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「群れ」の認識を書き換える

「群れ」ってなんだろう。

わたしは、この言葉に関して、過剰なまで拒否反応を示してしまう。「群れる」とかも同じく。

何かがあったというわけでは、決してない。人と違う方がいい、という考えでもない。
一時期、「みんなと同じでいたい」「普通でいたい」と熱望していたこともあるくらい、できたら、「群れの一員」に、なっていたかった。

染まりたくない。

今の自分を作っている大元は、この意識によるものだと思う。自分でも自覚していないほど、自然発生的に生まれてくるこの思いは、止められなかった。

小学生高学年から、ずっと、わたしは、集団の立ち位置の中で、俯瞰した立場にいた。
社会人になってから組織の中に属していても、特定のグループに入ることになく、中立でいることを好んだ。それは、孤独であったとも言えるかもしれないが。

自分の世界を脅かされたくない、染まりたくない。そんな気持ちが強いわたしにとっては、集団の力を脅威に感じていたのだろう。

たまたま、読んだ本が、「集団の中の個」をテーマにしていた。
まさに、今、考えたいテーマであったため、興味深かったのだが、「群れ」に対する考え方が、かなり自分の認識とずれていて、読み終わった後、多少なりとも消化不良を感じていた。

「群れ」は、同じ意識、同じ形、同じ年齢、同じ境遇から、集まった組織という認識でいた。グループになる場合においても、自然とそういう風になりやすい性質があるのだ。「同じ」ということが「安心」に直結するから。

読んだ本の「群れ」の記述はこうだ。

人間には、やっぱり、群れが必要。強制や糾弾のない、許し合える、ゆるやかで、温かい絆の群れが。人が一人になることも了解してくれる、離れていくことも認めてくれる、けど、いつでも迎えてくれる、そんな「いい加減」な群れ。

やっぱり、群れが必要。
そうはわかっているのだけれど、最終的な答えがこれでは安直すぎはしないか?

群れの性質を、ここで言う「いい加減な群れ」にするためには、ある条件が必要となる。

「個」を出すことを厭わない人間が主体となっていること。

仕事など、何か目的を成し遂げる必要がある「群れ」ならば、その目的の方向性を、個が十分に理解し、力を発揮しようとすること。

群れの前に「個」の確立なのか、
群れの力を借りて「個」が確立されるのか、
どちらのパターンもあると思うが、

「いい加減な群れ」の形は、勝手に生まれるものではないし、その「群れ」の中で安住するのも、わたしは「御免」だと思った。

理想的なのは、間違いなく、「強制や糾弾のない、許し合える、ゆるやかで、温かい絆の群れ」である。
その群れを作るべく、まずは、自己を確立していくこと。(または、その努力に努めていくこと)
そして、そうして集まった個が、群れの力を借りて、「自分らしく」生きる共同体を形成すること。


自分の「群れ」に対する認識を知り、
多くの気づきを与えてくれた本でした。

引用:梨木香歩著「僕は、そして僕たちはどう生きるか」

#エッセイ #読書 #考え事 #哲学



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