占いを信じてないけど信じてる

趣味で占いをしているけれど、占いを信じているか?と聞かれると、素直に頷けない。

まず、根拠のある占いというものは確認できていない。当たるなぁと思うものも、当たることは事実でも、根拠は無い。

ただ、根拠がないから意味がないかと言われれば、それもまた違う。信じてみるというスタンス、楽しんでみるという態度、入ってみようという世界観、そういうのから得られるものはある。

根拠や理由が不明でも、なんとなくその世界観の流儀に従うことで、何かを感じ取れることはある。

知識無しで美術館に行ったり、寺社仏閣巡りをしてもある程度楽しめる。それは世界観の流儀に従って、何か特別な文化があること前提で、ありがたく受け取ろうとするから、何かしらの気持ちが心に浮かんでくる。

初詣もそうだ。正直、初詣の意味や効果は分からない。でも初詣をする世界観や文化は特別で、なんとなく良いものに感じられるから、意味や効果が分からなくたって問題ない。

占いも一種の世界観ゲーであり、根拠や効果は分からない。分からなくても存在してて良いものだ。

趣味とはいえ、占いをする者として、占いへの態度をどのように定めたらいいのか迷子になる時がある。特に人に対して占いをするときは、「いかにも占いを盲信してマスターしてる人」の雰囲気でいたらいいのか、「占い愛好家ではあるが盲信していない、ある意味地に足ついた人」の雰囲気でいたらいいのか、迷子になる。

個人的には後者でいたいのだけども。メディアに出てくる占い師さんの中でも、批評家のようなタイプの地に足ついた占い師さんもいれば、完全にあっちの世界に生きている占い師さんもいるから、どちらが正しいとかはない。

世界観ゲーなのだから、地に足ついた態度はむしろ現実味が強すぎて微妙かもしれないし。

占いは奥が深いけど、深すぎて学びきれないし、解釈も人によりけりだし、自由度が高すぎるし、本当に分からなくなる。でも分からないと思い続けられるからこそ、誠実さを保ち続けられるような気もする。

「わからないなぁ、でも何度も戻ってきてしまうなぁ」というような、腐れ縁みたいなものが、自分にとってのやるべきことかもしれない、と思う最近です。やっぱり縁のあるものは何度手放しても自分のもとに返ってくる。

書く仕事もそうだし、占いもそうだし、手放したつもりでも、何度も返ってくる。そういうものは「腐れ縁だなぁ、やれやれ」と思いながら、得意なんだか苦手なんだから分からなくなりながら、末永く付き合っていくものだ。

信じてるんだか信じてないんだか自分でも曖昧で答えにくいけれど、占いというものはどうもわたしに返ってくるので、付き合っていくしかないなぁという気持ちである。

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