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配給米5キロ

夕方、念入りに化粧をする母を眺めるのが好きだった。

ファンデーションを塗り眉毛を描く。付けまつ毛の根元に小さなチューブで白い接着剤を付け、目のきわにのせる。赤い口紅を紅筆で塗り唇を合わせ、ついでに頬にも少し口紅をのせてのばすと、頬紅になった。

段取りよくスナックのママが作られていく。化粧が仕上がっていく母の顔から、闘いに挑む緊張感を感じるからか、夜に母を送り出す不安からか、母の顔が美しく仕上がっているのか?私には分からなかった。

母は、家から車で30分くらい離れた町で、一人小さなスナックを営んでいた。もともと愛想の良い母は、自分の店を持つのが夢だった。

〝和風スナック〟というコンセプトの店だからか、和服で店に立つことも多かったし、ちょっとしたツマミなどは割と上手に作っていたようだ。

何度か店に遊びに行かせてもらった時、小学生だった私は、母が夜の女としてよそのおじさんたちに艶かしい笑みを浮かべながらお酌をする姿に、複雑な気持ちになった。

店で見る母は輝いていたし、得意の歌を楽しそうに披露していた。母にとっては夢を叶えていたときだったのだろう。

開店してしばらくの間は、店はそれなりにお客がついて繁盛もしたらしい。母も若く、5人の子どもを育てながらも両立していたんだと思う。

子どもたちの授業参観や入学式、卒業式などに着物を着てきて、友だちからきれいなお母さんと言われたこともあった。ママさんバレーにも積極的に参加したりと、まともに寝る時間などなくても母は生き生きしていた。

羽振りの良くなった母は、子供たちに習い事をさせたり、ピアノの発表会には娘4人にデパートで買ったドレスを着せた。盆暮には親戚が順番に狭い我が家に遊びに来ては、盛大に振る舞っていたので、人の集まる家だったし、母は親戚からも頼られる存在だったと思う。

店に行くのには、父が仕事から帰宅して夕飯も食べずに車で送ることもあり、今思えば父は文句をいいながらも協力していた。

もともと時間にルーズな母は子育てとの両立の負担も重なり、徐々に開店時間が遅れたり、定休日以外にも店を開けられない日もあったりして、常連さんの足は徐々に遠のいていった。

店が傾きはじめると、開店時に借りた金融公庫の返済がのしかかる。トラックの運転手として働いている父の稼ぎだけでは、広げた生活を支えることは難しく、給食費や習い事のお月謝の支払いが滞るようになってきた。

どんぶり勘定の家計は火の車となり、督促状などの郵便物が増えてきて、母は食べ盛りの子供を食べさせるために、昼間もできる仕事は何でもした。と同時に財布にお札がない事の焦燥感から、夜の店で知りあった仲間たちの関係で、競馬とパチンコにのめり込んだ。そして当初は反対していた父も、次第に一緒にギャンブルにはまるようになった。

なけなしのお金をギャンブルに注ぎ込んで儲けられる訳がない。

督促状は金融公庫の他、いくつかのサラ金からもくるようになった。そして、電話での督促が頻繁にかかってきたり、怖いおじさんが家まで来て、土足で、家に上がりこんだ時もあった。

今まで仲良くしていた親戚も遠のいていった。督促の電話がリーンと鳴り止まぬ中、「ノイローゼになる!」と言うのが母の口癖になった。

家から現金がなくなり、小銭すらなくなり、食べ物も無くなっていき、両親は仕事かギャンブルで不在の中、小学生と幼稚園の子どもたちで、空腹をしのぎながら親の帰りを待つ…パチンコが閉店になる夜11時まで。そんなこともよくあった。

❇︎

私が小学校高学年ごろのある日、夕方の化粧をしている母を眺めながら、話すタイミングを図る…

「ねぇ、お母さん、もうお米がないよ、夜ご飯どうするの!」

「…」

「ねぇってばー!どーすんの?」

その頃私は家庭科の調理実習で、お米のとぎ方をみんなの前で先生に褒められたことに気を良くしてから、母の代わりに夕飯を作ることもあった。

母は私の顔を見ずに、無表情に化粧しながら低い声で言った。

「お米屋さんに行って、
配給米5キロ、借りてきなさい。」

ん?なに?かりて…

「借りてきなさいって、意味わかんない。」と口答えすると、

「お米屋さんに行って、配給米5キロ貸してください、って言えばいいのよ!
さっさと行きなさい!」

ガーン。

母はすごい怖い顔で言ったので、仕方なくとぼとぼと、手ぶらでお米屋さんに向かった。

私は半泣きになりながら、
『お金を持たずに買い物に行くってどういうことよ!配給米って何よ!戦時中じゃあるまいし…』
とウジウジ考えているうちに、すぐにお米屋さんに着いてしまった。

お米屋さんはすぐ近くにあった。
ドキドキしながら恐る恐る中へ入った。

お米屋さんのおじさんはすぐに奥から出てきて、「何にする?」と言った。昭和のお米屋さんは計り売りなので、お米の銘柄と量を言えばその場で用意してくれるシステムなのだ。

できれば聞こえないでほしい、と思いながら、私は蚊の鳴くような声で
「配給米…5キロ……、
 …
 貸してください…」

最後の方は、やっとこさ声を絞り出した。言いながら惨めさでいたたまれなくなって、何でもないです、と言ってその場を逃げ出したかった。

でも、お米屋さんのおじさんは、私の言葉を一回で理解して、そそくさと配給米を5キロ測り始めた。

滑らかなお米がザザーっと勢いよく紙袋に入り、ぬかの香りがぷーんとした。

おじさんはお米の袋を私に手渡しながら、「お母さんに言っといてよ」と一言だけ無表情に言った。怒られなかった。

私は「はい」と返事をして頭を下げるので精一杯だった。

帰り道、みじめで、情けなくて、我慢してた涙が勢いよくこぼれた。

帰るとまだ化粧をしていた母に、

「借りてきたよ、お米。
 お母さんに言っといてって。」

「今度、お母さんがお金持っていくから、心配しなさんな」

「…うん」

私は泣きながらお米をといだ。


❇︎

およそ30年後、久しぶりに実家に帰ったとき、私はお世話になったお米屋さんに立ち寄った。おじさんはお爺さんになっていたが、まだ元気だった。

「いつも母がお世話になっております」そう笑顔で挨拶し、一番高い銘柄のお米を10キロ、実家に配達をお願いした。お爺さんも笑顔だった。



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長文にもかかわらず、お時間とって下さりありがとうございました。
もう一つ、子供時代の思い出を綴っております。もし良かったら、こちらも読んで頂けたら嬉しいです!



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