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沈黙のグラデーション

ご勘弁、と思った。

大荷物で、大雨に打たれ、膝まで水に浸かりながら、わたしは異国にいる。


ベトナム、ハノイ。

一人旅、トランジットで一泊だけ訪れたそこは、雨季にしても珍しいくらいの豪雨だった。

空港からバスに揺られ、市内についたところだ。太い雨が景色を覆い、数メートル先さえも見えない。

Googleマップによると、ゲストハウスまで歩いてほんの3分なのだが、その3分も耐えられないだろう。

かといってこのままバス停に突っ立っているわけにもいかないので、わたしは向こうの路地に見える僅かな軒下まで、思い切って走ることにした。

しかし、せーの で道路を渡ろうと一歩踏み出した途端に、悲劇は訪れる。

ドボン。

水溜りにはまったのだ。思ったより深い溝が、運悪く一歩めにあった。こうして私は、膝までびしょ濡れになってしまった。


ご勘弁。

ため息を吐きかけたそのとき、となりでまた、ドボンが起こった。

見ると、バックパックを背負った女性が、同じように水溜まりにハマっている。彼女はたぶん、小声で「Jesus!」と言った。わたしの「ご勘弁」と似たニュアンスなのかもしれない。

そうしてわたしたちは束の間の悲劇の共有者となり、苦笑いで顔を見合わせ、どこか気まずい調子で、おそるおそる向こう側まで歩いたのだった。


僅かな軒下で、身を細くして雨宿りをしている。わたしたちは幾らかの時間沈黙していた。こういう時に気まずい雰囲気になるのは万国共通なのだなと思いながら、わたしはいつまでもズボンの裾を絞っていた。


ざあ、ざあ、雨が降り続いている。

「Hi」

「Hi」

同じタイミングで限界がきたのか、どちらからともなく挨拶を交わし、雨から相手の顔へと視線を移す。

わたしは初めて、彼女の青い瞳を確認した。今、空がこんな色だったらいいのに、と思うような、よく澄んだ晴れやかな青だった。茶色い巻き毛は雨に濡れて、白い肌に張り付いている。

意外と、幼い。

少女とも大人ともつかないような危うげな愛らしさがあった。

たぶんわたしよりうんと歳下だけど、彼女もこちらをそう思っているに違いない。日本人は、たとえ20代後半でも、海外ではいつだって少女に見える。

そんなことを考えつつ しばらくぼうっと見ていたが、彼女の戸惑いを感じて、 この観察がいささか無遠慮なことに気がつく。わたしは寒さに震えだす唇をなんとか押さえ、口角を上げて、スマホを示した。わたしの宿はここなのだけど、この雨だから。

そうすると彼女もスマホを出し、同じようにマップアプリを見せる。ワタシも宿まで5分だけど、これじゃあ15分はかかるわ。

ね、という感じでお互い眉をあげ、わたしは〈やれやれ〉の表情もおそらく万国共通なのだなと学んだ。

ぽつり、ぽつり、と、会話を続ける。

彼女はオーストラリアから来ていて、世界一周旅行の最中なのだということ。ここはまだ3カ国目なのだということ。

わたしも話す。日本から来て、ここへは一泊だけすること。明日の朝にはバンコクへ発つこと。できればドンスアン市場を見たいこと。

そしてまた、沈黙。

しかし、お互いのことを少しでも知った上での沈黙は、それほど苦しいものではない。

雨は、まだ、降っている。
今度の沈黙では、雨の音と交通の音とのハーモニーを楽しむ余裕があった。ざあ、ざあ、ブロロロ…と、奥に響く。


彼女のほうが、先に口を開いた。雨のハノイもきれいね。

たしかにきれいだ。わたしは大いに同意してみせた。彼女の純粋な視点がちょっとだけ うらやましかったが、そんなことより本当に、雨のハノイがすてきだった。

その次の沈黙はさっきより少し長かったが、それは苦しくないどころか、良いものへと変化していた。

外の音は幾十にもかさなって、シンフォニーのような盛り上がりをみせている。

わたしたちは黙って、その美しい景色を沈黙のままに聴いていた。


その次に彼女は、飴、いる?と、異国感のある飴を差し出した。派手なパッケージのカラフルなソフトキャンディだった。

ありがとう、と口に入れて、出会ったことのない香りに驚く。あわててパッケージを確認しようとしたが、彼女はそれを すでにバックパックに仕舞ってしまっていた。

味を聞けばよかったのだけど、ギブアンドテイクの精神が先行してしまい、わたしも何かあげなければとバックパックの中を見てみる。

何もない。おやつ昆布や干し梅を持っていたらよかったのに。

代わりに、旅先で子供に会う機会があればと持っていた鶴の折り紙を、そっと彼女に渡す。

今思うとちょっと子供じみていたかもしれないが、彼女は喜んで、その羽を丁寧に弓なりに広げた。

そうして、くちばしを向こう側にして、グレーの空に向かって飛び立たせるジェスチャーをする。

わたしは笑い、彼女も笑った。

やっぱり彼女は少女なのだ、とわたしは思った。

その間ずっと会話はなかったが、その沈黙は良いというよりむしろ、甘美なものだった。

口の中にある飴が何味だかわからないが、同じくらい甘い時間だった。

沈黙のなかで音は、わたしの意のままに踊り出している。わたしは ほとんど、音楽を俯瞰する指揮者だった。世界のいろいろなことが、今なら分かる気がした。


いつの間にか、雨は少し弱まっていた。

その次に彼女が口を開いたとき、それはお別れのあいさつだった。時は来たり、といったシャンとした感じで、もう行くわ と彼女は先に軒下を出た。

後ろ姿に向かって、「Good luck!」と声をかける。

あなたも、と少女は振り返り、二度ほどドボンと水溜りにハマりながら、向こうの角を曲がっていった。


わたしもその後すぐに、これまでの十分弱を反芻しながら、宿へ向かった。

慎重にドボンを回避しつつ、一歩ずつゆっくり進む。

ちょうど記憶を一周し、この出来事を誰かに伝えたいと思いはじめた頃、ふと口の中の飴がなくなっていることに気づいた。
その味の正体が到頭わからなかったことを、わたしは一瞬残念に感じたが、しかし同時に ある別の事実に思い至り、興味を移す。

あたたかい。

からだが、あたたかいのだ。雨で、それも土砂降りで、膝から下はさっきまで水に浸かっていたというのに。

雨たちの合奏にまじって、自分の鼓動も聞こえはじめる。駆けたくなるようなその高揚感を、わたしは知っていた。久しぶりだったので、自分がその状態にあることにすこし面食らった。

それは、自分にとって、もっとも人間らしい衝動であり、同時にどこかに失くしていたものでもあった。

創作欲だ。

からだのあたたかさに、少女の記憶を思い出す。

あの頃のわたしは、なんでもないことを努めて書き残し、それをあとで、ささやかな言葉にして楽しんだ。そういう ひとりの時間を通して、世界はどこまでも広がっていた。

ところが社会人になってから、書類で溢れたバッグに、不確かなノートの入る余地はなくなった。毎日を滞りなくこなすには 向こう一ヶ月の予定を書いたスケジュール帳のほうが大切だったし、大人になるってそういうことだと思っていたのだ。

だけど、そうして大人になり、まぶたを閉じたとき、そこはもう暗闇でしかなくなっていた。わたしはそれを寂しく思いつつも、毎日の忙しさにかまけて、目を逸らしつづけてきたのだった。

逃げるようにしてきたのかもしれない。この異国でいま、わたしはひとりぽっちで、広い世界にいる。

しかしその美しい事実が、少女の頃の楽しみに、自然と重なっていた。

皮膚を覆う冷たさに、もう自分を合わせなくていい。

また、自分の体温にだけ正直に、生きていける気がした。


目についた土産物屋に入り、ノートを買う。

まっさらなノートは数年ぶりだ。白が眩しい。

そして わたしは すこし考えて、一ページ目の一行目に、こう書き留めた。

沈黙のグラデーション




その響きは確かな光となって、胸の芯にやさしく灯った。

それは、わざわざ書き残すには地味な題材かもしれない。ただ、わたしが数年かけてじっとりと蒸発させてしまったコップの中の水を、また注ぎ入れるのには十分だった。

心地よい雨が、音が、体内に溜まっていく。

さっきの「Good luck!」がもう返ってきたなと、わたしは感じていた。
だけど この先きっと、もっといいことが待っているような気もした。

下につづく余白が、愛おしい。そこが のちに、作品になることを待つ言葉たちで溢れることを、このときのわたしはまだ知らない。


宿に着いた頃には、空の端っこは、晴れの可能性を見せていた。ざあ、ざあ、は、さあ、さあ、に変わっていた。

扉に手をかける。

口の中は、まだ甘ったるかった。


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本エッセイを書き終え、[沈黙のグラデーション]に 二重線を引く。微かに雨の匂いのする紙を撫ぜる。あい変わらず地味な話だと思いつつも、私はこのエピソードを気に入っていた。あれから2年。わたしのノートは、もう3冊目になる。

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