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【掌編小説】合法だけどやべーやつ

「私ね、まだ合法だった頃のやべーやつ、使ったことがあるんですよ」

 店内の1番奥のテーブル席をはさみ、対面に座ってやべー話を口にしているのは私の上司、アララギさん。

 アララギさんは、部下である私にも敬語を使ってくれる。一人称は「俺」ではなく「私」。

 アララギさんは体格ががっしりしているので、遠目から見るとまるで大型の冷蔵庫のよう。

 最近は多忙なためか美容院に行く暇がないようで、ストレートの髪を肩につくかつかないかくらい伸ばし、前髪はセンターパーツにしている。つやつやとした髪には天使の輪。

 やきとんの串からシロを箸の背でおろしている私にアララギさんは「瀬戸さん、ありがとう。直箸でもぜんぜんいいですよ」とにっこりと顔をほころばせる。いい人オーラがアララギさんをふわんと包み込む。

「あ、はい」

 箸をくるりと回転させ、今度は箸の先端でカシラをひとつずつ串から解放させる。ほら行った行った。我々の胃袋を満たすための丸っこい行列。

 金曜日夜8時の池袋のやきとん屋は盛況で店内が煙でもうもうとしているが、私はそれが嫌いではない。

 同じ煙であっても安タバコの紫煙は正直勘弁してほしいけれど、炭火焼の煙はどことなく安心するし、空腹もくすぐるし、悪い気持ちにはならないからだ。

 先ほどやきとん屋の敷居をまたいですぐのところに当社の人気商品の消臭スプレーが設置されていて、アララギさんとニヤニヤしながら店内に案内されたところだ。

 アララギさんはミッツマングローブに似ていると自称しているが、どう見てもロバート秋山に激似である。
 しかし、職場の同僚は誰1人としてぜったいにロバート秋山似とは言わない。だってそれもう悪口だもの。

 例えば社内の誰かがロバート秋山に似てますね、と伝えたらきっとアララギさんはロバート秋山のモノマネの一つくらい披露してくれると思う。気遣い屋さんだから。
 もしそんな事態に陥ったら私はすぐさま近寄り友近の真似をして、2人で地獄に落ちる覚悟でいる。

「瀬戸さん、それで、そのやべーやつの話なんですけど、なんでもないものが、むちゃくちゃ笑えてくるんですよ」
「なんでもないものがですか? 箸が転がってもおかしい的な感じです?」
「そうそう。冷蔵庫のコーラのペットボトルが目に入った途端、存在そのものがおかしくて笑けてくる、みたいな」
「えぇ? それほんとうに合法でした?」
 いぶかしげな表情を彼に向けると
「その時代には」
 アララギさんは真剣な顔でうんうん頷きながらやきとんをつまんだ。2人で食べるなら串のままでもよかったですかね、なんて言いつつ。ですね。

「そういうのきめきめのときって、やらしーことしたりとかしちゃったりしました?」
「ふたりで、という意味ですか?」
「ひとりでも、ふたりでも」
「あー、やらなかったですねえ。惜しいことをした……のかなあ」

 「かなあ」のところでアララギさんの目線がちょっと泳いで、壁に貼られたビールのポスターに移った。
 ちょうどアララギさんのグラスが空いていたので近くにいた店員さんに目配せしたのち、生中を注文する。
「生中頂きました!ありがとうございます!」
 声のよく通る店員さんがホールスタッフにオーダーする。よろこんで! とスタッフがほうぼうで輪唱する。

「私、女性経験ないんですよ」

 生中がテーブルに運ばれると、アララギさんはフー、と息を吐き、視線を落としてつぶやいた。集中しないと聞き取れないほどの小さな声で。

 アララギさんの瞳は美しい。その白目は数杯のビールでは濁らない。私はこんなにも澄み切った白目をかつて知らない。
 彼の薄茶色の虹彩の美しさ、流し目の麗しさについて、社内の誰にも伝えたことがない。

 これらは私だけが理解していれば良く、誰かに良さを知って欲しいたぐいの話ではない。くれぐれも。皆さんからすれば、せいぜいロバート秋山だと思ってくださっていればいい。その方が私にとって都合が良い。

 突然の打ち明け話にまじか、と内心思ったのと同時に、先ほどのアララギさんの目の揺らぎを思い出す。

 少し、動揺していた? それとも「俺の恋バナに何人たりとも触れんじゃねえ」の意味なのか?
 あんず酒ソーダ割りを口に含めながら、垂れ下がったロングのストレートヘアを耳にかけ、アララギさんの意図するところをしばらく考えた。

 私の推測では、アララギさんは3、4つ歳上のキレイ系おねえさんと数年付き合っている想定だった。

 そうでなければ18歳から女性経験をはじめ、2年に1回恋人が変わる計算で8人くらいは交際してそうな雰囲気はあった。

 しかしこれまでアララギさんから家族の話や友人の話はあっても彼女や元カノの話は聞いたことがない。この職場に入社して8年経つが、一度もない。あながち今のは嘘でもないのかもしれない。

「アララギさん。今ここに、合法のやべーやつがあったとして」

 アララギさんは目の前のポテトサラダを小皿に取り分け、お手本のような箸の持ち方でちまちまと口に運んでいる。指が長い。手先の器用な人特有の指先をしている。指の動きだけを何時間でも見ていたいと思わせる人にはそうそうには出会えない。

アララギさんの澄んだ瞳をじっと覗き込みながらゆっくりと口を開いた。

「今のアララギさんだったら誰と一緒にそれを使いたいですか?」
「……………はい?」

 気づいてくれるかな。今、かなりいい球で、かなり打ちやすい球を投げているんだけど。

アララギさんが息を吸い込んだ瞬間に、気管支にポテトサラダが入ってしまったらしくえほえほとむせかえした。

「………えっと、うーんっと、あ、瀬戸さん、追加で鶏皮ポン酢頼んでいいですか」
「……もちろんです。おにーさん! 注文おねがいしまーす!」
「はい、よろこんで〜!」

 空気が少しだけ変わったことを、空気を読むのが抜群に上手いアララギさんなら感じ取ったはずだ。ほら見て、いまアララギさんは両手で顔を覆ってシンキングタイムしてる。

 現在アララギさんの頭の中で考えていることが、私には手に取るようにわかる。

①目の前の部下と(お試し含めて)付き合う
②面倒だから当たり障りなく断る
③うやむやにする

 の、いずれかだろう。私ならよっぽど気がなければ②を選択する。
 しかし断られたところで真面目な告白でもなし、断られても傷つくような年齢でもなし、私は割と長く生きてきちゃったな、なんてことをこの沈黙の中で考えてた。鶏皮ポン酢に箸を伸ばす。

「きょどってしまうのです」

 私が鶏皮ポン酢を咀嚼しているときにアララギさんはふいに口を開いた。

「どうしていいか、わからなくなるんです。女の人と2人でいると」
「合法のやべーやつ使ったら、らりってるから気が紛れるのではないでしょうか?」
「……しかし、合法のやべーやつはもう入手できませんので、シラフとなると誘うのはさらに難易度が上がりますね。というか、らりってる状態から誘うのもだいぶやばい人ですが」

ほらね、アララギさんはちゃんと私の質問の真意を理解している。このままラリーを続けよう。

「今、性自認フィメールのストレートとふたりきりですが、アララギさんは全然きょどってませんけども?」
「これはただの職場の飲みの席ですからね」
「確かに今はそうですね」

 私は髪をかきあげてから席を立つと、あんず酒ソーダ割りを手に持ち、アララギさんの横に掛け直した。アララギさんは横にスライドせず同じ位置で留まっている。というか、微動だにしないで固まっている。

「僕といても、あまり面白くないかと」
「ふたりでいたらまた違う世界が見えてくるかも」
「箸が転がっても爆笑できるような?」
「そうです。コーラでウケて、一人称が『僕』になっちゃう世界線です」

 アララギさんはもう一度シンキングタイムのポーズをした。人の耳がじんわり赤くなっていく様を、久しぶりに見た気がする。
 その耳に、想いを込める。

「新しい世界、一緒に見てみたくないですか」

 やきとん屋のドアを閉める前、当社イチオシの消臭スプレーでお互いの煙を消して、この夜私は、アララギさんの香りと味をはじめて存分に堪能した。
 合法だけど、やべーやつ。
 とっておきの、誰にも言えない、トリップしちゃう、やべーやつ。

(おしまい)


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