【パルプアドベント飛び入り】タイガー&ドラゴン&スネグーラチカ-クリスマス1918-#パルプアドベントカレンダー2020

本文およそ22000文字。

※このパルプにはPERO(パルプエンターテイメントレーティング機構)レーティング:狂、要素として「アジアの謎武術家」「ソビエト連邦に対する反動的な行為」「黒魔術」の描写が含まれています。ご注意ください。

ああ、本当に、この露西亜って奴は寒くてたまらねえ。旅順や奉天の寒さとは比べ物にならねえ。ウシャンカ(ロシア帽)の下ですら、髭が凍り付くかのような極北の寒さだ。

「日本人、相変わらず軟弱(ヤワ)ネ」

辮髪の男が隣で陰口を叩く。

「うるせえぞ、支那人」

俺は即座に怒鳴り返す。だが、その怒鳴り声すら雪に吸い込まれていった。

俺と辮髪の男、王虎は馬車を護衛しながら、露西亜・カザン近郊の雪原を馬に乗って進んでいるところだ。今回受けた仕事は『スネグーラチカを赤軍勢力圏外まで逃すこと』、敵は最大で赤軍3,000,000人。

割のいい仕事かどうかは微妙なところだが、最高にヒリつける事だけは確かだ。最高じゃねえか。

その瞬間だ。しんしんと降り積もる雪道の背後から無粋な気配を感じた。馬が2頭……いや、4頭か。王虎はすぐさま辮髪を隠し、指でサインを示す。『予定通りやれ』との事、俺も即座に『お前もな』とサインを返す。

「стоп!」(ストプ、止まれ)

赤軍の連中か。いや、ヴェーチェーカー(ВЧК、ソ連の秘密警察)かもしれない。俺は想定通り、馬と馬車を止め、地元の農民のふりをする。

「旦那、待って下せえ。オラたちは『ずんみんいいん』の人の命令で荷物を運んでるだけで……」

語学は俺達には必須だ。特に訛りや階級による言葉も詳しく覚えておく必要がある。顔を視られれば不自然な黄色人種だとバレる。俺はウシャンカで顔を隠しながら近づく。4人なら想定より少ない。

「お前達の荷物を確認させてもらうぞ」

そういって周囲を馬に乗った武装した兵士たちに取り囲まれた。馬鹿め、それが俺達の狙いだ。

俺は瞬時に馬の背から飛んで刀を抜き一人の首筋を貫く。

「おい、なにを」

もう1人の兵士が腰のナガンM1895を抜こうとするも、脇差を投げて首を貫き、その言葉を遮る。全くの無音で二人の人間を殺す。この程度では声を出す必要すらない。

同時に、背後で王虎が馬の背から放った飛び蹴りの二連続で二人の兵士の頭蓋を叩き割っていた。兵士は意識を失うと同時にばたりと倒れ、二度と起き上がる事は無かった。

「日本人、少し動きが遅いね。功夫が足りないね」

「ケッ、仕事が済んだんだからいいだろ」

刀の血を拭き、そいつらの武器や書類などを押収し、死体を雪に隠し、馬も始末する。これでこいつらは来年の春、泥濘の季節までゆっくりおねんねだ。奪った資材を積むとき、馬車の中で犬を抱いた幼さの残る上品な少女が俺達に声をかけた。

「お二人とも、大丈夫ですか?」

俺達は馬車の中で青い顔をして犬を抱えている『スネグーラチカ』に軽く返答した。

「何。少々難癖をつけられたので、穏便にお帰りいただいただけですよ」

「大丈夫ね。そんなことより、旅をつづけるね」

『スネグーラチカ』はにこりともせず、小さく「よろしくお願いします」とだけ答えた。実に気丈なものだ。

敵の勢力圏を抜けるまでどれぐらいあるかわからない。俺と王虎は再び馬に乗り、行軍を再開する。露西亜の大地と雪以外、誰も知られない旅はまだまだ続く。

世界はめまぐるしく動く。それは俺のような腕だけを頼りに渡り歩くはぐれ者も例外ではない。

大正3年……いや、1914年に欧州で未曾有の戦争が始まった。協商国と中央同盟国は仏蘭西で死体を積み上げる戦いを繰り広げていた。腕を頼りに五州を渡るはぐれ者もその中で暗躍していた。諜報、暗殺、外人部隊に傭兵、仕事を選ばなきゃより取り見取り、良い稼ぎになった。俺や王虎もそんな連中の一人だ。

やがて1917年、協商国のひとつである露西亜で革命が起こった。上を下に、下を上にする恐ろしいものだった。前にあれほど激しい戦いを繰り広げた『恐ろしい大帝国』の根本は腐っていたのかもしれない。即座に内戦が始まった。

翌1918年の7月にウラル山脈の果てはエカテリンブルグで、前衛革命野郎(ボリシェビキ)どもの手によって、ロマノフ王朝の皇帝一家が一人残らず凄惨に殺害された。少なくともそう聞いていた。

その仕事が入ったのは、その年の秋に入る頃だ。噂では独逸がまもなく降伏するであろうと聞いている。トレンチコートを羽織り、倫敦・サザーク地区の外れにある指定されたカフェへと向かう。

テムズ川が見える品の良い個室のソファには紅茶を片手にいつもの長身の紳士が待っていた。イギリス政府から無頼漢である俺達『スペシャリスト』への依頼の窓口を務めている『M』だ。後退しつつある額、深い皺が刻まれた顔、良い仕立てのスーツで身を包み、ギョロリとした瞳でこちらを見る。

「ミスター龍之介、ご無沙汰している。またお会いできて光栄だ」

全く持って光栄では無さそうな、苦み走った顔で、不機嫌な声をかけてくる。(俺が言うのも何だが)こいつも人間嫌いなのだろう。これでもこの男は大英帝国政府では重宝されている有能な役人らしい。

「ども。んで、『M』の旦那。今回は何の依頼で?」

握手もせず、とっとと仕事の話に入ってやる。この男はそうされた方が嬉しいだろう。相変わらずの表情のままで、鞄から地図や書類を取り出す。

「ロシアに飛んでくれ。場所はウラル山脈の寒村、仕事内容は人の護送、イギリスの勢力圏までだ。支払う金額は書類に書いてある。なお今回の仕事は別の『スペシャリスト』、王虎氏とアンドレイ氏の協力の元に行ってもらう。集合場所は現地だ」

ちと遠いが、露西亜はまあいい。政情不安も甚だしいが、俺達『スペシャリスト』なら何とかなる。仕事内容も金額も問題ない。『スペシャリスト』ランキングで7位のアンドレイも3位の王虎(俺が4位だというのに生意気な支那人だ。態度も腹が立つ)も気に食わないが、仕事の邪魔にはならないだろう。特に、現地人のアンドレイがいるのは心強い。

「まあそりゃあいいんですがね……この運ぶ相手……『Снегурочка(スネグーラチカ)』というのは?確か露西亜における師走配達聖人(サンタクロース)、ジェド・マロースの孫娘である雪女の事だろう?だが、この科学万能の時代に雪女などいないはずだが?」

紅茶を貰いながら、1つ質問をする。『M』は紅茶をゆっくり飲み、黙って、こちらの瞳を見つめる。そして再びゆっくり紅茶を注ぎ、再び紅茶を飲み、カップをソーサーにゆったりと置く。押し黙ったままでだ。

「俺達は知る必要は無い、という事か」

「Precisely」(その通り)

「了解した。この仕事、受けよう」

ここで初めて、握手を交わす。

細かい話を詰めて、書類や必要資料と前金を受け取る。『M』は明確に、面倒な事が終わったという表情をして、いつもの定型句を返してきた。

「I wish you the best of luck.」(健闘を祈る)

その年の8月には大日本帝国、まあ俺の祖国がシベリアに出兵し、ウラジオストックに進出していた。日本人とバレるのは不味い。そのため緊張の走る蘇聯邦(ソビエト)国内の潜入には高い隠密性を強いられた。とはいえ修行をつみ、忍びの野外術を納めている俺の単身であれば雪原であろうと踏破し、野に潜むことは容易い。

エカテリンブルクから100kmほど離れた雪深い森の中に、その待ち合わせ場所はあった。そこは細い街道から僅かにそれた既に放棄された集落の跡地のようだ。ほとんどの建物は朽ちていたが、一つだけ無事な建物があったのだ。この石造りの建物(おそらく教会堂であったのだろう)こそが俺達『スペシャリスト』の待ち合わせ場所であり、今回の荷物である『スネグーラチカ』の受け取り場所だ。

俺はその建物の扉を開く。教会としての機能は最低限残されているようで、壁には簡素な生神女マリヤの聖人画(イコン)がかけられ、古びたベンチが並んでいる。無人の建物の中で、あらかじめ指定されていた合言葉言い放つ。

「寒いか、暖かいか?」

それと同時に、ガタリと音がして、床の扉が開き、中から露西亜人の男が顔を出す。

「暖かい。アンドレイだ。よく来てくれた、龍之介。歓迎する」

精悍な男だ。奴はロマノフ朝の元軍人にして、ピョートル大帝の時代から伝えられたという露西亜格闘術やコサック流暗殺剣の使い手のスペシャリストだ。俺も何度か仕事で顔を合わせたことも、剣を交えた事もある。

「王虎の奴は?支那人は時間にいい加減なのか?」

そう問うた途端に、頭上から不快な声が響く。

「ホッホッホ、やはり日本人マヌケね。私、30分前からここにいるね」

見れば、礼拝所の梁に辮髪の男が立っている。気配を殺していたようだ。

王虎、コイツもスペシャリストだ。中国山東省出身、元義和団の武侠にして、恐るべき多様な中国武術・仙術・道術を操る怪人である。コイツには何度も仕事で煮え湯を飲ませられており、逆に何度も飲ませてやった関係なのだ。

俺はガンを飛ばし、そっと懐の手裏剣に手を伸ばした時、アンドレイが制止するように、仲裁の声をあげた。スラヴ人らしい、野太い声だ。

「仕事の話をしよう。君達スペシャリスト同士で戦うなら、仕事が済んでから好きなだけやってくれ」

そういうと、彼は床下に降りて行った。梁から王虎が音も立てず降りると、ヤツもまた床下へと降りる。

「床板は閉じておいてくれ」

下からアンドレイの声が聴こえる。仕方あるまい、奴との決着は仕事が終わってからにするとしよう。俺もまた、床下の空間へ飛び降りる。

ギシリ、と床がきしむ。そこは暖かい地下室だった。アンドレイが普段使っていたであろう簡易なベッドと机、それに木箱がいくつかある。奥には厳重に施錠された扉も存在していた。何かを捕まえていたのだろうか。

「『M』から話は聞いているな?今回の仕事は『スネグーラチカ』をボリシェビキどもの勢力圏外、イギリスの勢力圏まで運ぶことだ」

古い金属製のサモワールから『四』人分の紅茶を出しながら、アンドレイは机の上に地図を広げていく。

「そうだな。まあシベリア方面へ向かうより、カスピ海か黒海沿岸まで出て、そこから船を徴発して大英帝国勢力圏まで逃げるのが手っ取り早いか。だが、それよりもアンドレイ、聞きたい事がある」

俺はルート(どちらも赤軍の勢力圏を突っ切る)を指さしながら訪ねる。

「何だ?」

「その『スネグーラチカ』とは何だ?」

「それは私も気になってたね。運ぶのに素性がわからないというのはどうなのかね?何者ね?」

王虎も続いて問うた。そりゃあそうだ。秘密裏に露西亜から運んでほしいと、あの『大英帝国』が言ってくるのだ。それはただの人物ではあるまい。俺はアンドレイの目をじっと見る。王虎も同じく見ている。

アンドレイは深くため息をつき、しばしの沈黙の後、やがて告げた。

「君達が正体を知る必要は無い。彼女は『スネグーラチカ』だ。それ以上は教えられない。ま、直接拝謁していただくとしよう。くれぐれも失礼のないように」

そういうと、アンドレイは厳重に施錠された部屋の鍵を外す。

「護衛の者が参りました、間も無く出立です。スネグーラチカ」

そう声をかけると、中から一人の少女が顔を出す。暖かそうな部屋着を着て、赤みがかった金髪の、どこか物憂げな美しい青い瞳の少女だった。栄養状態は良さそうに見える。しかし肌は露西亜人の女と比べても薄い、透き通るような白い肌をしている。どうも長い間、日の当たる場所には出ていないようだ。足元には一匹の鼻の短い黒い犬、キング・チャールズ・スパニエルがいて、俺達に向かってけたたましく吠えた。彼女は犬を抱き抱え、頭を撫でて落ち着かせた。

「ありがとう、アンドレイ。よろしくおねがいいたします。私の事は、どうぞスネグーラチカとお呼びください。偽名で申し訳ありません。ですが、私は名前は捨てたのです……」

過不足の無い、立派な自己紹介だった。また言葉遣いから、かなり高貴な身分の人間だと感じた。

「阿久沢龍之介と申す。龍之介とお呼びいただければ」

「董王虎ね。王虎でいいね。よろしくね、スネグーラチカさん。何、名前はどうでも構わないよ。仕事さえ無事終わればね」

二人して自身の苗字を、久々に名乗る。スペシャリストが苗字を名乗る事は滅多にない。それが自然と、正式に自分の名前を名乗っていた。無意識にだ。

「龍之介さんに…王虎さんね。よろしくお願いいたします」

少女はお辞儀を返す。その所作は、どこか上品さを感じるものであった。

「さて、では二人にはスネグーラチカを無事運んでもらうとしよう。裏の納屋に馬車がある。荷物各種、食料や毛布や着替えや無線機は用意してある。それとは別に君たち二人のための軍馬を二頭を用意してある。それで出発をお願いする。お二人であれば大丈夫とは思うが、ロシアの凍える大地、そしてボリシェビキの連中にはお気をつけて欲しい」

アンドレイは紅茶をスネグーラチカに渡しながら、説明する。

「ちょっと待ってくれ。二人って、俺とこの支那人はともかく、お前はこねえのか?」

「ええ、私はここでやらなければならないことがあるんだ…」

アンドレイは強い瞳でこちらを見返す。

「アンドレイが来ないのは残念ね。この日本人がいるよりもよっぽど役立つのにネ」

「にゃろう。いい加減にしろよ支那人!」

王虎と俺を無視して、アンドレイは静かに、スネグーラチカに話しかける。

「スネグーラチカ、私はここでお別れです。短い期間ですが、お世話をさせていただき、光栄でした。そして不敬の数々、どうぞご容赦ください」

「いいえ、アンドレイ。貴方には感謝しています…どうぞ貴方もご無事で」

彼女がお茶を飲み干すと、スネグーラチカを連れて、礼拝堂を出て納屋に向かう。スネグーラチカは犬を抱えて馬車に一人で乗る。俺は馬に飛び乗りながら、馬の様子を見る。どの馬も、よく訓練されている軍馬だ。申し分ない。

「なあ、支那人……アンドレイは……」

俺はスネグーラチカに聞こえないように気を付けながら、小声で王虎に声をかける。

「ええ、たぶんね。早く行くね。スネグーラチカ、馬車はあやつれるかね?」

「ええ、大丈夫です」

「大したお嬢さんだ。じゃあ、とっとといくか」

馬車を出発させ、真っ白な雪道を疾走させる。雪が深々と降り続け、身を切るような寒さに耐えながら進み続けた。雪に音が吸い込まれて無音の空間に、馬車と馬の音だけが響き渡る。走り続けて10分ほどたった頃だろうか。背後の遠くで巨大な爆発音がした。あの教会堂の方に巨大な爆炎が上がっていた。

「……おそらくボリシェビキに自分から通報しておびき寄せた上での自爆ね。あれなら間抜けな連中はスネグーラチカごと死んだと思うね。まったく文天祥のような男だったね」

「なるほど、見事な散り際だ。アンドレイはずいぶんと忠臣だったのだな」

「アンドレイ……」

スネグーラチカは、その青い瞳に一杯の涙を貯めていた。犬が、慰めるように彼女の頬を舐めた。気丈なものだ。俺は思わず彼女に声をかける。

「気持ちはわかる。だが、アンドレイの志を無駄にするな」

「は、はい」

彼女は再び馬車の操縦に専心しはじめた。俺達には感傷に浸る時間など無いのだ。前衛革命野郎どもの魔の手はいつ来るかわかったものではない。

露西亜の空は嫌な空だ。どこまでもどんよりと曇り、ただひたすらに雪を降らせ続ける。

冒頭に述べたように、何度か赤軍やヴェーチェーカーの小部隊に出くわし、運よく気づかれなかったときは農民のふりををして避け、運悪く(俺達にとっても、死にゆく露西亜人連中にとっても)気づかれそうな時は俺と王虎で皆殺しにして、旅をつづけた。

森を超え、橋を渡り、平原をかけ、どこまでも、地平線の広がる白い露西亜の大地は永遠のように続いていた。晴れた空の下だが、日の光が雪に反射して輝くだけで、その寒さは身を切るほどのものだ。晴天とはいえ、良い気分はしない。

「だいぶお疲れね」

「ああ、そうだな」

俺と王虎は馬上で、小声でつぶやく。俺達はただひたすら、戦い、そして逃げ続けた。俺達はこれぐらいなら問題は無いが、スネグーラチカはそうではない。見立てではおそらく王侯貴族の娘といったところであろう。前衛革命野郎が必死に捜索を続けている理由もわかるというものだ。それだけに、いつまでも馬車の中では疲労がたまるのは当然だろう。

「地図によればこの先に古い教会がある。無人のようだし、一晩休んでいく事にする」

「わ、私なら大丈夫です」

かなり疲労の見える少女は、それでも大丈夫だという。その信念はどこから来るものなのだろうか?それでも俺は重ねて告げた。

「馬も休ませねばならん。異論は無いな、スネグーラチカ」

「無理は禁物ね」

「はい…お任せします」

今度は従ってくれたようだ。露払い・道案内付きで馬車を操るだけとはいえ、娘にほぼ休まずの行軍は難しい。俺達は彼女を無事・五体満足で顧客に引き渡す義務もあるし、彼女に無理をさせるのも気が引けた。俺はほっとしつつも、森へ続く脇街道を先導する。

その教会はやはり古い物であった。近年まともに使われた様子はないが、伝統的な露西亜の木造建築で、寒冷地向けの建物の特徴として納屋や井戸が建物内に作られている。井戸はまだ枯れておらず、水質も濾して煮沸すれば問題なく飲用に使えるだろう。

スネグーラチカはゆっくりと降りると、犬を抱きおろし、静かに祭壇に祈りをささげ始めた。まるで、何か親族の仏壇に祈るかのように、静かで厳かで、どこか悲しげな祈りだった。

ここからは王虎と手分けしてするしかない。周囲に鳴子など警戒用の罠を用意する。鐘楼に見張りできる場所を確保する。馬を休ませる場所を作る。スネグーラチカがゆっくり休める寝床を整える。火を起こす。水を調達する。

あれでも、王虎の奴はなかなか手際が良い。祈りを終えたスネグーラチカは、あっという間に整えられたあばら家に目を丸くする。

「すごい、あっという間に」

「ま、俺達ゃスペシャリストでな。野外生存から野戦築城までお手の物よ」

「すみません。少しもお手伝いできず…前に従軍看護師をやった時も遊んでばかりでしたし…」

「構わないね。お嬢さんは休んでいて欲しいね」

外での作業が終わった王虎がやってくる。ようやく即席の囲炉裏も用意できた。

早速温まりつつ、夕餉の準備に取り掛かる。戦場で、ゆったりと食事が取れるときは貴重だ。ましてや、どう見ても良家の子女としか思えないスネグーラチカには暖かい食事が必要だ。携行糧食で栄養が取れても、精神的な疲労は取れない。

鍋に湯を沸かす。乾燥した食事では味気ないというものだ。沸いたらに秘伝の変わり味噌玉を1つ放り込み、溶かしていく。味噌に乾燥野菜や切り干し大根、しらすや干しエビを混ぜ込んだ俺特製のものだ。あっという間に良い香りのする味噌汁が出来上がる。

「凄い。スープが出来上がって」

「お嬢さんの口に合うかはわからないがな」

「やれやれ。日本人は相変わらず食が貧相ね」

憎まれ口を叩きながらも、何処に隠していたのか、王虎は干し肉や何かの食材を取り出し、刃物で切り分け始めた。

「こっちは臘肉(らーろう)、干し肉ね。ベーコンに近い味がする中国の保存食よ。そしてこっちが搾菜、オリエンタルマスタードの茎を使った、最近作られた漬物ね。全部私特製、秘伝のレシピね。美味いから試してみるよろし」

あっという間に、目の前には風変わりなコース料理が広がった。中華の干し肉と漬物、味噌汁、乾パン、それにハードチーズやドライフルーツ、牛缶といった保存食だ。王虎はスネグラーチカのための紅茶をいれ、俺はよく冷えたウォッカの瓶を開けた。

「どうだ?お嬢ちゃん、上手いか?」

「ええ……変わった味だけど、美味しくて、暖まります……何より、久しぶりに皆で食事を囲みましたから」

彼女はおぼつかない手でスプーンを持ち、味噌汁を飲み、そしてはにかむような笑顔を見せる。肉体的な疲労はこれで取れるだろう。しかし精神的な疲労は依然残ったままのように感じられた。

俺も王虎も超A級のスペシャリストだ。顧客の望む事を行い、顧客の望まない事は行わない。本来であれば、相談相手ぐらいになってやった方がいいのだろう。しかし、客がそれを望まないのであれば、立ち入るべきではない。彼女は俺達にとって「要人スネグーラチカ」に過ぎない。

朗らかながらも沈黙した食卓を囲み、俺が2杯目のウォッカを飲みほしたときだ。彼女は、ふいに話しかけた。

「あの、龍之介さんと王虎さんは…なぜこの仕事を受けたのです?」

スネグーラチカはきょとんとした表情で、それでいてどこか憂いを帯びた声で、訪ねてきた。

「金」「金あるね」

即答だった。嘘ではない。しかしその時の彼女の質問は、それで終わりではなかった。

「貴方達ほどの腕であれば、お金などいくらでも稼ぐ方法があるでしょう?それなのに、なぜ、このような危険な仕事をされているのです?」

俺達も余計な事を詮索される謂れはない。しかし、どこか思いつめたような彼女の声を聴いて、俺は王虎と目を合わせた。

「支那……いや、王虎の事情は知らないが……俺の生まれは武士、まあサムライだ。それも実家は古い剣術を伝える家でな、お前さんぐらいの時は親父にしごかれ、山に籠り、各流派を訪ねては吸収する生活を送っていたよ」

自然と、自分の話を語り始めた。これは彼女を哀れんだのか、それとも彼女の要請に答えたのか、それとも単にウォッカの酒精が回っただけなのか。

「15年前の戦争に参加してこの露西亜とも戦った。機関銃に守られた山地を攻めるという無茶な作戦でな、何回か死にかけた。戦争が終わり、内地に戻った時に、俺は気に食わない上官を斬り殺してお尋ね者になった。刀だけを持って世界を渡り歩き、気が付けば裏稼業ってとこだよ」

「そ、そうなんですか…龍之介さんも大変だったんですね」

「いや、俺には性に合ってるよ。楽しいさ」

「王虎さんは……?」

「私ね?」

同じく盃を傾け、煙管を吸っていた王虎はゆっくり答え始めた。

「生まれは貧しい農民ね。10になった頃にはワルになって村を飛び出してね、山東省の秘密結社に参加したよ。ありとあらゆる武術を身につけ、決起の日からは西洋人を襲撃する日々ね。北京にまで行って、西洋の軍隊と戦ったね。他の半端物と違って、私の義和拳はホンモノね。鉄砲も大砲も怖くないし、指揮官の暗殺だって余裕よ。でも皇帝が裏切ったね……」

王虎もウォッカを手酌する。

「それからは義和拳から離れ、中国各地の秘伝の拳法や道術を探る日々よ。十分な力がついたら、世界に腕を試しに出た。それだけね」

「凄い……龍之介さんも王虎さんも凄いのですね…自分の力で、世界を渡り歩こうと…」

「そんな大したことじゃない」

「ただそうにしかなれなかっただけね。まあ楽しいからいいね」

パチリ、と囲炉裏の薪が爆ぜる。露西亜の夜の帳に覆われた教会内を炎の光がゆらめき、照らす。

「……少しだけ、私の身の上話を聞いてくださいませんか?」

俺と王虎は、それを聞き、僅かに間をおいて答えた。

「好きにするがいい。語りたければ聞こう。語りたくなければ聞かん」

「サービス外だけど、ま、オマケしておくね」

少女はごくりと、手に取った紅茶を飲む。

「ありがとうございます。ええと、私の名前は言えないのですが……」

彼女自身が露西亜帝国に繋がる人間であること、両親と姉妹に愛されて育ったこと、革命が起こり家族と共に監禁されたこと、処刑される前夜に家族と帝室につながりのあったアンドレイによって自分と犬だけが助けられたこと、半年もの間アンドレイに匿われていたこと、今後決して自分の名前を出さず『スネグーラチカ』として生きていくよう言われたこと。

俺はウォッカを一口、口に含む。アルコール度数以上に熱く感じた。

「私は、スネグーラチカは、これからどうしたらいいのでしょう?今まで自分の周りにあったものが全て崩れ、どうしたらいいのか。貴方達のように自由に、鳥のように飛んで生きるれるのか、そもそも私は生き残るにふさわしい人間なのか、何故私だけ生き残ったのか…どうしても答えが思いつきませんでした……」

再び薪がパチリと音を立てる。

難しい話だ。俺も王虎も少女の気持ちなど考えた事もない。少しの逡巡の後に、俺はゆっくりと口を開いた。

「そうだな…その境遇について考えてみたけど、わからねえ。俺も答えは言えねえ。ただ、やってみりゃ良いんじゃねえかな?答えはそのうち見つかるかもしれんし、見つからないかもしれん。そんなもんじゃねえか?」

「天から授けられた使命、天命というものがあるね。でもそれは具体的にはわからないときも多いね」

「………………」

静かに聞いている。言うまでもないが俺や王虎など所詮は裏社会の人間、かしこまって聞く価値はない。それでも、スネグーラチカの悩みに答えるべきだと感じたからだ。

「それによ…俺だって旅順じゃ沢山の戦友が死んだ。俺よりもいい奴、凄い奴もみんな死んじまって、今こうしてヤクザな商売をしてる俺が生き残ってる」

「義和団の兄弟も、処刑されたね。逃げ出した私だけ、生き残ったね」

「生き残った理由なんてのは、俺達もまだ見つからねえさ」

「私達も、そんなモノね」

「とりあえず、落ち着いてから、ゆっくり考えてみたらどうだ?お届け先の『M』の旦那も、そう邪険には扱わんだろう。それでも悩みがあるなら…」

俺はコップに、ウォッカを注いでやり、スネグーラチカに突き出した。

「呑め。呑んで、吐き出して、泣いて、スッキリすればいい。疲れて眠るまで、聞いてやる」

「酒は人類の友ね」

「お、お酒……は……はい……」

ゆったりとした、細く白い手で彼女はコップを受け取った。そしてゆっくり、口に含み、僅かにむせ、そして意を決したように飲み干した。

「ぷはぁ……」

可愛らしい唇からウォッカが一滴垂れる。頬が上気している。そして、堰が溢れるかのように、泣き出し始めた。膝の上でまどろんでいた犬が、優しく彼女の頬を舐めた。

『Мари́я(マリア)』『Алексей(アレクセイ)』『Ольга(オリガ)』『Татьяна(タチアナ)』『Папа(お父さん)』『мама(お母さん)』という単語が聴こえた。

俺達は静かに押し黙り、ウォッカを継いでやりながら黙って聞き続けた。やがて、スネグーラチカは泣きつかれたのか、床にペタリと横たわって眠り始めた。

俺と王虎は彼女と犬を寝床に運び、それぞれの持ち場に戻った。俺は扉の前、王虎は鐘楼の上で周囲の警戒を続ける。露西亜の夜は恐ろしいほど寒く、露西亜の夜空は果てが無いほど深い闇を湛えていた。

翌朝、スネグーラチカの様子を見ると、何かすっきりしたのか、今までより表情が明るくなっていた。小さいながらも流石露西亜の女というべきか、二日酔いも無いらしい。露西亜を脱出するまではまだ遠い。いつか、彼女なりの答えを見つけてくれればいいが……。

翌日も晴れていた。寒さもそのままだが、日の光が少し暖かく感じられた。

それから幾日か進み続け、クバン河を超え、北カフカスを抜けた俺達の目の前に巨大な海岸に出た。雲一つなく晴れた空の朝日に照らされ、どこまでも続くかのような黒海だ。

「すごい……黒海ですね。また見られるなんて」

「後は迎えの船だけだ。大英帝国の反応はどうだ?」

「無線によれば、場所は特定したのでもうすぐ船が着くとの事よ」

迎えの船がくれば、そこでようやくこのクソ広い露西亜の大地とはおさらばだ。俺達はサモワールに湯を沸かし、海を眺めながら紅茶を飲んでいた。

やがて、水平線の向こうから小さな小型艇が一隻、こちらに向かってきているのを見つけた。動力船付きの小型ボートだろうか。商船旗も船首旗も掲げていないが、おそらく大英帝国のものだろう。流石、七つの海を支配するというだけはあり、船なら何でも問題なく調達できるらしい。

それと同時に、俺と王虎は異変に気が付いた。スネグーラチカには、一応気を付けるように注意しておく。

「北西方面からね。およそ4kmぐらい」

「結構数が多そうだな。およそ1万ほどかき集めてきたか。どうしても俺達を仕留めたいらしい」

「ま、結構、派手に関所破りを続けたからね」

やはり露西亜というのはいつの時代でも、兵の数を山ほど用意しているらしい。

波打ち際に小型の漁船ほどの大きさのボートがついた。なるほど、他国領海に侵入するにはうってつけの小型船だ。中から、あの『M』の旦那が出てきた時は驚いたものだ。

「御苦労だ。ミスター王虎、ミスター龍之介」

相変わらず、不機嫌そうな声と顔だ。

「あれ、『M』の旦那。てっきりどっかの英軍将校でもくるかと思ってましたがね」

「ああ、本来なら私よりも上位の人間が来るべきなのだが、流石に政情不安の場所にお連れするわけにもいかん。仕方なく、この小役人にお鉢が回ったということだ」

実にそっけない。しかし、今は無理矢理、笑顔を作ろうとしている。あの人間嫌いの『M』にしては珍しい。どうしたことだろうか。

彼はスネグーラチカを見つけると、そそくさと駆け寄り、静かに膝をつき、恭しく頭を垂れた。『M』が英国国王以外にこのような態度を見せるのは実に珍しい事だ。

「イギリス政府内閣府、マイクロフト・ホームズです。ジョージ五世陛下の代理としてお迎えに参りました。本来ならばより高位の者が伺うべきですが、何分政情不安な他国領内であり事情が事情です。平にご容赦を」

「いえ、お気になさらず。ジョージ五世陛下のお気遣いに深く感謝します」

スネグーラチカは穏やかに、感情を出さずに、それでいて礼儀を弁え感謝の意を表しつつ、答えた。

「Imperial Highness(殿下)…いえ、Grand Princess(大公女)とお呼びした方がよろしいでしょうか?」

「どちらでも、お好きに。それに、私はもうアナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァではありません。ただのスネグーラチカという名の女です」

「へえ、スネグーラチカ。お前、意外と凄いお姫(ひい)さんだったんだな」

「気品があるわけね」

「こら、失礼だぞ」

俺達は『M』(マイクロフト)にたしなめられたが、スネグーラチカはそれを止めた。

「いいえ、この方達、龍之介と王虎は私の……スネグーラチカの大事な……初めての友達です。どうぞ、お気遣いなく」

「はあ、そうおっしゃるなら」

「なるほど、朋友(パンヤオ)ね。それもまた善しね」

「ハハハ、マブダチって訳か。おっと、そうだ。『M』の旦那。ここから4キロほどの位置に赤軍が迫ってるぜ。数はたぶん1万」

「なんだって?!ええい、脱出を急がねば……今回のミッションの背後に英国がいると知られるのはあまりよくないな」

噂によれば、大英帝国国王ジョージ五世は露西亜帝室の亡命を考えていたらしい。だが、それは「大英帝国に革命の火種を持ち込まれては困る」という理由で、やめたそうだ。奴らはスネグーラチカの家族を見殺しにしたともいえる。

「なあに、そう慌てなさんな。いい方法があるぜ」

「私達がここで応戦している間に旦那達はスネグーラチカを連れて、逃げ出せばいいね。そうすれば、連中は彼女を護って戦っていると勘違いするね」

「馬鹿な。いくら君達とはいえ、1万の軍隊相手に勝てるものか」

『M』らしい、実に常識的な判断だ。だが俺達はスペシャリスト、常識など通用しない。

「そりゃあ、道理だ。でもよ、俺はまあ、そういう最期もいいんじゃねえかなと思うんだ。戦って死ねるなら本望よ」

「それに、私達も簡単には死なないね。あと少し戦い足りないね」

「お前達…有難く借りにさせてもらうぞ。スネグーラチカ様、どうぞ狭い船ですが、お乗りになってください」

「ええ、でも、少し待って」

スネグーラチカが俺達の元に駆け寄ってきた。美しい睫に大きく涙を貯めている。どうやら良いとこ育ちの彼女でも俺達が死地に赴くという事はわかったらしい。

「どうか約束していただきたいのです。まだ貴方達と話したりない。英国で、お茶をしながらお話をさせてください。約束ですよ」

約束と来たか。

「応、承った。親愛なる孫娘(スネグーラチカ)のために、このジェド・マロース、良いプレゼントとなる話を用意しておくとしよう」

「なあに、赤軍など私達の敵ではないね。良いカフェを用意して欲しいね。楽しみにしているよ、孫娘(スネグーラチカ)」

それを聞いたスネグーラチカは、にこりと、笑顔を見せ、黒い愛犬を抱え、すぐに船に乗り込んでいった。エンジンの音がかかる。

「さて、俺達も行くとするか」

「そうね。日本人に期待はしていないけど、3000は任せるね」

岸を離れていく船に背を向け、俺達は馬の背に乗り、赤軍一万に向かって、ゆるりと進み始めた。

今日は実に良い空だ。

黒海の海岸から1kmほどまで馬を進めると、徐々に赤軍の兵士たちが陣形を整えているのがわかる。凄い数だ。正に露西亜お得意の人海戦術(human wave)とでもいうべきか。

とはいえ、露西亜兵一万人と言えど、関ヶ原の戦いの十分の一程度。内戦および干渉戦争中で兵を出せる数が少ないとはいえ、スペシャリスト二人を止めるにはあまりにも兵数が少ない。俺達も随分とナメられたものだ。

連中は一気に突っ込んだり撃ったりするかと思えば、陣形を整えたまま動かない。率いている将校の統率が良いのだろうか?

そう思っていたときだった。遠くから大音声が聴こえた。まるで雷鳴のような、そして冷酷な声だった。

「帝国主義者の犬ども、貴様たちは完全に包囲されている。抵抗は無駄だ。貴様たちが匿っている女は反革命の大罪を犯しており、さらに党による思想学習の機会を蹴り、逃亡したため党は綱紀粛正のために家族を銃殺することになった。大人しく女を大人しく引き渡せば命だけは助けよう」

馬上で声を聴いた俺達はクスクスと嗤っていた。王虎と目を合わす。

「なかなか笑わせてくれる演説だな。ところで、見えるか?あのあばた面の男、どっかで見た覚えがあるんだが」

俺達の視力は修行によって大きく鍛えられている。数キロ先の看板の文字程度を認識することは余裕だ。視線の先には拡声器を持った髭の男がいた。

「当然よ。あれは危険人物ファイルに書いてあった男ね。ジュガシヴィリとかいう元神学生のグルジア人、レフ・トロツキーと並ぶレーニンのお気に入り、ロシア南部の軍司令官にして責任者、冷酷無比な『鋼の男』……確かペンネームを……」

ヨシフ・スターリン。だったか?ここでぶっ殺した方が世のため人のためになるような奴だな」

「遺憾ながら同感ね。んじゃ知らせてやるとするね」

同時に、俺達は大きく息を吸い込む。武術による呼吸法によって、俺達は拡声器などを用いずとも数キロにわたる大声を上げる事ができる。

「かかってこい!!!」

「相手になってやる!!!」

王虎と俺は挑発的に叫ぶとともに馬を蹴り、一気に露西亜兵の横隊に突っ込んでいった。同時に赤軍にも号令がかかり、M1891モシン・ナガンから放たれた7.62mm×54Rの嵐が俺達に襲い掛かってきた。

俺達は馬首を少し返し、そのまま宙に飛び跳ねて回避し、さらに着地して地を伏せるように駆け出す。馬を必要以上に殺す趣味は無い。連中を殺すのに馬など必要ない。ただ刃(王虎は拳だが)さえあればいい。

「урааааааааааааааааааааааааааа!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

連中は大音声で露西亜兵おきまりの声を上げながら着剣して突っ込んできた。露西亜兵は伝統的に近接戦闘が好きらしい。俺達にとっては銃弾よりも楽しめる。

駈けながら銃弾をかわす、抜刀して弾く、頭を低くして避ける、遠方から狙ってきた散兵の狙撃手の弾を刀で弾く、大きく左右に踏み込みを行ってM1904 152mmカノン砲の砲弾をかわす。全くの無音、呼吸も乱れていない。この程度は朝飯前というものだ。

もう兵の列は目の前、お楽しみの時間の始まりだ。俺は刀を構える。

スパリ、スパリ、ズブ、スパスパ、ズブリ。

踏み込みと同時に、瞬時に一帯にいる赤軍兵士達全ての喉笛を掻き切り、心の臓に突き立てては抜く。動揺する暇すら与えぬ。

続けて数が多いゆえ纏めて太刀の大振りで数人の胴体を切断する。ここまで無音、声を上げず、息すら荒立てる必要もない。

ここで漸く、赤軍兵士達もたった一人のサムライに縦隊を血と肉のぶつ切りに変えられたことに気が付いたらしい。だがもう遅い。俺は血に塗れた地を蹴り、駆け出すとともに、次の一団に向けて斬り込んだ。

兵士達も異常に気付き、恐怖に混乱する者・逃げ出す者・激昂して突っ込んでくるものなどバラバラに動き出した。指揮が取れていない。旅順で戦った兵士達は極めて優れた統率だったが、赤軍は士官と階級を廃止したと聞く。それでは俺達は止められない。俺はその連中の首や胴体をまとめて切り刻んでやった。

しばらくすると連中は遠距離から兵士達を切り刻んでいる砲弾を撃ち込んできた。どうしても俺を殺したいらしい。だが当然そんなものは俺達にはお見通しだ。素早く兵士の死体を蹴り、殺傷範囲外に逃れる。後に残された兵士達は砲弾でバラバラにされ吹き飛んでいった。愉快痛快、手間が省けるというものだ。

王虎はというと、最初の方は銃弾をかわしながら拳を叩き込んだり、銃弾を蹴りで消力(シャオリー)で無効化しつつそのまま膝で赤軍兵士の顔を吹き飛ばしたり、空中で砲弾を足で蹴飛ばして跳ね返し砲台陣地を吹き飛ばしたりしていたが、いい加減数が多く面倒になってきたらしい。

「ちょっと時間がかかりそうね。ならまとめていくね。廻天金鳥脚を披露するかね」

僅かに跳び上がると同時に、瞬時に態勢を整え、頭を下にして連続で旋風脚を繰り出す中国拳法の秘奥中の秘奥、またの名を『スピニング・バード・キック』だ。中国広しと言えど、現在では使える者は100人を超えないと聞く。ましてや王虎のそれは回転する脚の一本一本が屠殺工場の首狩り機と変わらない。あっという間に兵士のいた陣地は血の海になり果てた。

「おいおい、こりゃあちょっと弱すぎるぜ」

「10分ほどで3000人ほどは殺したね。時間の問題ね」

「スターリンの野郎、ちょっと俺達を舐めてるんじゃねえか?」

「なら舐めたオトシマエをつけさせるだけね」

その時だった。俺は脛を、王虎は上腕を銃で撃ち抜かれた。全くあらぬ方向、無警戒だった場所、先ほど俺達が皆殺しにした血塗れになった雪上の方向からだ。俺と王虎はそちらを振り向くと、有り得ぬもの達がいた。

それは血塗れの赤軍兵士達だ。あるものは頭がつぶれ、あるものは頭が吹き飛んでいる。それなのに、銃だけはしっかりと持っている。そんな奴らが30人ほど、いや、次々に起き上がってきている。馬鹿な!露西亜人とは妖怪の類か?そんなはずはない!痛みに耐えながら思った俺達の耳に、拡声器越しの『あの癪にさわる声』が聴こえてきた。

「君達の武術は見事だ。だが、君達はまだ『共産主義』を知らない」

徐々に、良く晴れていた露西亜の空が曇ってきた。これは吹雪き荒れるかもしれない。

不敵に嘲笑うような、拡声器越しのスターリンの声が聴こえる。腹が立つような、実に忌々しい声だ。

「反動達に教えてやろう…この愛国的な兵士達がどうして死してまた起き上がり、死してなお帝国主義者である貴様らと戦い続けるのか。カール・マルクスはヘーゲル法哲学批判序論において『宗教は民衆の阿片である』と述べ、共産主義において宗教を否定した。ロシア共産党指導者ウラジーミル・レーニンマルクスの考えを発展させた。つまり…」

聞いてもいないのに奴は演説のようにしゃべり続ける。俺と王虎は、前方の生ける赤軍兵士の弾丸を避けつつ、後方の死した赤軍兵士の突撃をいなし、銃弾を避け、手榴弾を蹴り返しながら、その演説を聞いてやることにした。

「共産主義とは最も洗練されたアンチ・キリストなのだ!」

なるほど、点と点が線でつながるように、合点がいった。王虎も目から鱗が落ちたような顔をしつつも、理解できたようだ。それならば赤軍兵士がゾンビーとなるのも当然だ。

かの有名な『共産党宣言』は有名な一文から始まっている。

一つの悪魔が欧州に現れている、共産主義という悪魔が。旧欧州のあらゆる権力が、この悪魔に対する神聖同盟を結んでいる。

この魔導書を著したカール・マルクスとその協力者フリードリヒ・エンゲルスが稀代の暗黒魔術師であった事は裏の世界では常識だ。彼らは普魯西白耳義、仏蘭西や瑞西から追放される憂き目にあったのも当局から黒魔術の行使を問題視されたためと言われている(いまだ神代の神秘が色濃く残り、魔術に関して理解のある大英帝国では排斥されなかったのは人類にとって幸か不幸か)。

もちろんマルクスが伝えた共産主義黒魔術の中には死霊魔術(ネクロマンシー)、すなわち死した人間の肉体からゾンビやスケルトンを、魂魄からゴーストを作り出し究極のプロレタリアートを作り出す術も当然あったのだろう。死霊魔術とは耶蘇の復活をも否定し弄ぶものであり、それらは宗教を否定するアンチ・キリストたる共産主義者こそが使役するに相応しい。それらはインターナショナルなる共産主義者の秘密組織にて密かに伝えられ、やがて『シンビルスクの魔王』の異名をとる天才魔術師レーニンらの手に渡り、そして彼が露西亜にて権力を奪取するために存分に使われたのではないか。

ヨシフ・スターリンもまた秘奥を伝えられたレーニンの弟子筋にあたる死霊魔術師という事か。ゾンビと戦いながらようやく事態を理解したころに、スターリンは俺達に向かって得意げに言い誇った。

「君達が戦っている赤軍兵士達1万人は死してもなお転生して党の命令に服し、帝国主義者達と闘争を続けるのだ!つまり1万の兵士は10万……いや、100万の兵士に匹敵する。さあ、同志達よ。党の敵を屠るのだ!」

冷酷にして非道な髭の男は続けて、呪文の詠唱に入った。冒涜的で、地獄めいた共産主義死霊魔術の呪文をだ。戦いながらもその声を聴くとぞくりとする。ガラス窓を鉄釘で擦りつけるような、生理的嫌悪を引き起こす声だ。俺はスターリンの魂が地獄の悪魔と契約しているか、もしくはスターリン自身が地獄からきた悪魔であるかのどちらかである事を確信した。

「ソビエトロシアでは兵士は畑で取れる。一人の人間の死は悲劇だが、. 百万人の死はもはや統計である。投票をする者は何も決定できず、投票を集計する者が全てを決定する。愛や友情はすぐ壊れるが、恐怖は長続きする。神は貴公の味方か、悪魔は私の味方だ。マルクス・レーニズム、マルクス・レーニズム、党は求め訴えたり!

戦場のあちこちの地面に、鎌とハンマーが描かれ深紅の光で禍々しく輝く多数の魔方陣が顕現していく。それと同時に、地獄の業風もかくやと思われる瘴気、血と鉄と硝煙の臭気があたりに立ち込めていく。

次々と、血の海から『真っ赤な赤軍兵士』達が起き上がってきた。今までの速度とは比にはならないほどの大量のゾンビ兵士、スケルトン兵士、フレッシュゴーレム兵士、ゴースト兵士が、死体の山の中から次々と現れていく。奴らはただのアンデッドではない。銃を持ち、手榴弾を腰に構え、地獄の業火の如き砲兵陣地の苛烈な援護によって前進を続けるアンデッド赤軍兵士なのだ。

地獄が具現化したと思われるほどの漂う瘴気のせいか、極寒の雪原だというのに冷や汗が止まらない。だが同時に、俺の口角がニヤリと上がる。

王虎は震えていた。おそらく武者震いであろう。その証拠に、その瞳は爛々と輝いている。まるで新しいおもちゃを見つけた少年のようだ。

「いやあ、参ったな」

「困るね。実に困るね。相手が人間の兵士ではなく、化物だなんて、困るね」

「化物相手なら手加減はいらねえよな。すまねえが、少し時間を稼いでくれ」

「そうね。本気を出して良さそうね。早めにして欲しいね。じゃ、お先に失礼……応!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

裂帛の気合と共に、王虎が全身の気功を放出した。今までの俺達は『相手が人間だから』という理由で本気を出してなどいないのだ。支那人は太極拳の発勁を繰り出し、片足を上げ、力を溜める。(発勁とは超常の力などではなく、中国武術における「伸縮や重心移動の力」を指す言葉だ。ただし、表の世界では)

そのまま凄まじい勢いと爪先から踵まで輝くほどの功夫を纏った足を大地に踏み降ろした。八極拳における震脚だ。(多くの武術における踏み込みと同じものだ。ただし、裏の世界では少々効果が追加される)

踏み込んだ足を中心に光り輝き、やがてそれは数本の線となって幾何学模様を描きながら巨大な陣を地面に作り出していく。それはまたたくまに半径500mにも及ぶ黄金八角形の図象を露西亜の大地に描き切った。

これぞ師父より伝えられし禁八大招式・八卦浸透勁!!!!七孔噴血、撒き死ぬね!!!!

太極思想による気功を得意とする太極拳、八卦の形を特徴とする八卦掌、そして超近接距離の強打を特徴とする八極拳と仙術・道術を融合し、それぞれの利点を組み合わせ相乗効果として「周囲一帯の地面から」「複数の対象全てに」「至近距離の強打」を撃ち込む王虎の秘奥だ。

「「「「「「「дееееееееееерьмоооооооооооо!!!」」」」」」」

地面から放たれた黄金色の強打の嵐に、悲鳴を上げてアンデッド赤軍兵士達は悲鳴を上げながら弾け飛び、二度と復活できないよう細胞・魂魄の一片までも粉々に砕かれていく!正に広域・一撃必殺、予備動作である震脚の時点で相手を殺すこの拳が『无零打』(ぜろうちいらず)という王虎の異名の由来になっただけはある。

僅かな隙の間に、こちらもひとつ本気を出すとしよう。俺は血塗れの刀を目の前に構え、静かに瞳を閉じる。耳元を銃弾が所謂が掠めるが、やがてそれらの雑音すら無になるほど深く集中していく。

これは出雲の古い道場(もちろん道場破りの戦利品だ)に伝わる『心の一方』の類型である自己催眠の術だが、規模がちと違う。十分に境地が整ったと感じれば、即座に祝詞を唱える。

「天つ罪と畦放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸、許多の罪。許多の罪出でむ……いざ参れ、この身に降れ神須佐能袁命

神道や修験道でいう大祓詞の前半、スサノオ神が犯した罪、すなわち天津罪の名を唱え、罪人たる神を降ろす。脳の奥が激しく痛み、内臓が悲鳴をあげ、筋繊維が少しずつ弾け切れていくのがわかる。俺が俺でありながらも俺でなくなっていく。

凄まじい痛みと共に、目を開いたとき、俺の視界はまるで違っていた。全てが止まって見え、ありとあらゆる距離が自在と思われ、どこか知らぬ場所から全身に燃料が投入されているが如き力が漲ってきた。これが神降ろしによる神との合一、己が身を荒ぶる神スサノオと同じ存在とする禁術中の禁術だ。ああ、滾る!俺はたまらず叫んだ。叫ばねば、力を放出せねば人の身にはあまる莫大な力の逆流でこの身が焼かれてしまう。

『ウオオおオオおオおオおオオおォぉォぉォ!!!!!!!』

自分でもこの世の者とは思えぬ声で叫びながら、刀を適当に振り下ろすと、轟音と共に剣の切っ先から凄まじい衝撃波が放たれ、赤軍兵士の戦列を吹き飛ばし、背後の砲台陣地すら木っ端微塵に打ち砕いた。

まだだ。まだ足りぬ。もっと贄を寄越せ!俺はさらに大上段に構え、渾身の力と共に技を放とうとした。この神を身に宿した状態でなければ放てぬ大技、荒ぶる破壊神の力とその神が殺戮した日ノ本の化身にして八つ首の龍王の力を同時に操る人の身には余る技だ。腕の、そして全身の筋繊維がぷちぷちと音を立てて切れ、骨すらバキバキと折れ、それを有り余る力で強引に再接続していく。ああ、脆い。人の身はなんと不自由な事か。

『シィィぃねェぇぇェェぇェ!!!!!八頭龍の太刀、キぃえぇェぇヨォォォ!!!!』

全身全霊を込めて、大地に刃を振り下ろすと、先ほどの数倍もの威力を持つ八本の荒ぶる龍の形をした衝撃波が地を迸り、絡み合い、再び岐れ、四方の露西亜兵を切り刻み、吹き飛ばし、捻じり、生者も死者も区別なく死を与え、荒れ狂った。

「相変わらず技の威力『だけ』は馬鹿げたものね。およそ3000人は葬ったかね」

いつの間にかすぐ近くまで来ていた漢人が減らず口を叩く。全く持って不敬で不愉快な奴だ。敵兵士達を殺し尽くしたらお前も殺してやる。とはいえ、技を放ったことで少し体内の力の緊張も緩まった。俺は親切だから奴に訂正してやる事にしよう。

『違ウ。正確にハ、2898人ダ。生者が1678人、死者ガ1220人、全員根ノ国に返シた』

「しっかり観測と計算ができるとはずいぶん頭もよくなったみたいね。ま、それはともかく、あのスターリンとか言う奴、生かして返すかね?」

『当然殺ス。漢人ヨ、俺ニ合わセろ!』

「遅れたら置いていくね。しっかりついてくるね」

漢人は瞬時に構えを取り、一泊置いて、この神の瞳を以てしても瞬間移動したような速度で背後の死霊術師めがけて突っ込んでいく。凄まじい勢いの突進であるとともに、周囲に拳と脚の嵐を見舞い、守りに入ろうとした兵士達を塵に返していく!

あの技は知っている。昔、漢人から聞いて知っている。夏王朝にて編み出された原始太極拳の奥義、太極両義十三勢八億門五兆歩!八卦の理にてあらゆる空間と時間を自在に見極め、力とする究極の拳法にして仙術、今や修練のための型のみしか残っていないと聞く。

なるほど、あの漢人も人の身に過ぎる武を身に着けておるか。これは後で殺すのが楽しくなりそうだ。だが、あ奴に舐められるのは腹が立つ。舐められたら殺す。全員惨たらしく殺す。こちらも奥の手を出してやろうではないか。

あの死霊術師めがけて左手をピンと伸ばし、照準に捕らえる。右手の剣を左手に添え、渾身の力を込める。一呼吸後に力を解放し、一気に突進を開始する。

『消え失せヨ。天照大御神弑逆の太刀、ウおオおオおオオォぉォォ!!』

暗殺に適した超高速の突進からの平突き、剣術ではよくある単純明快な技ではあるが、その力も速度も桁が違う。これぞ憎き姉を殺すためだけに鍛え上げた神殺しの剣だ(なんやかんやあって殺せなかったが)!

触れる…いや、突進の射線付近にいた敵兵士を瞬時に血煙にあげながら、腹立たしい漢人の突進においつき、あの忌々しい死霊術師の喉元めがけてぐんぐんと距離を一気に詰める。

狼狽する死霊術師の顔が見えた。これはいい気味だ。

「馬鹿な!何故だ!?なんだ貴様らの力は!?異常ではないか!こちらは1万以上の兵と共産主義死霊術があったんだぞ?!」

『馬鹿メ!俺ヲ殺すナラ師団規模じゃ足りネエんだヨ!死ネ!!!』

「最低でも一個軍集団ぐらいは持ってくるね……地獄で反省するね!」

「有り得ぬ!そんな力がありながら何故権力を欲しない?!なぜ殺戮するだけの力を持ちながら、支配しようとしない!?」

『貴様ノようナ俗物ニ武神ノ心ハわカラんダろうサ!』

「私達は自分の強さしか興味がないね。権力?思想?何それ、食べられるね?」

「お、おのれ!ソビエト共産党ばんざぁぁぁぁぁいいい!!!」

俺の剣が奴の頭を、漢人の拳が奴の胴体を、9の9倍の9倍の破片へとバラバラに砕くと同時に、細胞の一片まで滅ぼし尽くす!

それで、その冷酷な死霊術師は終わった。

馬鹿め。権力や財力で支配するなど二流の男がするものよ。一流の男なら刀一本・拳一つで支配してこそだ。

だが、おかしい。何かがおかしい。

剣の刺さった感触にどこか違和感を感じる。どうにも奇妙だ。漢人も怪訝な顔をしていた。

「こいつも……死霊術で死体から作り出した屍肉人(フレッシュゴーレム)……影武者ね」

『な、なンダとォぉォ!影武者たぁしゃらくせええええぇぇぇ!!!」

それと時を同じくして、全身から力が抜けていく。痛みが走る。傷口から血が噴き出る。俺は神降ろしの術が切れた事を悟った。それは神降ろしによって強引に立っていた状態が解除されるという事だ。ばたりと、地面にあおむけに倒れる。曇天に僅かに途切れ、切れ目から陽光が俺達を照らし始めた。

ああ、全身が痛い。背中に当たる露西亜の大地が冷たく堅い。もう一歩も動けそうにもない。幸いにしてアンデッドどもは全て地に帰り、残った赤軍兵(およそ100人以下だが)は恐怖で逃げ出し始めた。だが、これはもう動けない。

「日本人……いや、龍之介、おまえ、もう死ぬね。人の身に余る力、使い過ぎたね。私、わかるね」

王虎の呟きが聴こえる。しかしながらその王虎も、俺のすぐ近くで、同じように転がっている。奴もあの拳術は身体の限界を超えていたのだろう。

「ケッ、うるせえ王虎。お前も功夫の使い過ぎで、同じ様子じゃねえか。こりゃあ命脈が尽きたな」

「相変わらず口が減らないね」

「お前にだけは言われたくねえ」

ぜえはあと、呼吸が苦しくなる。ごぽりと肺の奥から血の塊が出て、一気に吐き出す。これは本気で苦しい。奴の言う通り、限界を超えてしまったのだろう。

「ま、でも……スターリンの野郎はぶっ殺せなかったけど……楽しかったなぁ、王虎」

「そうね……実に、楽しかったね。とは……いえ、龍之介、私ひとつ……心残りね」

「ああ、俺も心残りが……ある。嘘、つい……ちまった……なぁ」

俺は黒海に溶けだしそうな色の、露西亜の曇り空を眺めながら、あの『孫娘』の顔を思い出していた。

1919年4月、大英帝国。13時頃。倫敦には珍しく良く晴れた日。

倫敦の中心部にあり、大英博物館などが存在する高級文教地区ブルームスベリー。

王侯貴族に愛される隠れた名レストランの二階席。

窓の下には、狂気じみた大戦争が終わってようやく学業に精を出し始めた学生たちが通りを歩いている。俺は葡萄牙産のワインを傾けながら、のんびりとそれを眺めていた。平日昼間から酒を飲んで、衆生を眺める……これぞ真の男の楽しみよ。いい気分だ。

仏頂面をしながらハイランドのウイスキーが入った杯を手にした王虎がテーブルの向かいにいなければ。

「なんでお前、生きてるね」

「お前が俺に生還を諦めさせて、報酬独り占めを狙ってたのは知ってたぞ」

「龍之介も同じようなことを言ってたよ。日本人、やっぱりずるいね!」

「ああ、もううるせえ。怪我に響く。黙れ」

「あの時とどめを刺しておけばよかったよ。次は殺す。スターリンと一緒に殺す」

「やれるもんならやってみな、返り討ちにしてやるよ。おっと、怪我が治ってからにしろ」

俺達はあの後、当然のように足を引きずりながら歩いて帰ってきた。まあ滅茶苦茶身体が痛かったし、死ぬかと思ったが、運よく(運悪く)お互い死なずに倫敦まで辿り着いた。畜生、今に見ていろ。身体が治ったらぶっ殺して俺のスペシャリスト番付を1つあげてやる。

ああ、気分が悪い。そう思いながらワインを喉の奥に流し込み、窓の外を眺めた。その時だ。通りにいた黒い犬と目が合った。同時に犬がこちらに向けて、けたたましく吠え始めた。腹の立つ犬だ。だが、どこかで見た事のある顔の犬のような。

飼い主の、上品な服を着た帽子の女が犬を抱え上げる。そして帽子を取り、こちらを見る。ああ、なるほど。

間も無く階下から「お客様、困ります」という声、そしてドタバタと足音を立てて『懐かしい何か』が二階席に駆け上がってきた。上品に纏めた金色の髪が、派手ではないが質の良い服が、実に良く似合っている。

「ちょっと!龍之介さんに王虎さん!無事、帰ってきてるならそう言ってくださいよ!何か月たったと思ってるんですか!?私、心配してたんですから!」

犬を抱えた『孫娘(スネグーラチカ)』は随分と御立腹のようだ。

「いやあ……その、今帰ってきたばっかりで。なあ、王虎」

「そ、そうよ。今から探しに行こうと……ね、龍之介。いや、孫娘(スネグーラチカ)も元気そうでよかったね」

嘘だ。俺達は明日にでも船に乗って景気のいい亜米利加にひと稼ぎ行こうかと考えていた。

『孫娘』は頬を膨らませながら、テーブルにつき、グラスを一つ手に取る。

「ええ、あれからホームズ卿と国王陛下の御厚意でこちらに辿り着き、新しい戸籍もいただきましたとも!そんなことより!ともかく!約束通り!お話を聞くまで逃がしませんからね。まずは、お酒!無事帰ってきたんだから!乾杯!しないと!」

早速酒を催促し始めた。名を捨ててもやはり露西亜の女らしい。俺達は苦笑いをしながら、彼女のグラスにウイスキーを並々と注いでやった。

「遅刻魔で連絡を寄越さないジェド・マロースに!」「可愛い孫娘(スネグーラチカ)に!」「乾杯!ね!」

あとがき

お疲れ様でした。お読みいただいた皆様にまずは感謝を、そして快く参加を受け入れていただいた主宰者の桃之字様と他のExcitingなパルプ・スリンガーの皆様に深い敬意をお示しいたします。

くるしまと申します。知っている人はどうもご無沙汰しております。知らない人は初めまして。いつも胡乱なものを書いていますが、「パルプ楽しいなあ。でもちょっとまだまだ腕が足りないなあ。腕を磨いてみたいなあ」と思い、今回は飛び入り参加させていただきました。まだまだパルプ初心者ではございますが、他の参加者様の作品を楽しみながら学んだり(パクったり)させていただいております。

今回は「出だしのインパクト」「物騒な世界」「常識外れの二人組」「強大な悪役」「ズババババッサリ感」「凄いアレなオカルト描写」「ソ連」「大勝利!希望の未来にレディー・ゴー!」「ブリカス」「ヒロイン」などをなるべく意識してみました。未熟ではありますが、未熟なりに、アクセル全開ブレーキ破損の全力を出しきってみました。悔いはない。とても、とても、書いていて楽しかったです。あらためて深い感謝を。

まだまだこれからがパルプアドベントでございます。皆様もぜひ楽しい聖夜を、そして氷点下のシベリアをも溶かす熱いMexicoの風、そして美味いCoronaの一服の在らんことをお祈り申し上げます。

PS.普段はこんな胡乱な奴書いてます。