エネルギーが尽きたそのさらに底にあるのが「詩を書くこと」

うまく歌えなくても、音楽を作れなくても、絵が描けなくても、お金をうまく生み出せなくても、小さな失敗が多くても、気分が悪くても、それでも「書くこと」は残されている。

書くことは誰にでもできること。いろいろな表現の中で、一番簡単なこと。誰にでもできるから、「できる」とすら思わない。

書くことで、誰かに何かを届けられるのか。分からないし、届けるつもりもほとんどない。ただ、自分の心を整理するために「書くこと」をやっても良い。言論の自由。書くことは誰も奪えない。たとえ刑務所にいたとしても書くことは奪われない。

何もできなくても、何もしてなくても。何者でもなくたって、書いていい。誰に許可を得るわけでもなく書いていい。

書いちゃいけない内容もない。SNSが日常の延長になってしまった今、ネットの中ですら、周りの目を気にして、書けなくなっている。それは悲しいことだ。

現実世界から逃げるようにしてインターネットの世界に住み始めたのに、インターネットの仕事をするようになり、インターネットが現実世界と大差ないものになってしまった。インターネットなのに現実世界のように気を使ってしまう。架空の「わたしを見張る人」がいて、その人がずっとわたしを見張ってる。あぁ、昔なら書けていたことも、わたしを見張る人がいるから書けないなぁ。

本音を書きたいけど、あんまり見られたくないけど、誰かには見てほしい。それを満たす場所ってそんなに多くないよね。

見てほしいのは誰なのか?

見てほしくないのは誰なのか?

本心だけで生きたいけれど、そういうつもりで生きてるけれど、理想がわいてくると、どうしても理想と現実の間に乖離が生まれる。理想が生まれると、「理想とは違う現実」が色濃くなっていく。理想と現実の乖離はなるべく早く無くしていきたい。乖離が無くなるのが先か、わたしが理想を諦めるのが先か。

本当に言いたいことは、どこに書こう?ひとつも嘘つかずに、でも誰とも気まずくならずに、健全に自分のために生きていたい。飲み込まれてしまった言葉はどんな風に供養しようか?

そうやってドロドロしたマイナスのエネルギーから生まれるのが綺麗な詩だったら、わたしも救われるんだろうか。

そろそろ詩を書こうか。わたしにとって詩は痛切なものだ。

そのままの言葉で書いてしまうと自分も他人も傷つけてしまうときに、仕方なく、本音の形を変えて表現したものが詩である。比喩だから。気持ちの比喩をするものだから。

言いたいけど言えないこと、気まずいことを、全部詩にして世に解き放とう。

わたしが「詩を書くこと」にすがりはじめるのは、たいていあまり元気ではないときだ。あまりどころか、全部のやる気がなくなったあとの、そのさらに下の時だ。

詩よ、わたしの潜在意識から羽ばたいて、綺麗なふりして飛び立って。そしてわたしの肯定しがたい気持ちさえ褒められるものに変換して、「いいね」って誰かに愛でられる存在になっていて。

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