1950年代はじめ
☭ スターリン像復活
(ナチスの撤退)

1952年のスターリン像


⚫︎1956年
☭ スターリン像2度目の破壊
(当時の最高指導者フルシチョフの"非スターリン化" による)


⚫︎現在
🇺🇦1991年、ソ連から独立してウクライナに。
かつてモニュメントが置かれていた場所は、公園の入り口になっていました。

ロシアの侵攻で、今この瞬間の光景は知る由もないのですが….


名称の変遷

このように、様々な記念碑が入れ替わり立ち替わり置かれたこの広場。
名称もコロコロ変わっているんです。

しかも、イオンをジャスコ呼びするていでうっかり言い間違えたら 警察に連れて行かれそうな名前ばかりです。

⚫︎ツァルスカヤ(皇帝)広場[1869年]
🇷🇺アレクサンドル2世像が置かれた時

ロマノフ朝第12代ツァーリ・アレクサンドル2世


⚫︎第3インターナショナル広場[1919年]
☭赤軍像があった頃
(第3インターナショナル = 国際共産党コミンテルン)

ロゴ。Thespoondragon • CC BY-SA 4.0
Wikimedia Commons


⚫︎アドルフヒトラー広場[1941年]
🇩🇪ナチスの侵攻を受けて

Unknown author • CC BY-SA 3.0 de
Wikimedia Commons


⚫︎ スターリン広場[1944年]
☭この時スターリン像が復活

スターリン


⚫︎ レーニンのコムソモール広場[1961年] 
☭フルシチョフの 非スターリン化に伴うスターリン像の破壊後
(コムソモール = 共産党青年団)

コムソモールのエンブレム。
C records • CC BY-SA 3.0
Wikimedia Commons


⚫︎ヨーロッパ広場
[1996年]
🇺🇦’91年のソ連崩壊により、キーウはウクライナ共和国の首都に。
ツァルスカヤ広場になる前の名前に戻った形。
(由来はかつてこの地にあったホテルの名前だそう)

2012年のヨーロッパ広場。AMY• CCBY-SA 3.0

まとめ

記念碑と名前の変遷をまとめてみました。

こうして見ると、ウクライナ国内にありながら ロシアやドイツの指導者の名前がちらほら。
しかし、ウクライナ人が黙っていたわけではありません。

上の年表より少し遡ったクリミア戦争(1853〜56)の時に、ウクライナの民族独立運動が誕生。

しかしウクライナの独立を警戒したアレクサンドル2世は、出版物や講演などでのウクライナ語使用を禁止します( Ems Ukaz ←英語)。

帝政ロシア消滅後には、ウクライナ独自の議会(ウクライナ中央ラーダ)が成立。
1918年にウクライナ人民共和国を宣言します。

ところがこれを認めたくないロシアは、軍隊(赤軍)を使ってキーウを攻撃、ウクライナの独立を妨害しました。

やがてソ連が成立、最高指導者スターリンが登場。
彼は農業政策の大失敗により、ウクライナ国内に数百万とも1千万人以上とも言われる餓死者を出してしまいます。
(ホロドモール←餓死者の写真があるため閲覧注意)

スターリンによる計画的な飢饉との見方もあり、飢餓テロスターリン飢饉とも呼ばれます。

独ソ戦(第二次世界大戦)におけるナチス軍の侵攻では、破壊行為により街が何日も燃え続け25,000人が家を失ったそう。

つまりヨーロッパ広場の移り変わりは、実はウクライナ弾圧の歴史を象徴しているという見方ができるのではないでしょうか。

ヨーロッパ広場を通して見るウクライナの歴史


エピローグ

今回ヨーロッパ広場を取り上げようと思ったきっかけは、非常に些細な事でした。

昨年末書いたロマノフ家の人の記事で 一度だけキーウが登場したので、ロマノフ家とキーウとの絡みから、ウクライナの歴史について書けないかと思ったからです。

しかしアレクサンドル2世像を切り口に見えてきたのは、時の権力者達に弾圧され続けてきたウクライナの姿でした。

今回述べた近代ウクライナの歴史は全く網羅的ではないのですが、それでもウクライナ侵攻に先立ち発表されたプーチンの歴史論と照らし合わせると幾つもの疑問点を発見できます。

例えばウクライナはロシアの政治家であるレーニンが作ったとか(←中央ラーダどこ)
ウクライナ人は国内のロシア語や文化を根絶しようとしているとか(←逆だし)

「強いロシア」に固執して軍事力を発動させる時点で既に非難されるべき行動なのですが、個人的には今回記事にした事を通して、もう一歩踏み込んでプーチン理論の矛盾点に迫ることができたと思います。

最後にロシアの民族衣装サファランの画像を貼ります。

これは元々ウクライナの女性服に影響を受けたようです。

頭のココシニクは、ヨーロッパ各国の王室のティアラにも影響を与えていますね。

Franco Folini • CC BY-SA 2.0
Wikimedia Commons


民族主義を否定する独裁者の為に、これ以上罪のない人が犠牲になりませんように。

本日もご覧下さり、ありがとうございました。

参考

tsarnicholas

Wikipedia

世界の歴史まっぷ

東洋経済オンライン

Address by the President of the Russian Federation on the events in Ukraine

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