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五反田アイリッシュコーヒー

村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読み返すとふとあの人は生きているだろうか、と思う人がいる。大学で日本文学を教えてくださったO先生のことだ。

文学部の学生はいちばん初めに習うことがある。
それは、「純文学とは作者が意図的に作品を作っているものだ」という掟。
灯台から射すライトが決して消えないように、文学を扱う者の心得のように何度も繰り返し教えられた。


「純文学というものはすべての事柄を作者が意図的に作り上げた世界である。無駄な文は存在しない。無意味な登場人物など存在しない。そして、作品の構造を作者の意図をありありと暴き出し、新たな切り口でテキストを読み解いていくことこそが、君たちの使命だ」

槇原敬之に少し似た大柄な男性のO先生(わたしたちは教授と言わずに先生と呼ぶことが多かった)はマイクを使って静かに、しかしはっきりとした口調で大学1年生のわたしたち学生に向かって言った。

わたしはO先生の現代日本文学の演習が好きだった。
純文学というものは、はじめはやや飲み込みづらく「それで、なにが言いたいの? どうしてそんな中途半端なところで話が終わるの?」と思われる作品が多い。
しかしO先生の手にかかればたちまち不可解なテキストは分解され、洗浄され、組み立て直され、新しい目線で読み解いた心地がして好きだった。

もっともじぶんがひとつの文学作品と向き合ったときにはO先生のような美しい切り口から構造を洗い出すことなんてできなかったけれどそれも仕方ない。
それまで「作者の意図的な構造」を意識して読み解いたことなんて一度もなかったのだから。

O先生と話すとき、先生はわたしのことを「君たち」と言った。
わたしひとりで話しかけるときも「君たち」と言った。
わたしは、常に複数形だった。

大学生にもなると道端で先生に会っても気軽に声をかける学生もなかなかいない。だけれどもわたしは幼かったのでがんがんに話しかけにいった。O先生も気さくな方だったので、道端で話すのもアレだからお茶でもしようかと誘ってくださった。

駅近くの地下に潜った先の喫茶店は薄暗く、それだけで大人になれたような気がして胸をときめかせた。
「ここはね、めずらしいコーヒーも置いてあるよ。アイリッシュコーヒー、飲んだことある?」

ないです。じゃあそれを。

ほどなくして運ばれたアイリッシュコーヒーは甘くてほんのりウィスキーの香りがして、飲みほしたらそのついでに先生のことまで好きになってしまいそうだった。

O先生は言う
「君たちは村上春樹は読むの?」
はい、と頷く。
「『ねじまき鳥クロニクル』は読んだ?」
はい、よくわからなったですがと答えた。
「僕はね、『ねじまき鳥クロニクル』を読むとどこか深くて暗いよくわからない世界に引きずり込まれてしまう気がするんだ」

先生はもともとあまり目を合わせてくれないけれど、いよいよ視線を逸らされてどこか遠いところを見ているようだった。

純文学を容易に紐解ける人はわたしには難解に思われる村上春樹の文学もするりするりと解読し、そして深い深い井戸の中へと誘われてしまうのだろうか。こわい。読解力なんてなくてよかった。

しばらくして学内の掲示板にO先生の講義の休講のお知らせが貼られ、何度か休講が続いたあと講義の中止が告知された。わたしたちは簡単な読書感想文を提出し単位を取得した。

それからO先生の消息は誰も知らない。
深く冷たい井戸の中か、見知らぬホテルの見知らぬ部屋か、はたまたクレタ島に行ってしまわれたのか。
O先生、いまも「わたしたち」は村上春樹を紐解けないままでいます。


※このお話は実話にフィクションを交えております。

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